第五十七話 蒼茫
(1)
酷暑の角が取れて少しくしのぎやすくなってきたというのに、私の気分はどうにも優れなかった。
「ううむ……」
執務室の机の上に片肘を突き、顔をしかめてうなっておったら、ソノーがひょこっと顔を出した。
「ゾディさま。どうなさったんですか?」
「ああ、ちょっとばかり厄介な依頼が持ち込まれてな。どうしようか思案しておるところじゃ」
「ふうん」
おお、そうじゃ。
「のう、ソノー」
「はい?」
「お主も学年だけから言えば、もうスカラを修了ということになってしまうが、どうする?」
同じ年回りの子がおらず、いかにも年長だったメイとは逆で、ソノーは実際の年齢を上回る学年に入っておる。年回りを揃えるために修了を遅らせたところで、なんの支障もない。
少しばかり考え込んでいたソノーであったが、やはり現時点でスカラから離れるのは辛いと判断したのであろう。小声で打診が来た。
「もう一年……よろしゅうございますか?」
「かまわんよ。優しいお主のことじゃ。どの学年でもすぐに友ができるじゃろうて」
「はい!」
ほっとしたのであろう。笑みを取り戻したソノーが、こくっと頷いた。
「私も、そうしてもらうととても助かるのじゃ」
「なぜでございますか?」
「そろそろ、エルスをスカラに通わせたい」
「まだ少し早くはありませんか?」
「いや……」
思わずしかめ面になってしまう。
「あれは、女王様そのものじゃ。今のままスカラに放り込むと、えらいことになる。早めに慣らさぬと」
「ううう」
その場に屈み込んだソノーが頭を抱えた。
「そうだー。確かにー」
「じゃろう? 来たばかりのレクトのようにひねておらん分、逆にひどく厄介なことになる。ここでは許されてもスカラで許されぬことなど、山のようにあるゆえな」
「そうですよねえ」
拳で机を一つとんと叩いて、席を立った。
「まあ、学長とも相談する。急いで備えねばならんということでもない」
「はい! あ……」
「うん?」
「依頼の方は?」
「ああ」
もう一度椅子に座り直して、でかい溜息を足元に転がす。
「ふううううっ! どうしたもんかのう」
◇ ◇ ◇
それは本来とてもめでたい話のはず。だが、私へのたった一つの依頼が慶事を台無しにしようとしていた。
どれほど考え込んでみたところで妙案が浮かばぬ。合議にしようか。私の他にアラウスカ、ペテル、そしてソノー。相談役と執事二人に話を聞いてもらうことにする。執務室に三人を呼んで話を始める。
「まず」
「ああ」
アラウスカがぐいっと身を乗り出した。
「好ましくない依頼ではない。むしろ、一般的には歓迎すべきことなのじゃ。私も、本人からの強い要望があれば、喜んで依頼を叶えたい」
「珍しいね。積極的に依頼を承けないあんたが」
「まあな。チルプの縁談にかかることじゃからな」
「えええええーっ?」
仰け反って驚く三人。まあ、そうじゃろ。チルプには、他のネレイスと違って伴侶を見つけたいという強い願望がない。まるっきりないわけではないんじゃが、隻腕の上に乾いた性格なので、本人が半ば諦めておる。まあいいやという感じじゃな。そのまま時が過ぎ行けばよかったのじゃが、ひょんなことから運命の
きっかけは、レギオンの妃探し。私の勧めを王が容れ、花嫁候補の品定めを手伝えということでネレイスたちに召集がかかったのじゃ。王の覚えが良ければ自分たちにも素晴らしい縁談が降って湧くかもしれぬと張り切ったネレイスたちは、手分けして花嫁候補の評価に勤しんだ。駆り出されたネレイスの中には、もちろんチルプも入っておった。飄々としたあやつのことじゃ。特に張り切るわけでも気負うわけでもなく、淡々と姉たちを手伝ったに違いない。ところが……。
王への報告の際、末席に控えていたチルプを見初めた重臣がおったのじゃ。容姿だけならば、チルプを上回るネレイスは大勢おる。じゃが、ふわりと抱きかかえるような風の如き
