おわりに
Since
――いつの間に、こんなに描いていたんだろう。
浩はそんなことを考えながら手元のスケッチブックに視線を落とした。
無論、イリヤの私物である。アトリエの作業台に置きっぱなしにしていたのを本人がすっかり忘れているらしかった。それを見つけた浩が興味本位でこっそりのぞき見したところ、
「……っ、」
思わずページをめくった手を止めてしまった。
右下に書かれている日付から察するに、もう六、七年ほど前から描き溜めていたものらしい。恥ずかしいことに、どのページを開いても自分の姿がいる。というより、自分しかいない。クロッキーや鉛筆画が大半だったが、時々やる気を出したらしく水彩で色がついているものもあった。いずれも目線を外していたり眠りについていたりと、特に見られていることを気にしているような素振りが見受けられなかったため、浩は「これは気づかないうちに観察されていたのだ」と理解した。
下手に盗撮されるより恥ずかしいのは何故だろう。
浩は思わず口元に手を当て赤面するのを堪えた。それでもページをめくる手は止められない。
日付はどんどん進み、そしてようやくたどり着いた二〇一七年一二月二四日。
早朝に外に出て写真を撮っていたときのものだろう。ファインダーを覗く横顔がしっかりと描かれていた。そういえばあの時イリヤは絵を描いていたらしいのだが、それを浩に見せることはなかった。
これのことだったのか。ふっと頬を緩ませると、浩はそっとスケッチブックを元の作業台に置く。これは見なかったことにしておいてやろう。いつか本人が見せてきたら、そのときに「初めて見たもの」として反応することに決めた。
それに、別にその絵がなくとも十分に満足しているのだ。
浩は作業部屋の奥に立てかけられたカンバスに目を向け、ふっと息をつく。椅子に腰かけじっとこちらを見つめる己の姿が描かれていた。イリヤが時々仕事の合間に時間を作っては、少しずつ仕上げているものだ。このペースでは完成がいつになるか分からない、と浩が笑うと、イリヤは「別に急いでいる訳でもないし、いいだろ」と口をとがらせたのをとてもよく覚えている。
ふと時間が気になって、浩は壁にかけた時計に目を向ける。もうそろそろアトリエを出なければならない。ゆっくりしすぎてしまったことを反省しつつ、浩は椅子にかけていたコートを羽織る。そして鞄を片手に外に出た。
二〇一八年二月二七日。関東圏はそろそろ本格的に春を迎え、寒さも緩む時期となる。今日はとてもよく晴れており、乾いた空気がすうっと肌を掠めていった。
電車を乗り継ぎ、訪れたのは国際空港である。ロビーでスマートフォンをいじりながらぼんやりしていると、突然首筋に冷たいものが当たった。
驚いて思わず飛び上がると、
「お待たせ。ひさしぶり」
浩の背後にはイリヤがいた。彼は大きなスーツケースを引っ提げ、いつも通りの調子で浩に笑いかける。
「待った?」
「いいや、そうでもない。ひさしぶり、イリヤ」
とは言っても実際離れていたのはひと月くらいだ。普通に仕事をしていてもそれくらい離れることはあるので、決して珍しいことではない。
浩が席を立つと、イリヤは困り果てた様子で首筋に手をやる。
「まさかこのタイミングでビザが切れるとは思っていなくてね……。ごめん」
「でも、おかげで諸々の書類を発行してもらえたんだろ。それでいいじゃないか。結果オーライ、ってやつ」
浩がそう言うと、イリヤは小さく咳をしながら微かに笑みを浮かべた。
「うん、そうだね。そう思うことにするよ」
「君もいっそのこと日本人になったらどうだい。まだ永住権を取得するには年数が足りていないけれど、帰化するならもう十分に要件を満たしているじゃないか」
それを耳にしたイリヤは、うーん、と微かに唸る。それも悪くないんだけど、と前置きしたうえで、彼はごにょごにょと低い声色で呟いた。
「そういうことをするとまたマスコミが騒ぐ気がする。めんどくさい」
「あと数か月後にはまた騒がれるよ。それだけは覚えておいてね。法的拘束力がないとはいえ、俺たちはこれから十分話題性のあることをしようとしている」
「まあ、それもそうか……」
以前のことがよほどトラウマになっているのだろう。イリヤが本気で嫌そうな顔をしているのがあまりに珍しかったので、浩は思わず苦笑してしまった。確かに、うちの『神様』はそういうことの対処がものすごく下手である。
話したいことが山ほどあった。それでも今は我慢して、浩はイリヤの手をとった。
「行こう。なにか食事でもしようか、イリユーシャ」
外は暖かいよ、と浩が肩越しに振り返る。
イリヤははっと瞠目し、――ややあって、ひとつ頷いた。
「うん。ツィーリャ」
***
――ひとつ、イリヤには黙っていたことがある。
一年前『イスタニア・コレクション』第六の鏡面『未来』を覗いたときに見た光景についてだ。
それだけは未来永劫、この男にすら言わないと固く誓った。そのときはあり得ないと思ったからだ。
言えるはずがなかろう。
まさか、「どこかの教会でふたり揃って
しかしそれがいよいよ現実になるとき、もしかしたら、そんなことをうわごとのように呟いてしまうかもしれない。
そしてイリヤはきっと、そんな夢のような言葉を耳にして、嬉しそうに頬を緩ませるに決まっている。
ああ。
浩は思う。
ようやく証明できた。
この愛が本物だと、ようやく彼の前で証明できた。彼のために証明できた。
「ヒロ、開けるよ」
イリヤの声が聞こえ、浩はようやく席を立つ。白い礼装に身を包んだ己の姿は、かつて鏡越しに見たものと全く相違ないものだった。
「今行く」
彼との関係を、そこらに転がる性愛と一緒にしないでいただきたい。
見ろ。これがひとりの男が命を賭して手に入れたものだ。
そしてこれからも、それを証明し続ける。
ふたりで、最期まで、証明し続ける。
(後編 終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます