第六章 Andromimetophilia(2017/7/8)

第六章 Andromimetophilia(1) 彼だけに見せる魔性

 彼と同居してすぐの頃、こんなことを問われたことがあった。


「そういえば。君、俺のことをどこで知ったの」


 その問いを耳にした浩は、思わずぴたりと身体の動きを止めてしまった。ちょうどコーヒーを淹れようと棚からポットを取り出したところだったので、動揺のあまり琺瑯でできたそれを新品のキッチンに取り落しそうになる。冷静を装いながら取り繕うと、


「どうしてそんなことを聞くんだい」

「ああ、いや……」

 浩が低い声色で聞くものだから、彼は思わず言葉を濁らせる。「別に詮索するつもりはないのだけれど。時々のことを思い返して、君の言動はなかなかに不思議だと。そう思うことがある」

「そう」


 浩は抑揚のない言葉を返し、別の棚からコーヒーの入った缶を取り出した。蓋を開けると、今朝挽いたばかりの苦みのある香りが鼻をくすぐる。

 あの夜――秘密を共有し身体を重ねたは、確かに自分でも喋りすぎたと思う。どうせろくに覚えていないと踏んでいたのだが、この男は意外にもその微妙な言葉尻を記憶に留めていたらしかった。


 きゅっと、目を細める。悟られぬよう呼吸を整えると、浩はゆっくりと彼の姿を振り返った。


「ミステリアスな男は嫌いかい」


 そう尋ねると、彼――イリヤ・チャイカは困ったような顔をして首を横に振るのだった。


***


 別に隠し立てる必要もないが、本人が肝心なところのようなので特段口にする必要もない。それが浩の持論である。


 イリヤが先月『人形姫』のレプリカをくれたことについては、相当、否、かなり驚いた。ようやく思い出したのかとも思ったが、どうやらそれも違うらしい。あの男の気まぐれは時々本人すら気づかぬところで核心を突くことがある。今回はどうやらそのパターンらしかった。


 ――まあ、別にいいけど。いつものことだし。


 浩はそう思いながら、部屋のクローゼットから巨大なスーツケースを取り出す。さすがに自室で荷造りをするのは少々手狭だったので、それをリビングまで担いでいくことにした。


 部屋の扉を開けたところで、ちょうど洗面所から戻るところだったイリヤが浩に声をかける。


「あれ、どこか行くのかい」

「うん。イタリアにちょっと」


 それを耳にするや否や、「持ってあげる」とイリヤがスーツケースを取り上げてしまった。そしてそのままリビングへ運び入れてしまう。

 おそらく、彼は例によって浩の外出を警戒しているのだ。なにも言わずともそう察してしまうあたりがなんとも言えないところだが、少なくともそれでいいとも思っていた。


 ねえ、と浩がイリヤの背中に向けて声をかける。


「イリヤはイスタニア公国って知っているかい」

「イスタニア公国?」

 きょとんとしてイリヤが尋ねた。「どこだい、そこは。少なくとも現代の国家ではないね」


「うん。俺も今回初めて聞いた」

 浩は言葉を濁しながら言う。「かつて鏡を作る職人を集めることで隆盛を極めた小国。なかでも王家に献上された鏡面のシリーズを『イスタニア・コレクション』と呼ぶのだそうだけれど、それを集めた展覧会が催されることになった。今回はコレクションのうちのいくつかを鑑定するよう依頼されているんだ。ひと月くらい帰らないけど、大丈夫かい」

「大丈夫なはずないじゃないか。俺も行く」


 即答したイリヤである。浩は少し考えて、思わず肩を竦めて見せた。


「……、そう言うと思って飛行機のチケットはとってある」


 こうなるだろうと踏んだので、二月時点でわざわざ海外出張を延期したのである。その代償として苦手な宝石の鑑定やら相良の営業同行に付き合うことになったが、まあいい。イリヤ自身も大物の案件が終わったばかりなので、少し休憩を挟むのもいいだろう。


「『睡蓮』の複製が終わって、君も疲れただろ。少し早いバカンスだと思えばいいよ」

 それから、と浩は続ける。「俺についてくる条件としてひとつお願いがある。今回は依頼主主催のパーティが予定されているから、それなりのドレスコードは用意しておいてほしい」


 それに対しては怪訝な顔をして口を閉ざしたイリヤである。いつもなら「うん」くらいは言うと思ったのだが。


「どうしたの」


 浩が尋ねると、「いや」とイリヤが言葉を濁した。


「ええと、俺は呼ばれていないよね? 君の案件なんだから」

「ああ」


 そういうことか。浩は淡々とした口調で続けた。


「君は贋作師としてではなく、俺のパートナーとして参加してもらう。エスコートは任せたよ」


 さらりと言うものだから、イリヤは何を言われたのかはじめ理解出来なかったらしい。瞠目したのち、彼はのろのろと口を開いた。


「……ごめん、ちょっとよく分からなかった。なんだって?」

「言葉の通りだよ。その指に嵌っているものは何だい」

 浩は苦笑しつつ、イリヤの両肩をぽんぽんと叩く。「君は俺のもの……って、他の人に見せてもいいでしょ」


 そして濁りのない黒い瞳をじっとイリヤへと向けた。微笑みも何もないただそれだけの表情に、うっすらと色香が滲み出る。

 魔性の片鱗をちらつかせれば、この男が食らいつかない訳がない。彼の好みは十分に理解しているつもりだ。この男はそもそも狩る側の人間。獲物を捕らえ、その身を暴き、泡にまみれ体温を失いゆく肢体に興奮を覚える性分だ。


 ――ミステリアスな男は嫌いかい。


 先ほど脳裏で反芻したばかりの言葉をもう一度胸の内で反芻すると、

「……ああ、もちろんだとも」

 イリヤは微かに口元を緩ませ、浩の頰と己のそれとを触れ合わせた。


 いとも容易くコントロールできてしまうのはパートナーとしてどうかとも思うが、今回ばかりは正直助かった。


 好きな男の体臭に包まれながら、

 ――

 浩は胸の内で、そのように呟いた。

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