ネレイスたちの上申が終わったあとでチルプのみが呼び戻され、その重臣から直接求婚されたそうな。まさに、絵に描いたような玉の輿じゃ。求婚者オルデン卿は怜悧で誠実な青年将校であり、王も大きな信頼を置いておる。また、王に仕える重臣の中でもとりわけ家柄が良い。
姉たちであれば、二つ返事で求婚を受諾するであろう。じゃが、チルプは渋った。求婚に条件がついておったからじゃ。
『右腕を整えて欲しい』
……と。そしてチルプからではなく、オルデンから私に依頼があったのじゃ。チルプの右腕を魔術で整えてはくれまいかとな。
「うーん、なるほどねえ。そういうことかい」
「ああ。チルプ自らが望むのならば、右腕の補完に魔術を行使することに異存はない。地上で暮らしておった時にはそうしておったからな。造作ないことじゃ」
「ああ」
「だが……」
じっと考え込んでいたペテルが、ふっと息をついた。
「そうか。チルプさんは、右腕のない自分こそが本来の自分だと思っている。必要のない右腕をなぜ整えなければならないのか。そこが納得行かないんですね」
「そうじゃ。されど……」
今度はソノーが、私の飲み込んだ言葉を思い計った。
「身分差を考えると、求婚を断るのは不敬に当たりかねない。自分のことだけでは済まなくなる。そういうことですね」
「乾いてはいても、あやつの
「ううー、そっかあ」
「どうしたものかと思うてな」
その場でぽんと結論の出ることではない。それぞれに持ち帰って考えてもらうことにする。
「済まんな。しょうもない依頼であればばっさり断るんじゃが、レギオンどのとの連名での正式依頼じゃ。むげには扱えぬ」
「そうだね」
私同様に黙り込み、腕を組んだままで、三人がひっそりと執務室を出て行った。
「ふう……」
◇ ◇ ◇
いろいろと考えてはみたものの、妙案がどうしても浮かばなかった。私だけではなく、残る三人も揃って音をあげた。万策尽きたと言ってもいい。国家を救う手立てはどこかここかにあるのに、たった一人を手助けすることすら能わぬというのは、魔術師としてまっこと寂しい限りじゃ。まだまだ修行が足らぬ。
「なにしろ、誰も悪人がおらぬゆえな」
思慮深い王。誠実な求婚者。優しいチルプ。誰かを力尽くで曲げようとする不埒な者が誰もおらぬ。王とオルデンの依頼もまた、チルプを案ずるがゆえのものじゃ。
隻腕の花嫁を娶ることに婚家はよい顔をせぬ。元々身分差のある婚姻じゃ。隻腕を理由にチルプが粗末に扱われるようになれば、それは婚姻とは言わぬ。それゆえ右腕を整えて欲しいというオルデン卿の依頼はあくまでも心配ゆえであり、決して見栄や体裁ゆえではない。
されど、チルプにとってそれは余計なお世話じゃ。あるがままの自分を受け入れて欲しい。そうでなければ婚姻の意味がない。気持ちは痛いほどよくわかる。家政婦を頼んでおった時にあやつが右腕不要を強く主張しなかったのは、地上生活の勝手が水中とは違うから。チルプは、両腕が揃うことを一時的状況だと割り切ったのであろう。
「はあ……」
長い結婚生活を右腕のあるなしのみで振り回されることは、不幸以外のなにものでもあるまい。
つらつら思い悩んでいる間に日が沈み、窓の外が蒼茫で塞がれ始めた。透き通るような美しい青。その青はどんどん濃くなり、最後は何もかも隠して飲み込んでしまう。その青の向こうに置かれると、チルプはもう見えなくなるじゃろう。
「メシだよーっ!」
感傷をぶち壊すように、マルタのでかい声が響いた。
「やれやれ。あやつはどこに在っても蒼茫には染まらんな。マルタくらい意思がはっきり見えておれば、うんと楽なんじゃがの」
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