第六章 Andromimetophilia(5)※ 鏡に込められた逸話
***
――逸話?
イリヤの問いかけに対し、浩は「そう」と喘鳴混じりに呟いた。
長い長い交わりの最中、体内に侵入する異物に思考を邪魔されつつ、浩はなんとかそれを言葉にする。からからに乾いた喉から声を出そうとするたび、唾液が剥がれる甘い痛みが襲う。
――っ、『イスタニア・コレクション』は、随分、変わった造りを、していてね。
――うん。
――『正体』と、銘打った、五番目の鏡。あれは、見るな。
ようやくそこまで言い切ると、長らく読点を変な位置に落とす原因となった律動が止まる。イリヤは右手で額から流れ落ちる汗を拭うと、短く尋ねた。
――どうして?
浩はぼんやりと焦点の合わないまなざしをイリヤへと向け、左手の甲で己の口元を拭う。
――……、『よくないもの』が見える。
***
そんな言葉を吐いた記憶があるが、それは決して熱に浮かされたまやかしなどではない。事実だ。
浩は先を歩くダンテの背を眺めながらじっと思案する。
件の『イスタニア・コレクション』五番目の鏡面に与えられた名は『正体』。その鏡に与えられた逸話はただひとつ。
その鏡に身を映すと、『過去の自分の姿が見える』とのことだ。
余裕がなかったのでそこまではイリヤに説明しなかったが、この男は色んな意味で用意周到だ。どうせ自分が昼間に寝ているうちに多少は調べていることだろう。鏡のことも、おそらく、この依頼主についてもだ。
ちらりと横目でイリヤの顔を盗み見ると、彼は何やら思案顔のままダンテの背中を見つめていた。ややあって、浩の目線に気づいたイリヤは小声で「なに?」とだけ囁く。
浩は首を横に振ると、改めて前を向く。
いずれにせよ、この案件に関わるということは今まで伝えていなかった己の生い立ちについて触れることになる。イタリアに渡る前「特に隠し立てる必要もない」と思っていたのはその通りだが、それでも少しくらいは躊躇する気持ちも残っている。
昔のことには一切触れないでいてくれる彼の態度に、浩は何度も救われていた。
浩は左手を伸ばし、イリヤの右手の甲を指先で突いた。
イリヤは怪訝な顔をして浩へ目を向けるも、肝心の浩は前を見据えたまま黙々と足を進めるのみである。表情ひとつ変えることのない、まるで人形のような顔立ち。イリヤはそれを見て何を思ったのか、浩の左手を取り、指を絡めた。
そのときだった。
「ミスタ・ショーライ」
ダンテが突然口を開いたものだから、浩は思わずぴくりと肩を震わせる。
「ところで、あなたは昔サンクトペテルブルクにいたことがありますか」
浩は逡巡し、ややあって唇を動かした。
「ええ。もう十二年も前になりますが」
「そうでしたか。あなたの面影が、なんだか昔の知り合いにとてもよく似ていたものですから」
ダンテはそう言いながら、廊下の一番奥の扉に手を置く。妙に古めかしい真鍮のドアノブである。彼はそれを回すと、ゆっくりと扉を押し開けた。
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