第五幕


 第五幕



 午後二時を迎えると同時に配信開始ボタンがクリックされ、ノートPCのモニターの上部にクリップで固定されたWebカメラが起動した。そして今日も今日とて『クマのプーさん』もどきの着ぐるみパジャマに身を包んだ健蔵が、妙ににやけた作り笑いを浮かべながら、やや上ずった声でもって喋り始める。

「やっほーい! カメラの向こうの老若男女諸君、こんにちわ! 今日もこの俺ケンケンによる、『THE★ケンケンSHOW』の生配信の時間だよ! 最後までゆっくりと、楽しんで行ってくれよな!」

 カメラに向かって手を振りながらお決まりの挨拶を述べる彼の姿は、全世界に向けて生配信されていた。つまり今日もまた、ワクワク動画上での健蔵の生配信番組が始まったのである。

「それでは今日もまた、『コール・オブ・デスティニー』を実況プレイしてみたいと思います! 今日こそはクラン戦で勝って勝って勝ちまくって、キルレ小数点以下を脱出して、廃ゲーマーの底力を見せてやるぜ! 期待していてくれよな!」

 どこかで聞いたような内容の発言を今日も繰り返しながら、健蔵は舌を出しながらのダブル裏ピースでもって、カメラの向こうの視聴者を意味も無く挑発してみせた。勿論視聴者とは言っても、それはたいした数ではないのだが、それでも健蔵にとっては大事なお客様の筈だ。その大事なお客様を無意味に挑発する健蔵が一体何を考えているのかは、誰にも分からない。

「そうと決まればさっそく、実況プレイスタート!」

 健蔵の掛け声と共に動画は二画面表示へと切り替わり、片一方の画面にはゲーム機のコントローラーを握った健蔵の姿が、そしてもう一方の画面にはFPS『コール・オブ・デスティニー』のプレイ画面が、それぞれリアルタイムで配信され始める。

「さあてと、今日の対戦相手はどこのクランだ? お? 英語で喋ってるって事は、また外人だな? アメリカの糞ヤンキー共だかイギリスの腐れパンク野郎共だかは知らんが、どこの誰だろうと、このケンケン様に適うと思うなよ? どいつもこいつも、その汚ねえケツをファックしてやるぜ、ファック!」

 マルチプレイモードのクラン戦の準備画面で装備を整えながら、相変わらず対戦相手を口汚く罵り、威勢だけは良い健蔵。だが多くの視聴者の予想を裏切らず、いざクラン戦が始まるや否や、彼が操る兵士は仮想空間の戦場であっと言う間に眉間を撃ち抜かれて即死した。

「あ、糞! 何だこれ? ラグか? そうだ、滅茶苦茶にラグってやがるじゃねえか! て事は、さっきのヤンキー野郎だかパンク野郎だかの、外人共の中の誰かがホストだな? 糞! こんなにラグってちゃあ、いくらこの俺様が天才的廃ゲーマーでも、勝ち目が無えじゃねえか! ファック! 外人ファック!」

 ともすれば人種差別的とも受け取られかねない発言を繰り返しながら、健蔵はゲームをプレイし続ける。しかし何度リスポーンしても、クラン戦のホストが外国人ではラグ、つまりネット回線の通信状態が遅延しているのでまるで試合にならない。健蔵が操る兵士は、仮想空間の戦場でカクカクとコマ送りの様に動くばかりで、こちらが敵兵を発見する前に気付けば既に殺されていると言った有様だ。

 そうこうしている内に、やがて一度も敵兵をキルする事無く、一方的にデスされ続けるだけの試合は終了した。

「ファック! ファック! ファック! なんだこの結果は! こんな不公平な試合があってたまるか! 回線がラグってんじゃあ、この俺様も実力を発揮出来る訳が無えじゃねえか! ふざけんなよ畜生! ファック!」

 顔を真っ赤に紅潮させて唾を飛ばしながら、鼻息も荒く健蔵は憤るが、いくら不平不満を漏らしたところでクラン戦の結果が覆る事は無い。そして九十秒後には、次のクラン戦が開始される。

