第2章 烏のビジネスライフ
第21話 とある朝の風景
朝霧の立ち込める早朝の草原を1台の自転車が駆け抜けていく。
「ピュ~ピュル~♪」
軽快に口笛を吹きながら自転車を走らせるのはこの街の郵便局に勤める青年。
日も上ったばかりだと言うのに随分と景気よくペダルを回している。
そんな彼が向かっているのは草原の真ん中に建つ一軒の家。
もっとも彼が用があるのは家の方ではなく家の前にあるポストの方。
そのポストに新聞の朝刊を投函するのが彼の1日の仕事の始まりだ。
レミエステス共和国では新聞配達は国営の郵便局に業務委託されている。
青年は今の仕事に就いてから2年になるが、配属になってから今日までずっと毎朝欠かす事無くこの町はずれの辺鄙な場所まで配達をしている。
もちろん最初の内はかなり距離が離れているので面倒だと思っていたのだが、ある時からそれは苦にならなくなった。
「今日は居るかな~メイドさん」
配達を始めて5日が経った頃、特別に手当がつくからという理由で引き受けた配達に嫌気がさして異動を願い出ようかと考えていた。
その日は時間を間違えていつもより早く出た彼は、家の前でポストの傍を掃除しているエプロンドレスを着た銀髪の超絶美人のエルフに出会った。
交わしたのは朝の挨拶程度だったが、それだけで十分。
あの日から起床時間は今までよりもずっと早くなり、仕事に対するモチベーションも急激に向上した。
いつでも会えるわけではないが逆にその方が燃える。
今日は会えるかとを楽しみにしながらポストへと近付く青年の視線の先、ポストが近づくとその傍に立つ人影がぼんやりと浮かび上がる。
あの人だろうかと胸躍らせる青年の視界が急に晴れる。
霧の向こう、ポストの傍に立っていたのは待ち望んだ相手ではなく全身黒ずくめの長髪の鬼だった。
「ヒィッ!」
あまりに恐ろしい外見を見て青年は思わず悲鳴を上げる。
その声に反応して鬼が微かに顔を上げ、その鋭い視線と青年の視線が重なる。
僅かな静寂の後、声も出せぬほどにビビる青年を見た鬼が一言。
「・・・新聞配達か」
見た目の恐ろしさと裏腹にどこか元気のない声色をした鬼。
いや、鬼だと思っていたがよく見ると角が生えてない。普通(?)の人間である。
あまりにも恐ろしい見た目と雰囲気だったので一瞬鬼と見間違えてしまった。
「おっ、おはようございます」
「ああ、おはよう」
こちらの挨拶には思ったよりきちんと返事を返してくれる。
見た目の恐ろしさに反してを意外と律儀な人物であるらしい。
そしてやはりどこか元気のない様に見える。
男はユラリと体を揺らして上体を起こし青年の方を見る。
この男、痩せ身ではあるがしっかりと筋肉があるのは一目見て分かる体格。
高そうなスーツとコートを着ているので身なりは悪くない。
何故か目の下にクマを作っており少しやつれて見えるが、もしやこの人物が家の主人だろうか。
「えっと、ビルモントさんですか?」
「そうだが何か用か?」
いきなり名を呼んだ事で男の眼光が鋭さを増した気がする。
どうやら警戒されてしまったらしい。
たったそれだけで威圧感に押し潰されそうになる青年は、この家への配達を始める際に上司から言われた事を思い出す。
何があろうと家の敷地には決して入らない事、家の人間とは決して揉め事を起こさない事。
これを破った場合、命の保証は出来ないという話だった。
今までは何かの冗談だと思っていたが、その理由が今分かった。
殺されるかもしれない。そんな考えが脳裏を過ぎった時だった。
「旦那様。それくらいにしてあげないと可哀想ですよ」
家の方から届いた声に男の肩がビクッと小さく跳ね、ぎこちない動きで後ろを振り返る。
そこにはエプロンドレス姿の銀髪の女性が立っていた。
「・・・アイラか」
「旦那様、こんな所で何をやってるんですか」
アイラと呼ばれた女性の問いに男の視線が僅かに泳ぐ。
動きも不自然でどこか挙動不審。その姿はどこか怯えている様にも見える。
「少し・・・新聞を待ってただけだ」
「それでしたら受け取ればよろしいのでは?心配なさらなくてもその方はいつもの配達員さんで間違いありませんよ」
「そうか」
