おまけ

Bullet (1) ※ 『秘密』のそのあとで

 窓から差し込む朝日が眩しくて、浩はゆっくりと瞼をこじ開けた。


 汗をかいたまま眠ってしまったので、皮膚がべたついている。気持ち悪くて思わず顔をしかめ、――それから、隣から感じる人の気配に驚き思わず肩を震わせた。


 イリヤ・チャイカ。

 彼もまた自分同様一糸まとわぬ姿で眠りについていた。まるで死体のように、身じろぎひとつせずその身をベッドに沈めていた。胸のあたりが微かに上下しているのを見て、それでようやく生きているのだと理解するくらいには紛らわしい寝姿である。


 浩はそれを呆けた顔で眺め、ややあって額を滑り落ちる己の黒髪を掻き上げた。


 ――。あの、『かみさま』と寝てしまった。


 どうせなら完全に忘れてしまえばよかったのに、少し思い返すだけで昨夜の記憶が面白いほど鮮明に蘇る。


 気の迷いで横浜の自宅に連れ込んで、そこで例の『秘密』を共有して。それから、……それから。


 そこまで思い返したところで、浩はもう考えることをやめることにした。どうせどんなに思い悩んでも過ぎ去った時間はやり直せないし、それ自体には後悔などしていない。ただ、なぜか心の中に靄がかかるようで妙に心地が悪かった。


 浩はとりあえずシャワーを浴びることにした。色々と自分に対し突っ込みを入れたいのは山々だが、どうせ寝起きなのだからどう頑張っても碌なことは考えられないのだ。

 シャワーを浴びたら少し外に出て食事をとろう。そうすれば少しは目が覚めるだろう。なんだか無性に甘いものが食べたくて仕方がないのだ。


 そう思いながら布団から出ようとすると、突然右手を何かに掴まれた。


「っ!」


 驚いて振り返る。

 イリヤだった。ちょうど今起きたところだったのだろう。青みがかった灰色の光彩がぼんやりとこちらを見つめている。


「……どこか行くの?」


 そして彼はそんな一言を投げかけた。

 浩は表情ひとつ変えず、淡々と短い言葉を吐き出す。


「シャワーを」

「そう」


 浩の回答に納得したらしいイリヤは、あっさりとその手を離した。気づかないうちにいなくなるとでも思ったのだろうか。ひとつ言っておくとするならば、ここは自分の家だ。この『かみさま』を放っておいて家を空けるつもりなどさらさらない。それともなんだ、一瞬でも目を離すと消えてしまう霞のような生物だとでも思われているのだろうか。


 色々考えて、浩はそれらの思考を一度全部捨てた。本当に碌なことを考えていないということに気づいたからである。


「俺も借りていい?」


 イリヤは上体を起こすと、いかにもだるそうな声色で尋ねる。浩は短く頷くと、


「じゃあ、先に入ってくれる。俺はちょっと時間かかるから」


 きょとんとしたイリヤに対し、浩が一言。


「中に入れられたもの、出したい」

「ああ、はい。スミマセン」

「どうも」


 それじゃあ遠慮なく、とイリヤがユニットバスに向かってゆく。戸を閉める音が聞こえたかと思えば、水を打つ音がし始めた。それは雨の音のように心地よく、浩はベッドの上で静かに聞き入っている。

 ――しばらくして、戸を開ける音がした。イリヤが顔を覗かせたかと思えば、


「あのさぁ。君、普段髪はなにを使って洗っているの。この家石鹸しかないんだけど」

「見たままだけど」

「……、Ладноオーケー、理解した。それでよくそんなふわつやなめらかな髪を維持できるね。お兄さん驚いたよ」


 そんなシャンプーのCMみたいな謳い文句を並べられるとは心外である。浩は微妙な表情を浮かべたが、あいにくイリヤはそれに気づいていなかった。


「あとで買ってあげる。ニホンはいいものあるでしょう」

「まあ、うん。はい」


 気のない返事をすると、イリヤは再びユニットバスの戸を閉める。その方向をしばらく眺めたのち、浩は再びベッドにぱったりと横になった。

 少し湿り気のあるシーツ。微かに残る自分のものでない体臭。脳裏に過る昨夜の出来事と、今この身に降りかかっている現実。それらをじっくりと思い返し、


 ――これが夢だったらよかったのに。

 そう思いながら、浩は静かに瞼を閉じた。

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