「ああ、糞! また向こうのクランのメンバーがホストかよ! ほら、やっぱりまた滅茶苦茶にラグってんじゃねえかよ! こんな糞回線じゃ試合になんねえよ! 糞! 畜生! ふざけんな! キルレ小数点以下脱出どころじゃねえじゃねえか! ファック! ファック! ファック!」

 ゲームをプレイしながら、罵詈雑言を並べ続ける健蔵。しかし彼の健闘空しく、クラン戦は一方的な殺戮劇でもって進行し続け、気付けば動画の配信予定時間も残り僅かとなっていた。

「はあぁぁぁ……」

 いつものように腹の底から絞り出すような失意の溜息を漏らすと、絶望的な表情を浮かべた健蔵は、完全に死んだ魚の眼でゲームを終了させた。そしてノートPCを操作し、動画を二画面表示から元のWebカメラだけの表示に切り替えると、いつの間にか健蔵のボロアパートの六畳間に入室していた妹の美綺が画面の端に映っている。勿論今日の彼女も、頭にはフリッツヘルメットを被って顔にはガスマスクを装着すると言った、いつもの格好のままだ。

「健兄ちゃんは昔っからゲームが下手なんだから、いい加減にゲーム実況なんてやめて、もっと別の題材の動画を作ればいいのに」

 畳敷きの床にぺたんとトンビ座りし、膝の上に乗せた猫のスジャータの腹を撫でながら、呆れたような口調でもって美綺は言った。当然その間も、彼女が装着したガスマスクの吸排気口からは「コー、パー、コー、パー」と言った不気味な呼吸音が漏れ続け、止まる事は無い。すると健蔵は背後を振り返り、生配信中の動画の端にギリギリで映っている実の妹に問う。

「おお、我が妹よ。一体いつの間に、どこから部屋に入って来たんだい?」

「さっき合鍵を使って、ちゃんと玄関から入って来たってば。健兄ちゃんったら画面に向かってずっとギャーギャー喚いてばっかりで、全然気付いてないんだもん」

「あっそ」

 美綺の返答に、着ぐるみパジャマを着てゲーム機のコントローラーを握ったまま、健蔵は素っ気無く得心した。するとワクワク動画で生配信中の彼の動画の上に、数少ない視聴者からのコメントがちらほらと流れる。その内容は「なんか変なのキター!」だの「ガスマスク? 女子高生?」だの「ガスマスクプレイとは上級者だな」だのと言った美綺の格好に関するコメントばかりだが、一件だけ「ぬこー!」と、猫のスジャータに反応しているコメントも確認された。そしてそれらコメントの中の、「なんかこの女子高生、エロいカラダしてるな」との一文に、健蔵の眼が留まる。

「エロい? こいつが?」

 そのコメントを読んだ健蔵は背後を振り返り、実の妹である美綺の全身を、改めて睨め回した。言われてみれば確かに、美綺はやや小柄ではあるが、そのスタイルは決して悪くはない。いやむしろ、彼女の胸や尻は平均的な女子高生よりも豊満に発育しているし、ミニスカートから覗く太腿はムチムチとして肉感的で、フェティシズム的な魅力に満ち溢れている。ヘルメットとガスマスクさえ無ければ、むしろ健蔵に代わって美綺が主演を務めた方が、動画の閲覧数を稼げるであろう事は明白だった。

 しかしそんな美綺に対して、彼女が生まれた時から一つ屋根の下で寝起きを共にして来た健蔵は、まるで魅力を感じない。彼にとっての美綺とは、今でもおしっこを漏らして泣きながら兄の後をついて歩く、幼い妹でしか無いのである。

「こんな我が妹をエロいと評するとは、奇特な視聴者様も居たもんだ。それではカメラの向こうの老若男女諸君、今日の『THE★ケンケンSHOW』は如何だったかな? これからも毎日この時間に愉快な動画を生配信し続けるから、是非ともブックマークして、定期的に視聴しに来てくれよな! それとこの俺ケンケンが運営するブログも、愉快な記事が毎日更新され続けているから、動画共々是非ともよろしく! それじゃあ今日はこの辺で、バイバーイ!」

