第十三章 Precious (6) 静かな夜
***
しばらくそのままでいたところ、気づけばイリヤは眠りについていた。
浩は彼を起こさぬようそっと起き上がると、強張った背中を大きく伸ばす。やはり狭いソファに二人で寝転がるのは少々無理があった。ずっと無理な体勢でいたせいか、微かに腰が軋んでいる。
すぐに目を覚ますかとも思ったが、珍しくイリヤはなかなか目を覚まさなかった。浩は奥の寝室から毛布を取ってくると、それをイリヤへかけてやった。
今は咳も落ち着いているらしい。ここしばらく乾いた咳がずっと続いていたので、随分と眠りが浅かったようなのだ。その影響で体力の消耗が激しかったのも知っている。
浩は彼の柔らかい砂色の髪を撫でると、そっと囁いた。
「
この語感は、決して嫌いじゃない。
静かな夜になるよう、優しい願いを込めた言葉だからだ。「おやすみ」と口にするたび、浩の脳裏では雪の光景が思い浮かぶ。雪の日に、外の音がかき消されていくかのような。横浜はほとんど雪が降らないから時々忘れそうになるけれど、ありとあらゆるものを全て真っ白に塗りつぶしていく雪が好きだった。
ふと浩が窓へ目を向けると、暗い空から何かがちらついているのが見えた。
「――、」
浩は足音を殺しながら窓辺に近づく。
雪だ。粉雪がちらついている。
少し嬉しくなった浩は静かに窓を開け、ひとりきりでベランダに出た。ふ、と息を吐き出すと、瞬時に己の呼吸が視界を濁し、空から舞い降りる雪と混ざり合う。
大した量ではないから、積もることはないだろう。きっと朝になれば雨に変わる。
そう思ったら今の光景がなんだか貴重に思えて、浩はもう少しだけそれを眺めていくことにした。
ベランダに置いている小さな椅子に腰かけ、暗く湿った空を仰ぐ。白い氷の粒がまぶしくきらめいて、浩は思わずきゅっと目を細めた。
静かな夜だ。ああ、とても、静かだ。
そういえば、イリヤと初めて迎えた冬のある日――この頃はまだ同居していなかった――、たまたま出かけた先で雪に降られたことがあった。あの日もこんな風にただちらつくだけの雪だったことをとてもよく覚えている。
雪は好きかと尋ねられたので、浩が肯定すると、確かイリヤはこんなことを言ったはずだ。
――俺も好きだよ。何もかも平等に白く塗りつぶしていくみたいだろ。それを見ると、少し安心するんだ。天は俺にも雪を与えてくれるのか、って。ねえ、君はそう思わないか。
懐かしいな、と浩は思う。
己とイリヤはふたりきりの世界で生きている。それでも雪はそんなことをお構いなしに、言うなれば平等に、滔々と降り積もってゆく。
浩が漠然と考えていたことをイリヤがきちんと言語化してくれたように思えて、あの時は少し嬉しかったのだ。
お互いが憧れている『普通』を当たり前のように分かち合える、そんな関係。あの頃はこの関係がここまで長く続くとは正直思っていなかった。どこかで道を分かつこともあるだろうとも思っていた。
しかし、実際は違った。同じものを見て、同じものを食べて。時々喧嘩もするけれど、それが決定的に関係を壊す要因にはならなかった。
――そんな『普通』の出来事が実は『あたりまえ』ではなく、相応の努力の結果であると俺たちは知っているからね。そして、君とならそれは十分に実現できると、俺はそう思う。
今年の誕生日にイリヤが言っていたことを改めて思い返し、ようやく浩は納得した。
のろのろと指輪を嵌めた両手を天にかざす。指輪を買おうと思ったあの日も似たようなことを考えていた気がする。
――本当に、十分に実現できることだろうか。信じてみてもいいのだろうか。
しかし今なら分かる。あの時すでに、それは実現していたのだ。自分が気づかなかっただけで、気づこうとしなかっただけで、あれだけ渇望していた『普通』はすべてあの男から十分すぎるほどにもらっていた。
「ばかだなぁ、俺は」
ぽつりと呟く。その声すらも雪がかき消してゆき、そこに残るは僅かに吐いた息の粒だけだった。
あと何回こうしていられるだろうか、とか。来年も同じ日を迎えられるだろうか、とか。
胸に残る不安が消え去ることはないだろう。それは『あたりまえ』だと信じたいものが目の前から消え去るのが怖いからだ。
そしてその『あたりまえ』というものは、ただ互いが歩み寄り努力した結果でしかない。
「好きだ」
浩は掠れた声で言った。「愛している。イリユーシャ」
残された時間で、彼に一体なにを残せるだろう。
少しでも、幸せにしてやれるだろうか。
そう思ったら、自ずと答えは出ていた。
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