ストレイ・キトゥンズ
機乃遙
序章 ”オーバーチュアー”
1
マットレスが敷かれただけのベッドに腰掛けて、アタシは部屋の中を見回していた。もぬけのからになった兄の部屋を。家族がいなくなるってどんな感覚なんだろうと思いながら。
まだ小学生のアタシには、一人暮らしなんて想像もつかなかった。一人でご飯作って、洗濯して、掃除して。しかも宿題までやって、学校に行って、テストも受けて……。アタシには信じられないことだ。でも、兄がこれからそうなるというのだから、途端に現実味が湧いてくる。
お兄ちゃん――
部屋の中にあるのは、そんな涼しげな空気と、本のなくなった勉強机。ゴミのなくなったゴミ箱。布団のなくなったベッド。そして端に寄せられた「持っていけないモノたち」の集まりだった。アタシはそんなかわいそうな集団を見ながら、ぼんやりと考え事をしていた。
兄が大学に進学し、一人暮らしを始めるにあたって、この部屋はアタシのものになる。やっと自分の部屋がもらえるのだ。これまでは自分の部屋なんてなくて、勉強するならリビングの机だったし、友達と遊ぶなら食卓前のテレビのとこだった。プライバシーなんてあったもんじゃない。
でも、それもあと数日の辛抱だ。
しばらくして、お兄ちゃんが部屋に戻ってきた。兄は両手に持っていたゴミ袋をコップに変えていた。中身はオレンジジュースだった。
「ほら、奏純」
そう言って兄は、左手に持っていたコップをサイドテーブルに置いた。右手に持っていたほうは、そのあとすぐに彼が飲み干した。
アタシはコップを受け取って、スズメが水を飲むみたいにゆっくりとすすり始めた。
「お兄ちゃんさ、あのすみっこにあるやつどうするの?」
「あれか? あれはさすがに持ってけないよ」
兄は空のコップを机に置いて、椅子に腰を下ろした。部屋のすみに残されたモノたちは、確かに持って行くのが面倒くさそうだった。
一つは、銀色をしたCDコンポ。たしか兄が中学生の時に買ってもらったものだ。アタシが物心ついたころには、兄の部屋からは音楽が聞こえるようになっていた。アタシには何の曲だかサッパリで、興味もまったく無かったけれど。
二つ目は、コンポの隣に鎮座する木箱だ。大工道具でも入ってそうな大きめの木箱は、実のところ兄が自作した棚だ。中身は大量のCDコレクション。それも英語の曲ばかり。アタシはこのコレクションを見るたびに、近頃話題の「CDが売れない」という話が信じられなくなる。
たしかに、大きなコンポにCDの山はかさばりそうだ。でも、あれだけ音楽を聴くのが好きだった兄がこの二つを置いていくのは、すこし意外なことに思えた。
「俺、こないだ新しいウォークマン買ったしさ。とりあえずコンポとCDは置いてこうと思って。奏純、いるか?」
「コンポはほしいかな」
「CDは?」
「うーん……」
アタシはすこしのあいだ迷ってから、首を横に振った。
「そりゃまいったなぁ……。母さんってば、置いてったもんは全部捨てるとか言ってるんだよ。奏純の部屋になるんだし、これを機にゴミはみんな捨てろってさ」
「CD、とっておきたいの?」
「当たり前だろ? これ揃えるのにいくらかかったと思ってるんだ」
「それもそっか……」
「だからさ、奏純。コンポあげるから、このCDだけは預かっといてくれないか。物置に置いとくだけでいいからさ」
言って、お兄ちゃんはアタシに向かって頭を下げた。そんな姿を見たのは、母に赤点を隠してたのをアタシが見つけたとき以来だった。
さすがにそこまでされたら考えてしまう。お兄ちゃんのことは嫌いじゃないし、なによりコンポは欲しい。別に好きな音楽があって、CDも持ってるというわけじゃないけど。でも小学六年生のアタシにとってコンポというのは、ちょっと大人な雰囲気があったのだ。中学生とか高校生が持ってそうな、ほかの子とはちょっと違う、大人の雰囲気。銀色のボディはきれいだし、CD挿入口が七色に光るのも魅力的だった。