 カメラに向かって手を振りながらそう言った健蔵は、液晶画面に表示された配信終了のボタンをクリックして、動画の生配信を終了させた。そして本日の視聴者数を確認して深く嘆息してから、ノートPCの隣に置かれていたタバコの紙箱とマッチ箱を手に取る。

「あーあ、ホントに馬鹿馬鹿しくて、やってらんねーな」

 そう独り言ちると、健蔵は紙箱から取り出した紙巻タバコを一本口に咥えてからマッチを摺り、タバコの先端に火を着けた。そしてマッチの火を消し、その煙を吸って、まずはマッチの頭薬の原料である塩素酸カリウムが不完全燃焼する匂いを楽しむ。それから改めて紙巻タバコを咥え直すと、深く息を吸い込んで肺胞の奥底でタールとニコチンの風味を味わってから、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

「くあー……。やっぱりタバコは最っ高」

 満面の笑顔でそう言いながら、健蔵は紫煙をくゆらせる。そして愛飲している赤マルボロ一本を根元まで吸い切ると、吸殻に残った火をステンレス製の灰皿で揉み消し、ようやく人心地ついた。

「よし、我が妹よ。これから兄ちゃんは取材に出かけるから、お前も一緒に付いて来い」

「取材? どこに?」

 突然下された兄からの命令に、膝の上に寝転んだ猫のスジャータの腹毛をモフっていた美綺が問うと、健蔵はノートPCやスマートフォン等を外出用のデイパックの中に放り込みながら答える。

「動画のネタとして、最近吉祥寺に新しく出来たと言うパンケーキ屋に、これからアポ無しの凸取材を敢行するぞ! 題して、「流行りのパンケーキを食べると、本当に女子力がアップするのか検証してみた件」だ! この動画で閲覧数を稼げれば、女性視聴者が激増する事間違い無しだぞ、我が妹よ! どうだ? 兄ちゃんはアグレッシブで、クレバーだろう?」

 自信ありげにそう説明した健蔵は、舌出しダブル裏ピースでもって意味も無く妹を挑発しながら、ふふんと鼻息を鳴らしてみせた。しかし実の兄の方向性を間違った行動力と動画のタイトルのセンスの無さを再確認させられた美綺は、只々呆れてかぶりを振り、天を仰ぐばかりだ。

「さて、準備万端。それでは出発しようか、我が妹よ」

 突撃取材に必要な機材を全て放り込んだデイパックを背負ってそう言うと、健蔵は着ぐるみパジャマ姿のまま、美綺を背後に従えてボロアパートから出て行こうとする。しかし彼が玄関で靴に片足を突っ込んだ、まさにその時。彼の部屋の呼び鈴が、ピンポーンと唐突に鳴った。

「何だ? 今日はamazonからもヨドバシからも、何も届く予定はねえぞ?」

 突然の来客を、不審がる健蔵。彼にはわざわざ家まで訪ねて来てくれるような親しい友人は一人も居ないので、たとえ呼び鈴が鳴っても、通販の配送業者が来たと言う発想しか浮かばない。そこで健蔵はドアの覗き窓から、魚眼レンズ越しに来客の姿をうかがう。するとそこには丸眼鏡を掛けて髪をオールバックに固めた長身の男と、パーカーのフードを目深に被った上にサングラスと医療用マスクで顔を隠した性別不明の人物の、合わせて二名が立っていた。

「健兄ちゃん、誰が来たの?」

 美綺が問うと、健蔵はドアの向こうの人物にこちらの存在を悟られないように、ヒソヒソと小声で答える。

「なんか、変な二人組が来た」

「健兄ちゃんの知り合い?」

「いや、あんな奴らに見覚えは無い」

 ドアの向こうの二人組よりも、むしろドアのこちら側の着ぐるみパジャマとガスマスクの二人組の方がよっぽど『変な二人組』なのだが、当人達にその自覚は無いらしい。するといつまで経っても住人である健蔵が出て来ない事に来訪者が痺れを切らしたのか、もう一度ピンポーンと呼び鈴が鳴った。