そう言われてもお互い初対面なので相手がいつもの配達員かどうかなんて分かるはずもない。
とはいえ彼女の答えで警戒を解いた男から威圧的な雰囲気は消える。
「悪いが朝刊を貰えるか?」
「あっ、はい」
男に言われて青年は慌てて抱えていたカバンの中から新聞を4部取り出す。
「いつも通り一般紙1部、経済紙1部、産業紙が2部です」
「ありがとう」
新聞を受け取った男は短く礼を言うと背を向け、家の方へと歩いていく。
その足取りはどこか覚束ない様で少し頼りなく見える。
「あの、何かあったんですか?」
思わず心配になって尋ねる青年に美女は輝くような笑顔を向ける。
「心配はいりません。たまにある事なので」
「そうなんですか」
そんな笑顔を向けられてしまっては青年にこれ以上追及など出来ようはずもない。
いや、むしろこうして会話が出来た事に天にも昇らんばかりの幸福感に包まれる。
この家に配達を始めて2年。初めて彼女の名前を知る事が出来た喜びも大きい。
「すいませんね。恐い思いをさせて」
「いえ、大丈夫です慣れてますんで」
実際、配達先には鬼族や魔人族の家もあるので強面には慣れている。
もっとも、そのどれも先程の男よりは遥かに温厚に見える。
正直、人間相手にあれだけの恐怖を感じたのはこの仕事に就いて初めてかもしれない。
「先程の方がこの家のご主人ですか?」
「ええ、そうですよ」
その返事を聞いて青年の中に複雑な思いが渦巻く。
このアイラと呼ばれた女性は先程の男と結婚してるのだろうか。
いや、しかし彼女はメイドの恰好をしているので使用人と主人という関係の可能性もまだ残っている。
2人の関係性を想像して悶々とする青年に美女は変わらぬ笑顔を向ける。
「少し恐い人ですけど、根は凄くいい人なんです」
躊躇いなく言い切る彼女を見て青年の胸はチクリと痛む。
2人の関係は不明だが少なくとも今の言葉や仕草から彼女の思いは先程の男に向いていると分かってしまった。
これ程の美人なので男がいるのは仕方ないとは思うがショックではある。
それでも落ち込んでいるのを悟られない様になんとか青年は笑顔を取り繕う。
「しかしながら毎朝新聞4部も取る方には見えませんでした」
思わず青年の口をついて出た言葉にアイラは一瞬目を丸くする。
その瞬間、青年は内心でやってしまったと焦る。
初対面ではないにしろ親しい訳でもない相手に言う冗談ではなかった。
とはいえ言ってしまったものは今更どうにもならない。
どんな反応が返ってくるのか戦々恐々とする青年の前でアイラは可笑しそうに笑う。
「ええ、それは私もそう思います」
良かった。どうやら怒らせる事はなかったみたいだ。
「局員さんはおもしろい方なんですね」
「いえ、そんな・・・」
照れながら頭を掻く青年の前でアイラは思い出したように呟く。
「そういえば今まで何度かお顔を合わせた事はありましたけど、きちんとご挨拶したことがありませんでしたね」
そういうと彼女はエプロンドレスのスカートの両端を持ち上げ一礼する。
「私はアイラ・ミロードと申します」
「あっ、はい、ご丁寧にどうも。自分はバート・ハックラントと申します」
彼女につられる形で自分も自己紹介をするバート青年。
つい先程までお互い名前も知らなかった一郵便局員とメイドだった事から考えると随分とお近づきになれた気がする。
「バートさんですね。配達いつも大変だと思いますがこれからもよろしくお願いしますね」
「ハイッ!おまかせください!」
アイラの言葉にバートは今まで発したことが無いような威勢の良い返事をする。
それからは少しだけアイラと世間話を交わしたバートはアイラに送り出され、意気揚々とその日の配達に向かって走り出した。
「ウォオオオオオオオ!やるぞぉおおおお!」
早朝の草原を駿馬の様に駆け抜けるビート青年。
その頭からアイラとお近づきになれたことで一杯になっており、朝一番に出会った家の主人の事等すっかり抜け落ちていた。
男とはかくも悲しく単純な生き物である。
一方、バートとの会話を終えて家に戻ったアイラはリビングに先に戻ったはずのクロードの姿が無い事に気付く。
「・・・そんなに嫌がらなくてもいいのに」
