第二章 Normophilia(7) 憧れの延長線上にあるもの
***
普段は各々の寝床に入る二人だが、今日はイリヤの布団に浩が潜り込んでいた。
特に何もない。何もしない。ただ互いの手を繋いだまま、淡々ととりとめのない話をしている。
昼に見た絵画に使う絵の具のこと。
浩が持ってきたアタッシュケースの中身のこと。
週末の予定のこと。
毎日のほんのささいなことをいくつも並べ、そして最後に浩がぽつりと呟いた。
「今更だけど、イリヤは俺のことをどう思う」
目線は天井に向けたまま。決して相手の顔は見えないのに、そう尋ねたときのイリヤの表情が脳裏に浮かんで見えた。こういうとき、彼は一瞬瞠目したのち、苦笑するのだ。
「質問の意図が分からないけれど、……そうだな。君の気持ちを推し量るのはとても難しい。特に仕事中の君は八割方本音と真逆のことを言うものだから、俺は君のことがさっぱり分からない。女の子の気持ちを理解しろと言われる以上に、難しい」
「お、おう……」
「それはさておき、君は俺の中ではヒーローだ。俺の、俺だけの、ね。それは『あの日』から、今でも変わらない。君は俺のことを『かみさま』だと言うけれど、俺にとっては君も同類だと思うよ。基本的に俺たちの関係は逸脱した愛情の上に成立するものだ。それ故に障害は多いけれど、それ以上に、お互いが憧れている『普通』を当たり前のように分かち合える、そんな関係でありたい。同じものを見て、同じものを食べて。そんな『普通』の出来事が実は『あたりまえ』ではなく、相応の努力の結果であると俺たちは知っているからね。そして、君とならそれは十分に実現できると、俺はそう思う」
暫しの間ののち、イリヤは、
「不服かい」
とだけ尋ねた。
「いいや。十分だよ。ありがとう」
「答えになった?」
「うん」
「誕生日おめでとう、ヒロ。愛してる」
「うん、俺もだ。……ありがとう」
暗がりの中、衣擦れの音がして、やがて止んだ。
寝たな、と浩は思った。繋いでいた手の力が緩んだのを見計らい、浩はそっと手を離し上体を起こす。それからイリヤの指の付け根を数回撫で、微かに唸る。
「一五、いや、一六号?」
そんなことを呟きながら。
眠りについた彼を起こさぬよう、浩は布団からそっと抜け出す。唐突にシャワーを浴びたくなったのだ。
転ばないように壁伝いに歩き服を着たまま浴室に入ると、浩は躊躇いなくシャワーの口を捻る。外気ほどの温度だった水が、次第に温くなってゆく。適温になった頃には、彼が唯一着ていた白い色のシャツは水を吸ってすっかり重たくなっていた。
浴室の明かりは落としたまま。すりガラスから差し込む街灯の光だけが、青白くぼうっと立ち上っていた。
浩は焦点の合わない目を持ち上げ、湯気で曇りゆく鏡を見た。
生気の感じられない己の顔が、目が、唇が、そこにはあった。
まるでそういう種類の人形のようだった。今はじっとりと湿った服の下に隠れているけれど、四肢は糸で吊られ、関節は全て球体でできているのではないか。表情はまったく変わらないけれど、きっと化粧ひとつで見え方が変わることだろう。
実寸大の倒錯的な出で立ちをした人形。
しかし、果たしてその認識は正しいものだろうか。
浩はひたすらに頭から湯を被り、ぼんやりと鏡の中の自分を見据える。
頰に張り付く黒髪。滴り落ちる水滴。呼気はすっかり凍り付いていた。
シャツから淡く透ける肌に色はない。
その時だった。
急に浴室の戸が開いたかと思えば、後ろから抱きすくめられた。
イリヤだった。
「莫迦だろう、君は」
語調に微かな怒気が混ざっている。「少し目を離すとこれだ。意外と手のかかる子だよね、君は」
「……濡れるよ」
浩は短く言い、されるがままになっている。
「もう手遅れだ」
吐き捨てるようにして言うと、イリヤは片手でシャワーの口を締めた。
しんと静まり返る浴室。水の滴る高い音だけが小さく聞こえている。
浩はそのままの状態で、ゆっくりとイリヤの腕に手を伸ばす。首筋に己の黒髪が張り付いているのが、鏡越しに見えた。
ああ。
左胸の鼓動が憎らしい。
彼のものも、自分のものも。
とにかく愛しく憎らしい。
「――大丈夫。こんなに幸せでいいものだろうかと、何か自分に罰を与えなくてはと、そう思っただけ」
「ヒロ、」
一体なにを言っているんだ、とイリヤが言いかけたその時。浩がその言葉を遮った。
そして、自分でも驚くほど優しい声色で囁くのだ。
「君が気づかないのなら、それでいいよ。イリヤ」
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