「どうするの、健兄ちゃん?」

「もしかしたら、変な宗教の勧誘かもしれない。ここは無視して、居留守を使おう」

 再び美綺の問いに健蔵が答えると、二人は居留守を使う事を決めたらしく、その場でじっと息を殺す。するともう一度ピンポーンと呼び鈴が鳴った後に、二人分の足音が遠退いたかと思えば、ドアの向こうから人の気配が消えた。覗き窓から確認しても、もう誰も居ない。

「よし、居なくなったぞ。それでは出発だ、我が妹よ」

 二人組が居なくなったのを確認し、改めて靴を履き始める健蔵。しかし彼は、ふと気付く。

「ああ、そうだ。ニコレットを忘れてた」

 履きかけていた靴を脱ぐと、健蔵は一旦六畳間に引き返し、部屋の奥の机の前へと歩み寄る。そして机の上に、タバコの紙箱と並んで置かれていた小さな紙箱を手に取ると、それを着ぐるみパジャマのポケットに突っ込んだ。その紙箱には、『ニコレットクールミント』と印刷されている。ニコレットとは俗に言うニコチンガムの一種で、喫煙者がタバコの代わりに噛んでニコチンの摂取量をコントロールする、本来は禁煙のためのトレーニングに用いる特殊なガムだ。だが健蔵はこのガムを、タバコが吸えない戸外におけるタバコの代替品として、常時携帯している。

「よし、今度こそ準備万端。改めて取材に出発するぞ、我が妹よ」

 健蔵がそう言い終えるのとほぼ同時に、これで四度目となる呼び鈴が、ピンポーンと鳴った。

「なんだ? またさっきの、変な宗教コンビが戻って来たのか?」

 うんざりした顔の健蔵に、美綺は問う。

「どうする、健兄ちゃん? あたしが出ようか?」

「いいよ、放っとけって。無視だ無視。ああ言った連中は構ってやると付け上がりやがるから、相手にしちゃ駄目だ」

 そう言った健蔵は、再び居留守を使う気満々だった。しかし次の瞬間、彼の目論みは一瞬にして水泡に帰す。何故ならば壮絶な破砕音と共に、築四十年の木造ボロアパートを震撼させながら、彼が住む部屋のドアが内側に向かって吹き飛んで来たのだ。そして今しがたまでドアがあった筈の場所には、黒光りするいかにも高級そうな革靴を履いた、やけに長い人の脚が見て取れる。つまりドアのすぐ外に立つ何者かが、安物の合板で出来たボロアパートのドアを、力任せに蹴破ったのだ。蹴破られたドアは真っ二つに折れた只の廃材と化して、玄関の向かいの壁際に転がっている。

「え……? 何……?」

 呆然とする、健蔵と美綺の桑島兄妹。彼らの眼前で、ドアを蹴破った人物がぬっと姿を現すと、革靴を履いた土足のまま健蔵の部屋へと踏み込んで来た。そしてその人物はぐるりと部屋の中を睨め回し、ジロリと健蔵を睨み据えてから、ゆっくりと落ち着いた声で問う。

「お前が、桑島健蔵か?」

 無表情のままそう問うた人物は、女だった。しかも身長がゆうに二mを越えるほどの長身で、手足がやけに長く、全体的にがっしりとした体格が良い大女だ。また彼女の癖毛の頭髪は短く切り揃えられており、肌が浅黒くて唇が厚い事から、ニグロイドの血が混じっている事をうかがわせる。そして黒い三つ揃えの男物のスーツと赤いネクタイを着用したその大女は、何故か冬でもないのにスーツの上から駱駝色のトレンチコートを羽織り、黒い革手袋を穿いた両手には片手用の斧、いわゆる『手斧』が一本ずつ握られていた。

「……もう一度聞く。お前が、桑島健蔵か?」

「あ、はい、そうです。……えーと、どちら様?」

 トレンチコートの大女の二度目の問いに、未だ状況が飲み込めていない健蔵が間抜けな返答を返した、次の瞬間。その場で大きく振りかぶったトレンチコートの大女は、右手に持っていた手斧を渾身の力でもって投擲し、その投擲された手斧が回転しながら健蔵の顔面に迫る。