「わかった。そのかわり、コンポちょうだいね」
「おお、さすが我が妹。持つべきものは兄妹愛だな」
「変なこと言わないでよ。いいから、コンポはもらうからね」
「わかった、わかった」
兄は微笑みながら、空になったコップ片手に台所へ向かった。
引っ越し作業はもう終わりつつある。兄が東京へ行ってしまうのは、明後日のこと。アタシは、嬉しいやら悲しいやら、よくわからない気分だった。
オレンジジュースが酸っぱすぎた。
二日後の正午。お兄ちゃんは、お父さんの運転するクルマに乗せられて隣町の新幹線が通る駅へ向かった。もちろんお母さんも一緒だった。お母さんは、「奏純もお兄ちゃんの見送り行く?」と聞いてきたけど、アタシは首を横に振った。わざわざ兄の見送りに行くのもカッコ悪く思えたし、それになにより早く自分の部屋を使いたかった。
兄がいなくなった部屋は、すっかりアタシの部屋になっていた。ベッドには新しく乳白色のシーツと薄桃色のタオルケット、それから花柄の毛布が敷かれている。勉強机には、新しく買った国語と英語辞書が並んでいる。それから漫画も。
すっかり自分色になった部屋を見て、アタシはいい気分になった。ベッドに寝転がると、干したばかりだからか、お日様のにおいがした。あたたかくて、気持ちよかった。
でもそんな自分の部屋に、ただ一つお兄ちゃんが残していったものがある。CDだった。それだけがアタシの部屋でとても浮いて見えていた。
アタシは寝転がったまま、床に置かれたままの木箱を見つめた。コンポはもはやアタシのもの。でも、このCDコレクションはいつまで経ってもお兄ちゃんのモノだ。それがある限り、この部屋は
アタシは木箱をしげしげ見つめながら、ベッドから体を起こした。
正直お兄ちゃんのCDコレクションを、アタシはまともに見たことがなかった。ただ扉越しに聞こえるズンズンという低音だけは知っていて、耳障りとしか思っていなかった。だからあらためて見てみると、ちょっと隠されたモノを盗み見てるみたいで好奇心をそそられた。
木箱の中は二段重ねになっていて、そこに何十枚というCDが待っていた。それも、すべて英語でタイトルが付いたやつ。カタカナが振ってあるものもあったけれど、それでもさっぱりわからなかった。むしろ小学生でこれだけの英語がわかるほうがおかしい。
――英語がわからないから、とりあえずジャケットで判断しよう。
そう考えて、端からジャケット写真を眺めた。はじめに取ったのは、真っ黒い背景に白で心電図のような模様が描かれたもの。まったく意味がわからなかった。次につまみあげたのは、男三人が並んだ白黒写真。三つ目は黄色い背景に黒い文字で英語が書いてある。まったくサッパリだ。
アタシは端から端まで読めない英語を見て回った。内容はサッパリ。かといって、わざわざコンポにディスクを入れて聴いてみようとまで思わなかった。
だけど、ある一枚のジャケットを見て、手が止まった。
それはプールの中で赤ん坊が泳いでいる写真。水の中に沈んでいくお金を、赤ちゃんが追っかけている。無邪気な顔をして、両手を広げて、素っ裸で、堂々と……あの……股間まで出して。
一瞬、アタシは目を覆いたくなった。アタシだって思春期の女の子だ。赤ん坊でも、その……あの……いわゆる男性器を見れば、必要以上に意識してしまう。だって、風呂上がりにお兄ちゃんがパンツ一丁で歩いているのだってイヤだったんだから。赤ん坊の全裸だってそう思って仕方ない。
でもアタシは、そのCDがやけに気になった。
――赤ちゃんのアソコが気になった?
――バカ言わないでよ!