少しだけ残念そうな顔をするアイラの後ろからグロリア、シャティ、ヒサメの3人が姿を見せる。
「おはよ~アイラ姐」
「おはようシャティ」
「アイラ、クロード見なかった?」
「さっきまでは外にいましたけど」
「また・・・・逃げた?」
「恐らくは」
そこまで言って彼女達は小さく溜息をつくと窓の外に建つ馬小屋へと視線を向ける。
この家の中でアイラ達4人が唯一近づく事が出来ない場所であり、クロードにとっての最後の避難場所である。
馬小屋の中ではクロードが1人粗末な椅子に腰かけて新聞を広げていた。
「ふむ、サルモティ社が新しいタバコの銘柄を出すのか・・・」
興味深い記事に思わず声を出して読むクロードを新聞越しに見つめる2つの眼。
何も言わずこちらを見続ける相手にクロードは新聞を少し下げて視線を移す。
「そんな顔するなシュバルツ。少し場所を借りてるだけだ」
クロードの視線の先には茶色の鬣に黒い毛並みの巨馬が一頭立っていた。
クロードの愛馬。名を「シュバルツ」という。
かなり気取った名前をしているが牝馬である。
名前の由来はドイツ製の同名の黒ビールからきている。
初めて見た時にその姿から黒ビールを連想したからという安直な理由でつけた。
「ブルルルルルッ」
「これ読み終わったら出ていくから勘弁してくれ」
どこか不機嫌そうに嘶く愛馬にクロードは詫びを入れながら新聞に視線を戻す。
機嫌が悪い理由は分かっている。最近その背に乗っていないからだ。
なんとか希望に沿いたいところだがこの巨馬で街に入ると目立つ上、気性が荒いので目を離している間に何をするか分からず会社に乗っていくことは出来ない。
実際、以前に乗っていった時はクロードのいない間に発生したひったくり事件で、勝手に犯人を追いかけた挙句半殺しにしている。
「そういえばまたレースの話が来てるが出るか?」
「ブフーッ!」
レースと聞いてシュバルツの鼻息が荒くなる。
今までにも国営競馬の大会に何度か出場し、出た全ての大会でタイトルを獲得して一部の業界人の間ではスター扱いされている。
ちなみにシュバルツ自身は賞やタイトルに全く興味なく。ただ暴れたいだけだ。
それでも出るレース出るレース全てに勝つので今ではクロードの家の立派な収入源ともなっている。
「そうか。なら先方には出ると伝えておく」
興奮する愛馬にそれだけ言ってクロードは新聞を読むのを再開する。
愛馬の鼻息がやたら大きく聞こえるがそれも今は気にならない。
何より安心して居座れる事が大きい。
そもそも彼が何故こんな場所で新聞を読んでいるのと言うと、家にいると気が休まらないからである。
理由は昨夜ルティアを我が家に迎える話をした事から始まる。
ルティアを迎える話自体は彼女達が勧めた事もあって思ったよりも簡単に話がついた。問題はその後だ。
夜中、クロードの寝室の周囲で蠢く4つの気配のせいで眠れなかった。
新しい女性を家に迎えたり、クロードの周囲で女の影がチラついたりすると毎回起こるイベント。
それは女達からの夜這いである。
クロードを他の女に盗られるかもしれないという危機感からか早急に既成事実を作ってしまおうと思っての行動らしいがこれが非常に厄介だ。
魔術で防御陣を敷いて侵入を防いでいるが、彼女達の使役する強力な精霊や解除魔術を行使しあの手この手で部屋に入って来ようとするので気が抜けない。
アジールが手を貸してくれれば簡単に解決する話なのだが、状況を面白がってまったく手を貸さない。
おかげで防御と結界の魔術に関しては一流レベルにまで上達した。
とはいえ一日中防御陣を敷き続けるという緊張状態にあった為、流石に疲れた。
「朝になったからもう仕掛けてはこないだろうが」
それでもなんとなく顔が合わせづらかったりするのでこうして隠れている。
その点、この馬小屋にはエサやりの時以外は誰も近づかないので安心だ。
「とりあえず朝飯が出来た頃に戻るとするか」
そう呟いたクロードは最初に開いた新聞を閉じて次の新聞に手を伸ばすのだった。
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