「ひいっ!」

 間抜けな悲鳴を上げながら、健蔵は咄嗟に、頭を庇うようにして身を屈めた。すると空を切り裂いて飛んで来た手斧は、今しがたまで彼の頭が存在していた空間を通過してから部屋の反対側の壁にドスンと突き刺さり、止まる。もし仮に、ほんの僅かでも健蔵が身を屈めるのが遅れていたならば、彼の頭は真っ二つにかち割られていたであろう事は想像に難くない。そして理由は分からないが、とにかくトレンチコートの大女が明確な殺意を抱いて健蔵を殺しにかかっている事は明白だ。

「え? え? 何? 何なの?」

 状況がまったく飲み込めず、身を屈めたままオロオロと狼狽し、混乱するばかりの健蔵。そんな彼の疑問に答える素振りも無く、手斧を投擲したために右手が空になったトレンチコートの大女は、その空になった右手でコートの懐を探った。すると懐の中から新たな手斧が現れ、再び両手に手斧を握った大女は、今度は投擲ではなく直接攻撃でもって健蔵を亡き者にせんと距離を詰める。

「ひえええぇぇぇっ!」

 二刀流の構えでもって迫り来るトレンチコートの大女に恐怖し、半ば腰が抜けた状態で畳敷きの床にへたり込んだ健蔵は、恐慌の声を漏らした。そして六畳間をほんの数歩で縦断し終え、手斧の間合いに健蔵を捉えた大女は、その手斧で彼の頭をかち割るべく振りかぶる。

「フーッ! シャーッ!」

 その時、ドアが蹴破られた音に驚いて六畳間の隅に退避していた猫のスジャータが、自分の縄張りに土足で踏み込んで来た闖入者に向かって牙を剥きながら威嚇の声を上げた。すると獣の咆哮に本能的に反応したのか、それとも単に猫が嫌いなだけなのか、トレンチコートの大女は振りかぶっていた手を止めると、健蔵の頭に狙いを定めていた手斧をスジャータに向けて構え直す。一瞬だが大女の動きに隙が生まれ、その一瞬の隙を美綺は見逃さない。

「健兄ちゃん、逃げて!」

 二畳しかない台所に置かれた冷蔵庫の前で呆気に取られ、実の兄が今まさに屠られんとする姿を、只呆然と見つめていた美綺。彼女はハッと我に返ると、健蔵に向かって大声で指示を下した。すると健蔵はその指示に従い、床にへたり込んだ四つん這いの体勢のまま、文字通り這う這うの体でもってトレンチコートの大女の脇を駆け抜けようとする。だがそんな彼の眼前には、改めて健蔵の頭部に狙いを定め直した大女の手斧の白刃が、横薙ぎに迫り来ていた。

「ひいっ!」

 再び間抜けな悲鳴を上げながら咄嗟に身を屈めた健蔵は、まさに地を這うような体勢でもって、トレンチコートの大女が振り抜いた手斧をギリギリのタイミングで避けてみせる。すると手斧は彼の頭を掠め、『クマのプーさん』もどきの着ぐるみパジャマのクマの耳の片一方が、丹念に研がれた鋭利な刃によって切断された。

「ひいっ! ひいっ! ひいっ! ひいっ!」

 畳敷きの床にぽとりと落ちたクマの耳の片一方だけを残して、トレンチコートの大女の脇を駆け抜けると、健蔵は命からがらボロアパートの玄関を目指す。そして足をもつれさせながらもなんとかボロアパートからの脱出に成功すると、そのまま脇目も振らずに裸足のまま、住宅街の街路を全速力でもって逃走し始めた。

 ボロアパートの彼の部屋には妹である美綺と猫のスジャータを残したままであるが、女子供や小動物を身を挺して守ろうなどと言うような気概や甲斐性は、ニート一歩手前のクズ人間である健蔵は微塵も持ち合わせてはいない。

