第六章 Andromimetophilia(6) ツェツィーリヤ
「こちらです」
彼に通された部屋に足を踏み入れると、独特の甘い香りが鼻をくすぐる。香木だろうか、どこかで嗅いだことのある匂いだった。
ダンテが扉脇に手を伸ばし、明かりを灯す。
品の良い調度品が立ち並ぶゲスト・ルームだ。長期滞在を目的とする場合にホテルの一室乃至フロアを丸ごと借り上げることはあるが、どうやらこの場所はそういう類の場所であるらしい。大きい革張りのソファに、上品なテーブル。どれをとってもそれなりの価値はありそうだった。
そして、その部屋には布の掛けられた姿見がひとつ鎮座していた。
――あれが五番目の鏡面『正体』。
浩はすぐに直感した。
「これだけはどうしても別室に保管しておきたくて。ああもちろん、展覧会のときは他と同じように持ち出すつもりですが」
ダンテはそう言うと、浩へと目を向ける。「どうぞご覧になってください」
浩は無言だった。まるで凍り付いたかのように動かなくなったので、さすがのイリヤも小声で「ヒロ?」と声をかけるほどだった。
ややあって、浩は微かに唸り声を上げながら左手で己の首筋を掻く。
「……、ああ、もう。そんな口調で話さなくていいよ、今さらじゃないか」
浩はそう言うと、その双黒の瞳をダンテへと向けた。右手をそっと懐に差し入れたところで、ダンテははっと目を見開く。
「やはり君だったのか」
「そう知っていたからわざわざ指名したんじゃないの」
浩が吐き捨てると、ダンテはそうか、そうだったか――と力の抜けた声色で続ける。
「まさか君が男だとも思わなかったし、改名しているとも思わなかった。それに、実際にこの目で確認するまでは君が本人だという保証もなかった」
「改名でなく、本当の名前に戻しただけだ。あっちが嘘の名前」
そこまで言うと、浩はちらりとイリヤへ目を向ける。イリヤは突然始まった彼らのやりとりを目の当たりにし、どうしたらよいものかと実に複雑そうな顔をしていた。
それに気づいた浩はくすりと笑い、空いている左手でイリヤの胸倉を掴む。前傾姿勢になり目線が下がったところで、浩はイリヤの右頬にキスをした。
「ねえ、昨日言ったよね」
浩はそのまま耳元でぼそぼそと囁く。「俺のことは誰にも渡さないって。これを見ても同じことが言えるかい」
驚きのあまり言葉を失うイリヤから手を離すと、浩はひとり鏡の前に立つ。
ポケットからいつもの手袋を取り出し、それを嵌めた。
――ずっと目を背けていたことと、ようやく向き合う日が来たのだ。
浩はそう思いながら姿見にかけられた布を手に取り、そっと持ち上げた。
浩のまなこが、鏡の中の自分自身を見つめている。
本当によくできた鏡である。過去に何度も見た己の記憶と目に映る光景を混ぜて溶かして、どちらが現実のものか区別できない状態にする。催眠状態と言っても過言ではないだろう。少なくとも、今鏡に映る己の姿はそれだけの威力を持ち合わせていた。
イリヤの目は自分と同じ『見え方』をする。ならばこれも見えるはずだ。
浩は力の抜けた笑みを浮かべると、一言呟いた。
「思い出した?」
長い黒髪を垂らした東洋人の少女が、鏡の中からこちらを見つめていた。
ダンテは表情ひとつ変えずにその光景を眺めている。彼はそれ以上なにも言わなかったが、それ以上に『正体』の逸話が本物であることに微かな興奮を覚えているようだった。
それに対し、イリヤはまったく違う反応を見せた。
「――っ」
彼は瞠目したまま言葉を失い、鏡の中の少女を捉えて離さない。
その少女には覚えがあった。――否、少女と表現するには少し大人びているかもしれない。彼女は渋みのあるブルーのアンティーク・ドレスを身に纏い、生気のないまなざしをイリヤへと向けている。
それは間違いなく、記憶の中の『彼女』の姿と合致していた。
「……、ああ。ひさしぶり、とでも言ったほうがいいのだろうか」
浩は柔らかく微笑むと、「そうだね」と頷いて見せた。
イリヤは『彼女』と一三年のときを経て対峙する。
「『ツェツィーリヤ』」
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