Bullet (2) 言葉にできない靄のようなもの

***


「浩くん、なにかいいことあった?」


 相良に尋ねられ、浩は思わずどきりとして頬を引きつらせた。

 今日は相良と打ち合わせの予定があったので、浩は昼過ぎにとある喫茶店を訪れていた。エレホン日本支部のほど近くにあるこの場所は、相良との打ち合わせ時によく使用しており、浩が入口の戸を開けるといつもの右奥の席で相良が待っていた。


 先に注文を済ませようやく一息ついたところで、相良のこの一言である。

 突然核心を突くような言葉を投げかけられたものだから、浩は一瞬頭が真っ白になった。しかしすぐに気を取り直し、


「別に、何もありませんよ」


 浩はそう言うと、右手で首筋を擦る。


 イリヤとは午前の早い時間に別れた。家を出たところでイリヤがさりげなく浩の首筋に口づけ、


 ――今夜、また会えるかい?


 と囁いていったのをとてもよく覚えている。まるで言葉でがんじがらめに縛り付けているようだった。これでも一応世界規模の有名人だというのに、本人にはその自覚がまったくと言っていいほどないというのも困りものである。


 それはともかく、だ。

 さすが相良、長い付き合いだけある。浩は苦笑しつつ、

「どうして?」

 とだけ尋ねてみた。


「いや、いつもより表情が柔らかいなと思っただけ」


 なにもないならそれで、と相良は言い、手元に用意していた資料を浩へ渡す。


「これが向こう三カ月のスケジュールなんだけど」

「はい」

「とりあえず希望通り、しばらくは国内で回せる単発の仕事を用意しておいた。帰化した直後だし、私としてもできれば一年くらい海外案件は避けたほうがいいかと思うんだよね」


 浩はそのスケジュール表に目を落とし、小さく唸り声を上げた。ひとまず今月中はほぼ都内の案件となるが、それ以降は見慣れない地名が並んでいる。ざっと見る限り、北は北海道、南は九州まであちこちに案件が点在しているものと思われた。


「要するに、相良さんの営業同行ですね」

「ごめんね。君が日本に長期滞在することなんてほとんどなかったから、この機会に色々見てもらおうと思って」


 君の『目』の使い方としては贅沢すぎるとは思うのだけれど――と相良が申し訳なさそうに言う。


「それは構いませんよ。俺は相良さんのものだし。好きに使ってください」


 しかし、と浩は再び資料に目を落とすと、微かに眉間に皺を寄せた。まただ。朝に感じたような、言葉に言い表せない靄のようなものが胸の内に溜まってゆく。その僅かな感情の動きに戸惑いを隠せない。


 ――これは、なんだろう。


 浩は暫しの逡巡ののち、

「……、できれば、しばらく関東圏で回したいです。可能ですか」

 と無理を承知で言ってみた。


「うん?」


 浩の意外な反応に驚いたのか、相良が怪訝な顔をした。それを見た浩は咄嗟に胸の前で左手を振って見せる。


「ああいや、特にこれといった理由がある訳ではないので……。聞き流してください。すみません」


「いや、浩くんがそういうことを言うとは思っていなかったから、驚いたんだよ」

 相良は真顔のまま言った。「分かった、ちょっと組み直してみるから待ってね」


 相良はそう言うとラップトップを立ち上げ、その場でスケジュール表に手を入れ始める。


 特に具体的な説明もなしにこの対応である。ここ数年、浩がそういう類の申し入れをしたことがなかったからだろう。それが相良にとっては珍しく感じられたのかもしれない。


 ――どうしてそう言ったのか、自分でもよく分からなかった。しかし、向こう三カ月。それくらいはなるべく遠出をせずにいたい思いがあったのだ。


 自分でもその心境の変化に驚いている。浩はきゅっと目を細め、手元のカップに手を伸ばした。なみなみと注がれた甘いカフェラテが、カップの縁に触れた刹那細かく揺れ動く。

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