「何? 何? 何なのコレ? なんで俺、逃げなきゃなんないの?」

 何が何だか訳も分からず、涙眼になりながらも、必死で逃げ続ける健蔵。何故自分が、見ず知らずの大女から突然命を狙われなければならないのか皆目見当も付かない彼は、裸足のまま只ひたすらに住宅街を逃げ惑う。そしておよそ百mばかりも走ったところで、彼はチラリと、走りながら背後の様子をうかがった。するとトレンチコートの大女が両手に持った手斧を振りかざしながら、まるで逃がす気が無いとでも言いたげに、健蔵の背後をぴたりと追って来ているのが眼に留まる。しかも彼女の表情は怒っているでも笑っているでもなく、淡々と仕事をこなす職人の様な、ビジネスライクな無表情だった。

「ひええええぇぇぇぇっ! たーすーけーてー!」

 誰にともなく助けを求めながら、人気の無い昼下がりの住宅街を裸足で逃げ惑う、間抜けな着ぐるみパジャマ姿の健蔵。そして彼の五十mばかり後方を、無言無表情のまま執拗に追い続ける、両手に手斧を握ったトレンチコートの大女。どこからどう見ても反社会的な不審者でしかない二人の距離は、大女の方が若干足が速いために、じわじわと縮まりつつある。

「ひゃああああぁぁぁぁっ!」

 再びトレンチコートの大女が投擲した手斧が回転しながら飛んで来たかと思えば、健蔵の頬を掠めてから道沿いの街路樹を真っ二つに切り裂き、その街路樹がめきめきと音を立てて倒木した。その光景を見た涙眼の健蔵は益々の声量でもって悲鳴を上げ続けるが、当然ながらこんな住宅街に、彼を助けてくれる者など誰も居ない。そしてトレンチコートの大女は再びコートの懐から新たな手斧を取り出すと、遂に健蔵のすぐ背後、手を伸ばせば届きそうな距離にまで迫り来る。

「健兄ちゃん!」

 その時、逃げ惑う健蔵の耳に届いたのは、後方から自分の名を呼ぶ実の妹の声と唸るエンジン音。見れば背後から追って来るトレンチコートの大女の更に背後から、愛車であるヤマハYZF-R1に乗った美綺が、アクセル全開でもって高速接近しつつあった。そしてトレンチコートの大女を追い抜いた彼女は、裸足で走り続ける着ぐるみパジャマ姿の健蔵と併走すると、彼に指示を下す。

「健兄ちゃん、後ろに乗って!」

「おお、助かったぞ我が妹よ!」

 走りながら礼を述べた健蔵は、美綺の操るバイクのタンデムシートの後部座席に、強引に飛び乗った。

「おっとっとっとっと」

 体勢を崩して回転する後輪とギアに巻き込まれそうになりながらも、なんとか実の兄が自分の背後の座席に飛び乗った事を確認した美綺は、エンジンの回転数を上げてトレンチコートの大女からの逃走を試みる。しかし彼女達が追走劇を繰り広げているこの場所は、レース場でも高速道路でもない、只の住宅街だ。それも世田谷区の成城や千代田区の番町の様な高級住宅街ではなく、どちらかと言えば貧民街に近い、古くて汚い低所得者向けの住居が密集する下町の住宅街である。その結果としてこの辺り一帯を毛細血管の如く走る道はどれも狭くて見通しが悪く、行き止まりや突き当たりや急カーブや段差が、まるで米軍兵士を足止めするベトコンの罠の様に張り巡らされていた。そして美綺と健蔵が乗ったバイクはそれらの罠に捕まる度に急激に減速しなければならず、当然ながらトレンチコートの大女は、そのタイミングで攻撃を仕掛けて来る。

「我が妹よ、もっとスピードを出せ! このままじゃ、いずれ追いつかれるぞ!」

「無理! これ以上出すとコケる!」

 健蔵がいくら急かしても、この狭い住宅街を抜けるまでは、本来はレース仕様車であるヤマハYZF-R1の真価である加速力を発揮する事は出来ない。勿論真価を発揮出来ないのは、美綺のドライビングテクニックもまた然りだ。そして何度目かの丁字路に差し掛かったバイクが減速し始めた間隙を突いて、後方から全力疾走して来たトレンチコートの大女が距離を詰めると、健蔵の頭部目掛けて横薙ぎに手斧を振り抜く。

