きまぐれボックス
昇
なにもないところから
眼を開けると真っ白だった。
認識に足る色がなく、聞き分けるべき音もなく、何よりも発するべき言葉もなかった。
概念の欠如。
人が人であるには触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚にて概念を認知し、身体で集めた情報を他者に伝えることが不可欠であった。
彼は他者を渇望した。なにもない空間に独りでいることの恐怖と深い孤独が身体の芯に生まれた。感情と呼べるものの発露である。彼は誰かに触れたかった。喜びと悲しみを分かち合いたかった。彼の口輪筋は発声を求めるようになった。
飢えと渇きがあった。でたらめに身体をうごかし、恐怖と飢えと渇きを紛らわそうとした。あいかわらず視界には何も映らなかった。
彼は発狂した。神経の昂りが頂点に達した。何も見えないのに、これ以上何も見たくなかった。なにもないという事実に彼は耐え難かった。
彼は自らの眼をえぐりとった。強烈な痛みが彼を襲った。白が黒に変わった。痛みという初めての感覚を処理できないままでいたが、手のひらには生ぬるい感触があった。彼の手は液体と球体を認識した。しかし彼はもう何も見ることができなかった。色と形を認知する力はすでに失われてしまった。
彼は自らの眼を口に入れた。ぐにゃっとした感触と水分と塩分がささやかながら喉を潤し、胃を満たした。その行為は生命のリズムだった。
彼は自らを認識した。自分は自分であり白でも黒でもないのだと確信した。それは彼の恐怖と孤独を癒した。やがて全身に疲れと睡魔が溢れた。
そして彼は眠りへと身をまかせた。
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