第三十五話 彗星
(1)
「ふむ……今年は冬の訪れが少し遅くなりそうじゃな」
秋の華やかさをいささか残しておる庭。そのおちこちを、防寒服を着たエルスがぱたぱた走り回っている。
雪の早い年であればもう積雪がある時期じゃ。されど雪の気配は微塵もなく、霜すらもまだ到来しておらぬ。まあ、時が逆回りすることはないゆえ、いずれ寒波がすっぽりとここを覆うじゃろう。それまでの猶予を多めに与えられるのは、ありがたいことじゃ。
木の根元にしゃがみんでいたエルスが、私を呼んだ。
「ぞいー、ここきてー」
「ほいほい」
エルスも、すっかり言葉が達者になったのう。時の流れはほんに早いものじゃ。まだ赤子の頃は性格がはっきりしておらなんだが、エルスは今やすっかり女王様じゃ。アラウスカはべた可愛がりしておるし、マルタはエルスのしたい放題にさせておる。ソノーもメイも優しいゆえ、厳しくは叱らぬ。レクトも兄貴風は吹かすが、女の子相手に強くは出られぬ。結果、私一人が悪者じゃ。とほほ。
それでも、子供らがスカラに行っておる間はちびっこがエルス一人になる。口うるさい私が相手でも、おらぬよりはましなんじゃろうて。
「エルス。なにかおもしろいものがあったか?」
「これなにー?」
「ふむ?」
さっきから、まるで犬のように庭のあちこちを手で掘り返していたエルスが、土まみれの手で何かを指差した。
「ほう?」
それは、木化したアメリアのすぐ側に落ちていた小さな青銅の板。裏表に何やら文字が刻み込んである。少しく錆びていたが、それほど傷んではおらぬ。刻み込まれた文字ははっきり読める。
「なんと。こんなところに落ちておったのか。道理でいくら探しても見つからぬはずじゃ」
「ぞいー、これなにー?」
「そうじゃな。エルスの好きなものはなんじゃ?」
「おかしー!」
わっはっは! はっきりしておるの。
「これはな。私が好きだったものを刻んである板じゃ」
「おかしー?」
「ま、そんなもんじゃな」
「たべれるー?」
「無理じゃよ。ずーっと前のものじゃからの」
「うー。いらない」
エルスが土の上にぽいっと放り投げた板を拾い上げる。
「まあ、最初は誰でもそこからじゃ。最後もそこで終われれば」
私は、青銅の板を手のひらの中に握りしめた。
「一番幸福かもしれぬな」
◇ ◇ ◇
ソノーたちがスカラから戻ってきて、屋敷はいつもの賑わいを取り戻す。兄姉たちの帰りを首を長くして待っていたエルスは、さっさと私から離脱して遊び相手を捕まえに行った。現金なやつよのう。はっはっは。
執務室に戻った私は、一人の壮年の男と膝詰めで話をしておった。
「ゾディアスさま。いかがでしょう?」
「うむむ」
依頼自体は筋が通っておるし、報酬もきちんと支払われるであろう。ただ……。
「難しいのう」
「難しい、ですか」
「そうじゃ。サウロスどのの依頼を叶えること自体は容易きこと。ものの数分で果たせまする」
「はっ!」
「じゃが、私の手を離れると勝手に話が一人歩きしかねぬのが、ちとな」
「はい」
目の前の男は、依頼人本人ではなく使いの者じゃ。そやつに情報を取捨選択する権限がない以上、私が魔術で調べたことをそのまま依頼人に伝えるであろう。正確に、な。じゃが、そのことが極めて厄介なのじゃ。
依頼人は病気で臥せっており、直接ここを
情報を求める根底にそやつに対する敵意があるのならば、そんな依頼は飲めぬ。私の魔術をくだらぬ政争の具に使われることなぞ、まっぴらじゃ。じゃが、そうではないと言う。
前王族が箸にも棒にもかからぬ俗物揃いであったがゆえに、国民はとんだとばっちりを食らった。新たな指導者が民を導くだけの高い資質を備えておるのであれば、旧臣揃って新王に協力し、クレスカの再興に力を尽くしたい。しかし、卑しい魂胆を隠して国の乗っ取りを図る
もっともじゃな。
「まだ本格的な寒波が来ぬうちに動くか」
「は?」
「いかなる事情があるといえども、本来は依頼人から直接告げられた依頼以外請けられませぬ。それが叶わぬのならば、私が出向かねばならんでしょう」
「よろしいのですか」
「はっはっは。そなたらの国に、多大な迷惑をかけてしまいましたからの。馬鹿王であっても、王は王じゃ。竜難を避けるためとはいえ、王族を除いてクレスカを乱したことには謝罪をせねばなりませぬ」
使者は、私の口から謝罪という言葉が出たことに肝を潰していた。
「な、なんと恐れ多い」
「いやいや。これから伺いましょう。直接サウロスどのとお話をさせていただいて、能うるならばその若者とも話をしましょうぞ」
「えっ?」
使者が、あんぐりと大口を開けて私を凝視している。
「ははは! そこで尊大な態度を取るようなやつであらば、しょせんごろつき。信頼に値しませぬ。じゃが礼節を備えておる者ならば、資質の基準は満たしておる。あとは話をしてみねば中身が分かりませぬゆえ」
「なるほど」
「真意は魔術で知ることではありませぬ。いや、魔術を使って真意を知り得たところで、何の意味もありませぬ」
「なぜでございましょう?」
「それは変わるものゆえな」
「あ……」
「前王とて、凡庸とは言え王じゃ。その地位にある者としての重い責務はわきまえておったはず」
「はい」
「じゃが、ゲウムがそれを全て捻じ曲げた。変わってしもうた」
「さようでございますな」
使者も、これまでのゲウムの愚行が腹に据えかねていたんじゃろう。ぎりっと眉を吊り上げ、顔を真っ赤にして怒りを示した。国民に疎まれる王族は、ほんに哀れじゃのう。死してなお、恨みとともに語り継がれるとはな。
「同じ愚を繰り返すと不幸になる者が増えますゆえ、直々に」
「誠に申し訳ない」
「いや、私が王になるわけではないからの。はははっ」
からっと笑い飛ばした私につられて、使者の男も苦笑を漏らした。
「それでは、すぐに参りましょう」
「お手数をおかけいたします」
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