第五章 Ring(5) 信じてみてもいいかな
***
――二日前、大阪。
この日浩は相良の営業同行をしていた。
丸一日動き回り、アポを取っていた全クライアントとのやりとりを終えたのが午後七時。もともと終業時刻は遅くなるつもりでいたので、浩はホテルにて一泊し翌日帰宅するつもりでいた。
先に東京へ戻る相良と別れたのち、そのままホテルに戻る気も起きなかった浩は珍しく街中をうろつくことにした。
とはいえ、人混みの中を歩くのはあまり楽しくない。例によって生きているんだか死んでいるんだかよく分からないもので構成された街を歩くと、案の定少し疲れてしまった。
とりあえず一度チェーン店のカフェに入り休憩をとることにする。
甘いミルクが入ったラテを口に含みながら、浩はノートパソコンで今日会った人物の人相を確認し始めた。直接会うとどの人物もマネキンのように見えあまり頭に入らないが、ファインダーを通すと少しはどうにかなる。相良と話をする際に人相を覚えていないと少しやりにくいので、浩は毎回可能な限り覚える努力をしていた。
唐の時代の焼き物に、掛け軸。それから蓄音機と映画のフィルム。
その際に目にした芸術品の大半は偽物だったが、映画のフィルムは本物だった。浩は同じ監督の別作品を観たことがあったが、夢にあふれた素晴らしいものだったと記憶している。もしも縁があればお目にかかりたいところである。
そういえば、と浩は思う。
今回、ものすごく変わった依頼があったのだ。
その内容は『祖母のウェディングドレスの引き取り手を探している』というものである。なんでもそれは当時としては珍しいアンティークのもので、祖母が他界したのを機に荷物整理をしていたところ発見されたものだと言う。
エレホンで扱う美術品の中に被服の類はあまりないけれど、珍しく相良が興味を示したので、後日エレホン宛に正式依頼が舞い込むことだろう。
その時、懐に入れていたスマートフォンが着信を訴えて震えた。発信元はイリヤである。
――電話?
珍しいこともあるものだ、と浩は通話ボタンを押下する。
「
『
妙にご機嫌な様子のイリヤである。背後がかなり騒がしかったので、おそらく来日中のイライジャでも捕まえて飲みに行っているのだろう。
「今出先だから、手短にしてくれる」
『うん。ふふふ、優しいなぁ、好きー』
「はいはい、俺もだよ。愛してる」
飲んだくれ相手はめんどくさい。浩は適当に返事をしつつ、手元のノートパソコンに目を向ける。そして開いている右手でキーボードを操作した。
『ねえ、帰ってきたら結婚してくれる?』
ぴたりと浩のキーボードを打つ手が止まる。
これだから酔っぱらいは嫌だ。どうせ翌日になればこんなことを言っていただなんて覚えていないくせに。なんと身勝手で腹立たしいプロポーズだろう。
浩は仕返しがてら適当なことを言ってみた。
「はいはい、君となら何回でも結婚してあげる。明日には帰るよ」
『やった。うふふ、満足した。待っているよ。じゃあね』
そして電話は一方的に切られた。
大事だから何度でも言う。これだから酔っぱらいは嫌いなのだ。
とりあえず明日イライジャに詫びの連絡でもしておくことにして、
「結婚、ねぇ」
とぼやいた浩である。
浩の身の回りではその類の話に縁がなく、本人もあまり興味がなかった。しかしながら大多数は人の営みとしてそういうことをするものだと理解はしている。
ひとり心当たりがあるのはイリヤだが、あれはそういう関係でない。つい数分前にさらっとプロポーズされたけれど、あれは三カ月ぶり・通算二〇回目、毎度おなじみの酔いどれ文句である。
――とは思うけれど、イリヤの認識は違うのかもしれない。
毎回覚えていないと言い張る彼だが、心の奥底ではどう思っているかは分からない。
たとえば、イリヤがもしも本当にそういう関係を望んだとするならば、どうだろう。
「欲しいのかな、ああいうの」
ぽつりと呟いた浩は、とりあえずインターネットで画像検索することにした。大から小まできれいにレイアウトされた写真の山にはエンゲージリングが写っている。色んな種類があるものだな、と浩は思いながら淡々とスクロールを回す。
