第四章 Shot(2017/5/8)
第四章 Shot(1) ※どっちもどっち
ふと目を覚ますと、浩は見知らぬ部屋にいた。
シングルベッドにその身を横たえ、知らない体臭のする布団に包まれている。随分軽い布団だと思ったが、それはどうやら羽毛か何かでできたものだったらしい。空気を含んで膨らんだ布団の端が視界の端にぼんやりと映りこんでいる。
――ところでここはどこだろう。
未だ靄がかる思考をなんとかはっきりさせようとし、浩は昨日の出来事を順に思い浮かべた。
秋葉原に行って、出先で相良から呼びつけられ、向かった先で『かみさま』に遭遇し、何故か『かみさま』が人質に取られたというものだから慌てて現場に向かい、……それから、それから。
「っ!」
起き上がりこぼしの如く勢いよく上体を起こす。
浩はその部屋にひとりきりでいた。半分開いたままとなっていたカーテンから白んだ朝日が差し込み、舞い上がる埃に反射してきらめいている。
随分生活感のない部屋だと思った。今身体を横たえていたベッド以外にはトラベル用の目覚まし時計が置かれているだけで、ものをしまうためのチェストなどは一切置かれていない。ふと部屋の隅に目を向けると、大きな銀色のスーツケースが立てて置いてあった。
浩はふっと息をつき、風を通すために襟ぐりに指をかける。昨日着ていたシャツとスラックスのままだった。寝苦しかったのだろう、腰に巻いたベルトは無意識のうちに外したらしく、行方不明となっている。ベッド脇を覗き込むと探しものは蛇がとぐろを巻くような状態で放置されていた。手を伸ばしそれを拾い上げると、元通りそれを装着し直す。
――つまりここがどこかと言うと、答えはひとつしかない。
浩はそっと布団から這い出し、部屋の戸を開ける。しんと静まり返るリビング。足音を立てぬようゆっくりと足を進めると、部屋の中央に鎮座するソファに身を沈めるようにしてひとりの男が眠っているのが見えた。
イリヤ・レナートヴィチ・チャイカ。
差し出された餌につられひょいひょいと付いてきてしまい、実際昨夜はその餌を存分に堪能するに至った訳だが、我ながらちょろいと思う。ちょろいけれど、それに対して後悔はなかった。
たとえいつものように拉致監禁されるイベントが発生したとしても、彼が相手ならば全く悔いはない。
少なくとも浩の中では、彼の存在は間違いなく『かみさま』。決して手の届かないところにいる存在なのだった。
浩はそっとイリヤのそばに座ると、寝顔を覗き込む。
実に穏やかすぎる眠りだった。死体か、……あるいは人形だろうか。睫毛の一本すらぴくりとも動かず、まるで彼の時間だけが止められたかのように見える。
どれほどの技師を呼べば、これだけの美しい人形が生み出せるのだろう。
生気を感じさせない青みを帯びた肌、ぴくりとも動かない胸、金糸とも紛う毛髪。その胸に溜まりゆく感情の昂ぶりは、そのひとつひとつのパーツを見つめるたびに一層激しさを増す。
下腹部のあたりに妙な違和感が走る。
「……、」
ほぼ初対面。昨日出会ったばかり。それでも腹の奥底が熱くなるのは、脳裏にちらつく美しい裸体のせいだけではなかった。
――最悪だ。本当に、最悪だ。かみさまに対してなんということをしでかす気でいるのだ、己は。
口元を抑え、嗚咽にも似た吐息を洩らす。
「……んっ、」
とうとう堪えられなくなった浩は慌ててトイレに駆け込み、しばらく出てこなかった。
***
それから約一時間後のことだった。
イリヤが目を覚ますと、背を向けるようにして浩が座っていた。彼はどうやらその辺に放置していた雑誌に目を通しているらしい。時折紙をめくる音だけがしんと静まり返る室内に響いていた。
「あれ、早いね……?」
掠れた声を上げつつのそりとイリヤが上体を起こすと、浩は微かに肩を震わせた。こちらを向くかと思いきや、彼は背を向けたまま抑揚のない言葉を投げかける。
「勝手にシャワー借りた。ごめん」
「うん? ああ、それは構わないよ。ところで、なんで君はこっち向かないの」
そう指摘され、ようやく浩は肩越しにイリヤを見た。表情らしいものはなにひとつ感じられない。しかし、どことなく怒っているような気まずいような、そんな複雑な顔をしているような気がした。
――まさか、気づかれた?
少しだけ心当たりのあったイリヤはどう声をかけるべきか迷ったが、最終的にとぼける方針で行くことにした。
「俺、何かした?」
「……、してない。していないから、とりあえず黙ってくれる」
言葉尻に凄まじい棘があった。
腑に落ちないけれど、それについてはこちらにも非がある。どうやら向こうはこちらが想定している以外のことであんな態度をとっているように見受けられるので、とりあえず深くは追及しないでおくことにした。
イリヤは欠伸をかみ殺しながらのろのろと立ち上がる。
――昨日迂闊にも眠る彼の表情で抜いてしまったという罪悪感がわだかまりとして残っているけれど、それはそれ、だ。
本人に何もしていないのは事実だし、とイリヤは頭を掻いた。
それよりも、彼がこちらに滞在するうちにやるべきことがある。
「ねぇ、君。少し時間はあるかい」
イリヤの問いかけに、浩はきょとんとして小さく首を傾げる。
「あるけど……なに?」
「朝食を食べてから、少し見てもらいたいものがあって」
例のチェストのことだけれど、とイリヤは言った。「ひとつだけ黙っていたことがある。君はたぶん、気づいていると思うけれど」
その言い草に、浩は心当たりがあったのだろう。さっぱりとした口調で、
「……ああ、なるほど。構わないよ」
とだけ答えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます