第二章 Normophilia(6) やっと会えたひと
***
まだ一八時前だというのに、すっかり日は落ちてしまっていた。ぽっかりと浮かぶ月明かりが眩しく、街灯と紛うほどに夜道を明るく照らし出している。
自宅から歩いて数分のところにあるレンタルスペース。イリヤに連れられ、浩はこんなところまでやってきてしまっていた。
背丈ほどもあるコンテナが規則正しく並ぶ中、イリヤは手にした鍵の番号を確認しながら奥へ奥へと突き進んでゆく。
「イリヤ」
名を呼んでも返事がない。
「イリユーシャ」
こう呼ぶとたいてい嬉しそうに振り返るはずが、今回はまったく反応がない。浩は困惑しつつ、とりあえず彼に付いて行ってみることにした。
そうしているうちに、目的の場所に到達したらしい。コンテナに割り当てられた番号と鍵番号とを見比べて、イリヤはコンテナの戸に手をかけた。
「どうせ君のことだから、今日が何の日か忘れたんでしょう」
今日? と浩がきょとんとした表情を見せたので、イリヤはじっとりとした眼を彼へと向ける。
「なんで自分の誕生日も覚えないのかなぁ」
そう言われて初めて、浩ははっとした。二月二七日。言われてみれば自分の誕生日だった。自分の年齢に執着しないと決めてからかなりの年月が経過しているせいか、どうしてもこの日の存在を忘れてしまう。もちろん今年も例外でなかった。
「去年の君の誕生日のとき、俺になんて言ったか覚えているかい」
申し訳ないがまったく記憶にない。というのも、昨年の誕生日はイリヤが持ち込んだウォッカにやられて酔いつぶれていたのである。酒は弱くない。むしろ強いほうなのだが、あの日は悪酔いしていたということを思い出す。
「あんな状態だったから多分覚えていないだろうから言うけれど、君ね、俺にひとつおねだりしていたんだ。一年がかりで準備して、ようやく先週完成した。見てくれるかい」
そしてイリヤがコンテナの戸を開けた。
中は闇に包まれている。コンテナの端のほうにスイッチが付いていたので、浩はそれを押した。途端に橙の柔らかな光が視界を包み、まぶしさのあまり浩は思わず目を細める。
――光の中から現れたのは、一枚の絵画だった。
暗がりの中光を浴びる少女の絵だ。しかし、よく見るとその関節には球体のような影が付けられている。長い黒髪の彼女は渋みのあるブルーのアンティーク・ドレスを身に纏い、光の指す方へ黒曜とも紛う瞳を向けていた。
なんと美しい少女だろう。憂いを帯びたまなざしは年端もいかぬ少女のものとは思えないほど魅力的で、繊細で、大人の色香を僅かながらに感じるものだった。
それを目の当たりにした浩の思考が、瞬時に凍り付く。
時折彼を追いかけてくる少女の残像が脳裏を過った。
「うそだ」
そしてうわごとのように呟いた。「……これが、こんなところにあるはずがない。君だって、そう言ったじゃないか」
「言ったよ」
イリヤははっきりと言った。「でもね。俺は『神様』だから。『神様』にできないことはないんだよ。この六年間、俺は君に対しそう証明し続けているつもりだ」
君ならこの絵が何か分かるでしょう。そう言ったイリヤの言葉に、浩はこくりと頷く。
「――『人形姫』。二〇〇三年、ロシア。イリヤ・レナートヴィチ・チャイカ作。君がかつて画家をしていた頃に連作で描いた絵画の中の一枚」
「……の、レプリカだ。まさか自分の絵の複製をする羽目になるだなんて想定外だったよ」
ふうっとイリヤが息を吐くと、外気に晒されて周囲が白く濁って見えた。
昨年の誕生日。ぐでぐでに酔っぱらった浩が再起不能になる直前。
そんなタイミングで、彼はイリヤに対して妙にはっきりとした口調でこのように言い放ったのである。
――来年は。
――なにか欲しいものでもあるのかい。
――来年は、あの絵がもう一度見たいな。『人形姫』。叶えてくれたら、とても、嬉しい……。
最後まで言い切る前に深い眠りについた浩だったが、イリヤはそれが酔った勢いの戯言ではないことにすぐ気が付いた。
浩が自身のことを語ることはほとんどない。イリヤよりも付き合いが長い相良ですら「彼の経歴はほとんど知らない」と言い張るほどだ。そんな彼が、自分の過去に関わることをたったひとつだけ呟いた。これはイリヤの中では大事件に他ならない。
それに、彼がご所望の絵画は――この世でイリヤしか知り得ないものだ。そして、浩がなぜかその絵画に対しかなりの執着を見せていることも知っている。
件の『人形姫』は既にこの世に存在しない。無名の画家の絵に対し記録を残している人物はいない。記憶にすら残っていないだろう。となると、頼みの綱は描いた張本人である己の記憶のみ。どんな絵だったか、当時何を考えながら書いていたか。ひとつひとつ思い返しながらの作業はなかなかに骨が折れる仕事だった。
それはまるで、過去の自分と向き合うかのような。筆を置くたびに、自身が心の底から求める『普通』とやらが眼前に迫り来るようで。吐き気と眩暈と動悸と、あらゆる手法を以て、全身で、その絵との対峙を拒否していた。
それでもこの絵は彼にもう一度見せてやりたかった。
あの日の『彼女』は、――今、どうしているだろう。幸せにしているだろうか。
そんなことを考えながら、イリヤはカンバスの右下にサインを入れた。それが先週の出来事である。
「ヒロ。この絵をどこで見たんだい」
イリヤの問いに、浩はうわごとのように呟いた。
「――サンクトペテルブルクの美術館」
「そうだ。これは街の小さな美術館に一日だけ置かせてもらった絵だ。あの日は来場者がほとんどいなかったはずだから、誰の目にも留まっていないと、俺はそう思っていたのだけれど」
そうではなかったのだね、とイリヤはゆっくりと、かみしめるように言った。
「これは」
しばらく放心状態でいた浩がのろのろと口を開く。
「これは、俺が君の存在を『かみさま』だと認識し、崇拝したきっかけの絵だ。それと同時に……、俺の人生を狂わせた絵でもある」
キャンバスの中浮かび上がる少女が、光を纏いながら宙を仰ぐ。彼女の目には一体なにが映っているのだろう。
ねえイリヤ、と浩は囁いた。
「やっぱり、君は『かみさま』だよ。なんで君はこんなにも無茶な願いを叶えちゃうかなぁ。ものすごく大変だったろう。こんな、」
「ヒロ」
「こんなにも、君の傷を抉るようなことを――」
浩の頰にイリヤの手が触れる。彼の手はいつでも温かいが、今日も例外ではなかった。微かに油絵の具の臭いがするその手は、浩の目尻のあたりをゆっくりと掠めていった。
「嬉しくないのかい」
「嬉しいよ。嬉しくて、なんて言えばいいのか分からない」
胸からあふれ出るこの気持ちを、正確な言葉にすることができない。浩はイリヤの手に己の手を重ね合わせ、きゅっと目を細めた。
「やっと、会えた。これ以上に幸せなことはない」
イリヤ、と浩はその名を呼んだ。「
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