ざっと五分くらい眺めてみて思ったのは、
「……なんだかんだでイリヤが作るほうが上手だな」
という妙な感想だった。
神様と比較するのはおかしい気もしつつ、一応貴金属の部類は専門範囲外のはずだという少しのハンデも考慮しての結論である。手放しで褒められる彫金師と言えば、浩の中では今のところ金城とその娘だけだ。
そこまで考えた浩は思わずはっとする。
自分は一体なにを考えているのだ。酔いどれに絆されて無駄なことに時間を費やしてしまったではないか。
浩はラテを腹に流し込むと、ノートパソコンを閉じ店を出る。
春先とはいえまだ外は肌寒い。ふっと息を吐き出すと、ほんのりと白い息が立ち上る。
おそらく我々は、色々な基準を高く設定しすぎているのだ。
イリヤも自分もあまり普通でない人生を歩んできたせいで、今もあたりまえのことを正しく受け取れないでいる。あの日、イリヤが言ったことを胸の内で反芻する。
――そんな『普通』の出来事が実は『あたりまえ』ではなく、相応の努力の結果であると俺たちは知っているからね。そして、君とならそれは十分に実現できると、俺はそう思う。
本当に、十分に実現できることだろうか。信じてみてもいいのだろうか。
浩はふと、きらびやかなショーウィンドウの中に銀のリングが並べられていることに気がついた。
イリヤの目の色みたいだな、と浩は思った。自然と足が止まり、まじまじと眺めてしまう。
素材はプラチナだ。通常白っぽい色をしているはずなのだが、光の加減だろうか、不思議と青く見える。先ほどインターネットで見たものと比べたら格段に質の良いものが使われている。そしてなにより、量産品でないことがすぐに分かる。これはちゃんと人の手で作られたものだ。
しばらくそれを眺め、リングの下に並んでいる値段の書かれた札に目を向ける。これをお迎えするには諭吉先生が三〇〇人くらい必要とのことだが、
「なんだ、キャッシュで買えるじゃん」
そう呟き、浩はとりあえず店の中に入ってみた。
それから色々あって――現金一括で支払ったらさすがに店員に驚かれた――三十分後。小さな紙袋を片手に店を出た浩がいた。
勢いで買ったはいいが、これ、どうしよう。
冷静になればなるほど手に変な汗をかいてしまう。かといって部屋にしまい込むようなレベルのものではない。浩は自身に強く言い聞かせた。
――これはそう、お礼だ。日頃のお礼。決してイリヤの顔が浮かんだからとか、そういう甘くて安っぽい理由ではない。
***
こんな内容を抑揚のない口調で話すと、ヒロはイリヤが硬直していることに気がついた。怪訝な顔をしつつ「どうかした?」とだけ聞くと、イリヤは明後日の方向を向いたまましばらくこちらを見ようとはしなかった。
「ああ、うん。大丈夫だよ。ちょっと動揺しているだけ」
イリヤは言う。「思いの外胸にくる話だった。今ものすごく情けない顔をしているから、ちょっと待って。もう少しでいつものかっこいいイリヤ・チャイカに戻れる」
両手で顔を覆い、深呼吸を数回。ようやくいつもの顔に戻ったイリヤは、のろのろと口を開いた。
「つまり俺が自分で蒔いた種だということか……」
「そういう見方もできるね」
なんかごめん、とイリヤは頭を抱え、ひとつため息をついた。
しかしながら分かったことがある。イリヤは横目で左の薬指に嵌められた指輪を眺めつつ、ぽつりと呟いた。
「『普通』ってなんだろうね、ヒロ」
ヒロはきょとんとして小首を傾げている。
「もしも『普通』なるものが、大事な人のことを考えてあれこれ悩んで迷走したり、突拍子もないことをしつつもそれを受け入れちゃったりすることなのだとしたら、俺たちは六年がかりでようやく『普通』を手に入れたのではないかと。そんな気がします」
「……、もう少し分かりやすく言って」
イリヤは暫しの逡巡ののち、言いたいことをかなり要約して伝えた。
「
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