第十四章 Pray

第十四章 Pray (1)

 ふと寒さを覚えてイリヤが目を覚ますと、今まで腹の上にいたはずのヒロがいなくなっていた。その代わりに毛布が掛けられていることに気が付き、仕方なしにイリヤはのろのろと上体を起こす。


 どこかに行ってしまったのだろうか。起こしてくれればよかったのに。


 そんなことを考えながら寝ぼけまなこで周囲を見回すと、窓が僅かに開いていた。寒いと感じたのはどうやらこれが原因らしい。窓を開けた覚えはないのだが。ヒロが開けたままにしたのだろうか。


 ソファから降りると、窓を締めようとイリヤは窓枠に手をかける。すると、ようやく彼の目がヒロの姿を捉えた。

 ヒロは上着を着ておらず、ベランダに置いている椅子に腰かけたままぼんやりと宙に目を向けている。空には粉雪がちらついていた。それを目の当たりにしたイリヤは、彼がなにをしているのかようやく納得した。


 どうやらヒロは雪が降るのを眺めるのが好きらしいのだ。共に過ごすようになって一番初めの冬に、たまたま出かけた先で雪に降られたときのことをとてもよく覚えている。人形以外のものであれほどまでに目を輝かせた姿を当時見たことがなかった。どうせ今回も突然雪を眺めたくなり、何も考えず外に出たに違いない。


 すると、彼はおもむろに両手を天にかざした。冷えた指先がかじかんで、微かに赤くなっているのが見える。


「好きだ」


 そのときだった。ヒロの消え入りそうな声がその耳に飛び込んできたのは。


「愛している。――イリユーシャ」


 イリヤは言葉を失った。

 あれほどまでに悲しそうな声色で愛を囁かれたことなど、今までに一度たりともなかった。まるで言い聞かせるように、怯える心をなだめるように、何かを信じ祈るように。その短い言葉にあらゆる感情を無理やり詰め込んだようにも思えた。


 ヒロ・ショーライ。自分と対となる名を持つ男。それほど感情の起伏も激しくなく、他人の感情を推し量ることもあまり得意ではない人物。そんな不器用さを「おばかちん」と揶揄しながらも、内心では愛しいと思っていた。

 彼の感情は、今まさに天から舞い降りる粉雪のようだ。無理に触ろうとすれば脆く崩れ、今にも溶けて消えてしまいそうだった。


 ヒロはゆっくりと腕を降ろすと、今度は胸の前で掌をじっと眺めはじめる。


 イリヤはそんな彼の姿を呆然と見つめ、なんと声をかけるべきか分からずにただ目を伏せた。

 ごめん、と一言言えたならよかったのかもしれない。彼にそんな行動を取らせてしまったのは明らかに自分のせいだ。もちろん、謝れば済む話でもないのは分かっている。しかし、何も言わずのうのうと過ごせるほどの図々しさはあいにく持ち合わせていないのだ。


 そしてこうも思う。

 あまり長くは生きられない。それ自体は覚悟していたけれど、――その場合、残された時間で彼に一体なにをしてやれるだろう。少しでも、幸せにしてやれるだろうか。


「……、イリヤ?」


 イリヤの姿に気づいたヒロがこちらを仰いでいる。彼はいつも通りの淡々とした口調で「いつからいたの」とだけ尋ねた。

 イリヤは慌てて首を横に振り、思考を悟られぬようなるべく明るい口調で言う。


「今さっきだよ。ヒロ、雪を眺めたいのは分かるけれど、もう中に入りなよ。風邪をひく」


 そうだね、そうする――とヒロは名残惜しそうに席を立ち、ようやく部屋の中に入ってくれた。窓を閉めると、室内はすっかり冷えてしまっている。ヒロは小さくくしゃみをした。


「イリヤ、寒い」

「そりゃあ寒いだろうね。上着も着ないで外にいて、しかも窓は開けっぱなし。せっかく暖房をつけていたのに」

「温めてよ」


 む、とイリヤがヒロへ目を向けると、彼は「ん」と両手を広げている。彼が言わんとしていることは理解できる。理解できるが、


「なんて理不尽な……」


 イリヤは数回乾いた咳を繰り返したのち、気を取り直しヒロの身体を抱き上げた。氷に触れているのかと思うくらい、服も肌も髪もなにもかもが冷え切っている。


 今彼にしてやれることと言えば、正直なところこれくらいしか思いつかないのだ。

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