「ぴゃいぃっ!」

 もうこれで何度目になるのか、バイクのタンデムシートの上で、眼に涙を浮かべながら奇妙な悲鳴を上げる健蔵。高速で振り抜かれた手斧の鋭利な切っ先が再び彼の頬を掠めたが、丁字路を曲がり切ったバイクの加速がギリギリで間に合ったがために、健蔵の頭部が着ぐるみパジャマごと真っ二つになる事態だけは避けられた。すると目標を仕留め損ない、勢い余った手斧は、その丁字路の曲がり角に設置されていた日本コカ・コーラ社の自動販売機に突き刺さる。いや、突き刺さると言うよりも、自動販売機の筐体の一部を力任せに抉り取って行ったと言う方が正確だろうか。とにかく鋼鉄製の筈の自動販売機の筐体が、まるで紙細工の様に、いともあっさりと破壊されてしまったのだ。そして内部の制御系が壊れたらしい筐体の商品取りだし口からは、ガコンガコンと350mlの缶コーラが次々と排出されて地面を転がると同時に、配線がショートしたらしい電気回路がバチバチと火花を散らしながら煙を吹く。

「急げ! 我が妹よ、急げ!」

「だから無理だって!」

 尚も健蔵は妹を急かすが、バイクに二人乗りした桑島兄妹の向かう先には、新たな丁字路が待ち構えていた。そして当然ながら、その丁字路を曲がり切るにはバイクを減速させざるを得ないが、今ここで減速させてしまってはトレンチコートの大女に追いつかれてしまう。そして大女は、このタイミングで確実に健蔵を亡き者にせんと、急加速しながら右手に持った手斧を大きく振りかぶった。もはや絶体絶命、万事休す。健蔵の命は風前の灯である。

「死ぬっ! 死ぬっ! 死ぬっ! 殺されるーっ!」

 往生際の悪い健蔵が、迫り来る手斧の白刃を前にして泣き叫んだ、その時。唐突に背後からけたたましいクラクションの音が鳴り響き、健蔵と美綺とトレンチコートの大女の三人の鼓膜を蹂躙した。気付けば狭い下町の住宅街の街路を、大音量のエンジン音を轟かせながら、一台のダンプカーがこちらに向かって猛烈なスピードでもって突進して来るのが眼に留まる。しかもダンプカーの運転席は、無人。そして突進して来た無人のダンプカーは一切減速する事無く、むしろ更に加速しながら、手斧を振りかぶっていたトレンチコートの大女を容赦無く跳ね飛ばした。

 呆然とする健蔵と美綺の眼前で、壮絶な破砕音と共に、豪快に跳ね飛ばされるトレンチコートの大女。物体の持つ破壊力は、その物体の硬度と質量と速度、つまり硬さと重さと速さによって決定される。そしてこれら三つ全てを兼ね備えたダンプカーに激突された彼女は紙屑の様に吹っ飛び、そのまま丁字路の突き当たりに店舗を構えていたコインランドリーのガラス戸を突き破ったかと思えば、壁沿いに並べられていた大型衣類乾燥機にしたたかに全身を打ち付けた。しかもそこに、大女と激突しても微塵も減速する事の無かったダンプカーが、追い討ちをかけるようにして突っ込む。すると無人のダンプカーはトレンチコートの大女を衣類乾燥機ごと次々と薙ぎ倒し、頑強な車体とコインランドリーの建屋の壁とでグシャリと潰すようにして挟み込んだ後に、ようやく停車した。潰されたトレンチコートの大女もまた、ピクリとも動かない。

「助かった……のか?」

 丁字路で減速しながらも、ダンプカーをギリギリで避け切ってみせたバイクが停車すると、そのタンデムシートの後部からアスファルト敷きの路面へと降り立った健蔵がボソリと呟いた。彼の眼前では道幅一杯のダンプカーがコインランドリーの店舗に突っ込み、昼下がりの閑静な住宅街は一転、凄惨な事故現場と化している。