心の中で否定。でも、CDが気になっていることは事実だった。
気づけばアタシは、そのディスク――ニルヴァーナ……? の「ネヴァーマインド」を手にとって、コンポの前に立っていた。サイドテーブルに置かれて、コンセントに繋げられたミニコンポ。CDの挿入口が七色に光っている。
「……どうせ、これ以外CDなんて持ってないんだし。これは、あくまでもコンポが動くかどうかのテストだから」
誰かがいるわけでもないのに、誰かに言い聞かせるみたいに言い訳してから、アタシはディスクを手に取った。そして挿入口に先端を当てて……一瞬だけ引き下がろうとした。ためらったんだ。でも、コンポは運命を飲み込むようにして、ディスクを吸い取った。
直後、ディスクを読みとる機械音がして、それから液晶に表示が入った。CD Track1――つまり一曲目。
そして静寂を体現するような動作音が響いてから、そのすべてをかき消す爆音が轟いた。
『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』
それが最初の衝撃だった。
足早に鳴り響くギターの轟音。低くのしかかるドラムの連打。ボーカルがなんと言ってるかはわからなかったけれど、わかる必要も無かった。そこには、衝動だけがあったのだから。心の中にある何かを震わせる、旋律の衝動性。スピーカーから発せられる音の響きが肌を逆撫でし、アタシに警告する。
気がついたときには、音楽に合わせて手が自然に動いていた。初めは自分の太股を指先で叩いて、次第に足先でリズムを刻んで、ついには体が動き出した。
コンポが二曲目の「イン・ブルーム」を読み込んだとき、アタシはすっかり恋に落ちていた。
今まで好きになった人もいなかった。恋に落ちるなんて感情わからなかったし、知ろうとも思わなかった。修学旅行の夜、同じ部屋の友達が恋バナで盛り上がっているとき、アタシは一人孤立したような気持ちだった。
――バカらしい、子供みたい。
でも、今になって自分のほうが経験不足の子供だと気づいた。好きになるという気持ちが、ようやくわかったのだ。好きになるのに理由はいらない。ただ衝動的に、それがいいって思ったとき、それは好きに変わる。
そのとき――ニルヴァーナとの出会い――は、まさに恋だった。アタシは、音楽と恋に落ちたのだ。コンポから流れる爆音のロックミュージックに心臓を鷲掴みにされた。もうたまらなく心地よかった。
――なんで今まで気づかなかったの? ずっと隣から聞こえてたのに。
今まで知らんぷりを決め込んでた自分がバカみたいに思えてきた。もっと耳を傾けてればよかったと思った。
ネヴァーマインドが終わった後、アタシはすぐに兄のコレクションをあさり始めた。もっと聴きたい……純粋にそう思った。
初めて触れる音楽に胸の高鳴りを隠しきれなかった。端から端まで、片っ端からCDをコンポに入れて、爆音で聞きかじった。もちろん聴くに耐えない曲もあった。暗くて陰鬱で、何を言ってるかわからない曲とか。ポップすぎて逆に滅入っちゃいそうなやつとか。声がヘロッヘロでダサすぎるやつとか。でも、その一つ一つがアタシにとって初めてで、何もかもが不思議と楽しかった。
ニルヴァーナに始まり、サウンドガーデン、ソニックユース。それからザ・クラッシュ、ザ・ジャム、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド。それにジョイ・ディヴィジョン、ニューオーダー、ザ・キュアー、ザ・スミス、レディオヘッド、ザ・ストーン・ローゼズ……どんなバンドだって構わない。そこにあるモノを片っ端から聴いた。
その日、南家は音楽が支配していた。音楽とアタシだけが。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもいない。誰もいない空間で、アタシと音楽の二人だけ。
日が暮れる頃、息子の旅立ちを惜しむ両親が帰ってくるまで、ひたすらCDを聴き続けた。けど、それでも兄のコレクションはすべて聴ききれなかった。まだアタシが知ったのは、氷山の一角だった。
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