第三章 Trigger(8) ※自覚とお誘い

***


 夜遅くに警察が彼ら三人を引き取りに訪れた。


 ヒロが連絡するとすでにサガラが裏で警察の配備を進めていたようで、ものの十数分後には彼ら三人の回収が完了していた。おおう……と声にならない声を上げるイリヤをよそに、ヒロはいつものことだとでも言わんばかりの慣れた対応を見せている。ヒロは訪れた警官に何か日本語で説明をしているけれど、例によってイリヤはそれが全く聞き取れなかった。


 そして最終的に、アトリエにはイリヤとヒロだけが残された。


 今までの騒がしさが嘘のようだ。時計を見ると、イリヤが彼へ電話をかけてから九時間ほど経過している。その間ずっと気を張っていたせいか、途端に疲れがどっと押し寄せてくる。


「ありがとう、助かったよ」


 イリヤはそう言いながらヒロへ目をむけると、思わずぎょっとしてしまった。

 彼は今にも人を殺しそうな目でイリヤを睨んでいたのだ。動揺し身体が硬直したのもつかの間、ヒロは首にかけっぱなしにしていたイリヤのエプロンを右手で強く引いた。それにより、イリヤの姿勢がヒロに合わせて低くなる。


「……っ」


 瞠目するイリヤに対し、ヒロは掠れた声で囁いた。


「――どうして俺に正体を隠したんだい。イリヤ・レナートヴィチ・チャイカ。俺が見抜けないはずがないだろ」


 心臓がはねた。


「それとも、自分が『神様』だからって驕ったの?」


 イリヤは思わず息を呑み、それからまじまじと彼へと視線を落とす。ヒロの黒い瞳に影が落ち、死に際のような覇気のないまなざしでじっとこちらを見つめている。

 まばたきすらしていないのではなかろうか。それほどまでに、彼の仕草からは生物らしさが抜け落ちていた。


 イリヤは改めて、己の胸の高鳴りを自覚する。


 ――彼には、彼からは、まるで

 それは死にゆく世界の中で唯一『美しいもの』だった。


 一度捨て去ったはずの逸脱した感情が脳裏を過る。泡を浮かべた死体のフラッシュ・バック。ぬめる感触と快感が思考を激しく突いた。世界が反転するかのような眩暈を感じながら、イリヤはのろのろと口を開く。


 虜、だ。虜になっている。

 己は今、確実に、この青年に妙な感情を抱いていた。

 たとえばそう。昔出会った『少女』に対する感情と非常によく似ていた。

 先ほどは『友達になりたい』と願ったけれど、今は違う。力づくでものにしてやりたいと、そう思ってしまった。願ってしまった。


 イリヤの声が掠れて響く。静まり返った室内には、それで充分だった。


「――おあいこだろう。ヒロ・ショーライ」

「俺のこと、知っているんだ」


 ああ知っているよ、とイリヤは呟いた。


「君と俺は、同じ『神様』だ」

「神様違いだけどね」

 ヒロは表情を崩さずに言う。「軽蔑しただろう」

「軽蔑、というよりは、そうだなあ」


 刹那、イリヤはぐいとヒロの身体を引き寄せた。上体が、四肢が、全てが重なり合うほどに密着する。ぬくもりがずっと身近に感じられるはずの距離なのに、それでも彼からは冷たい体温しか感じないことに、イリヤはさらに感情の昂ぶりを覚えた。


「君からはどことなく、『俺と似たもの』を感じるね」


 ヒロの眼球に反射して、今の己の顔がはっきりと映し出されている。

 イリヤの眼差しから完全に生気が消え失せていた。青みがかった灰色の瞳、その深淵がどす黒く濁って見えた。


「ちゃんとお望みの『普通』とやらにその身を溶かしておかないとだめだよ。その点君は少し危うく見える。……いや、違った。どうして嘘をついたか、だったか」


 そしてイリヤは空いた左手でヒロの顎をくいと持ち上げる。


「誰でも知られたくないことくらいあるでしょ?」


 張り付いた笑みを浮かべ、ヒロから手を離す。

 しばらく呆気にとられた様子でいたヒロは、ややあって唸り声をあげながら上げた前髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。前髪を下ろしたらよりティーンに見える。そんな戯言を口にすれば再び噛みつかれる気がして、イリヤは口を閉ざした。


「ああもう……今日は何だって言うんだ。厄日か……」

 彼はそう呟くと、その場で踵を返す。「帰る」


「えっ、ちょっと待って」


 イリヤは慌ててそれを引き止めた。今引き止めなければ次に彼と会うことは二度とない。そんな気がしたのである。

 ヒロは無言でイリヤを背中越しに睨めつけ、「何」と冷たく言い放つ。


「疲れただろ。うちに泊まっていきなよ」


 ものすごく安いナンパだと思った。冷静に考えればもっといいやり方があったろうに、あいにく今のイリヤにそんな心の余裕がなかった。それはヒロも同感だったようで、一瞬「は?」とでも言わんばかりの冷めた眼差しをイリヤへ向けている。


「もう終電もないし、うちは歩いてすぐのところにある」

「別にタクシーを呼べばいいじゃないか」

 ヒロは呆れた口調で返した。「それともなに。君の家に行くとなにかいいことがあるのかい」

「あたたかいご飯と、お風呂と、布団がある」

「……それで?」

「それからほら、落書きでよければ、結構書き溜めたものもあるし。『人形姫』の存在を知っているなら、少しは興味があるんじゃないの」


 そう言うと、覇気のない表情に微かに光が宿ったのが分かる。我ながらずるいやり方だと思うけれど、彼の興味を引くことができたのならそれでいいような気がした。


 その証拠に、彼はのろのろと口を開き、短く尋ねた。


「……本当?」

「本当本当」

「じゃあ、行く」


 完全勝利の瞬間だった。

 内心ガッツポーズを決めつつ、イリヤは帰宅するべく身支度をしたのだった。

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