「……へっへーんだ! お前なんか、ちっとも怖くなかったもんね! この俺様に向かって手を上げたりするから、ダンプに轢かれるような眼に逢うんだ! 罰が当たったんだ、罰が! 地獄で後悔しろ! このキチガイ女!」

 ダンプカーの事故現場に一歩歩み寄った健蔵は、車体に隠れてその姿は見えないが、ダンプカーとコインランドリーの壁とに挟まれて潰れている筈のトレンチコートの大女に向かって舌出しダブル裏ピースでもって挑発しながら言った。しかしそう言う彼の声と膝とは僅かに震えていたので、その言葉とは裏腹に、手斧を持った大女に追い回されるのは相当怖かったのだろう。

「それで、結局今の斧を持った女の人は、何だったの? 健兄ちゃん、何か心当たりはある?」

「さあ……? 見覚えの無い女だし、あんなデカい黒人女に恨みを買った覚えは無いけどなあ……?」

 美綺の問いに健蔵が答えたが、二人には自分達が置かれた状況がまるで飲み込めないので、揃って首を傾げるばかりだ。するとそこに、先程ダンプカーが発したのとはまた別の車輌のクラクションが、プップと鳴らされた。見れば街路の一角に一台の軽自動車が停められており、その軽自動車の傍らに立つ一人の男が、健蔵と美綺の二人に向かって手招きをしている。

「あれ、誰? 健兄ちゃんの知り合い?」

「いや、知らないな。……待てよ? 確かあれは、さっき俺の部屋の呼び鈴を押した変な宗教コンビの片割れだ」

 手招きされたので、バイクから降りた健蔵と美綺はゆっくりと軽自動車に近付きながら、男の正体について言葉を交わした。そして健蔵の言葉通り、軽自動車の傍らに立つ男は、先程彼の部屋を訪ねて来た丸眼鏡を掛けて髪をオールバックに固めた男に相違無い。またよく見れば軽自動車の助手席には、パーカーのフードを目深に被ってサングラスと医療用マスクで顔を隠した、宗教コンビのもう一人の片割れの姿も確認出来る。

「やあ、怪我はありませんか? あなた達が無事で、本当に良かった」

 接近して来た健蔵と美綺に、オールバックの男が歯を剥いてニタニタと笑いながら話しかけて来た。

「はあ……。えっと、どちら様で?」

 健蔵が問うと、オールバックの男はダンプカーが突っ込んだ丁字路とは逆の方向を指差しながら提案する。

「とにかく、詳しい話は後でゆっくりとする事にして、まずは一旦この場所から離れましょう。このままでは人が集まって来て騒ぎになりますし、警察の厄介になるのは、私達にとってもあなた達にとっても得策じゃないでしょうからね。だから今は、私に付いて来てください」

 そう言ったオールバックの男は軽自動車の運転席に乗り込むとエンジンを掛け、ゆっくりと車を発進させた。そして彼の指示に従い、改めてバイクに乗り直した健蔵と美綺の二人は、軽自動車の後を追う。彼らが住宅街から去るのと入れ替わるようにして、騒ぎを聞きつけた近所の住人達が、事故現場に集まりつつあった。

 トレンチコートの大女が振るった手斧によって破壊され、ショートした電気回路からバチバチと火花を散らし続けるコカ・コーラ社の自動販売機の周囲には、幾つもの350mlの缶コーラが静かに転がっている。


   ●


 健蔵と美綺が乗ったバイクがオールバックの男の運転する軽自動車の後を追って住宅街から姿を消した、数分後。ダンプカーが突っ込んだコインランドリーの店舗の周囲には野次馬が集まり、事故現場を遠巻きに取り囲んで騒然としていた。半壊した店舗の屋根や壁は今にも崩れ落ちそうで、野次馬達も倒壊に巻き込まれるのを嫌ってか、店内にまで足を踏み入れはしない。

 すると不意にダンプカーがガタンと揺れたかと思うと、その重厚で頑強な車体が、突っ込んでいたコインランドリーの店舗からゆっくりと後退を始める。どよめく野次馬達。そしてダンプカーと店舗の壁、更に大型衣類乾燥機に挟まれて潰された筈のトレンチコートの大女が、ダンプカーが後退した事によって出来た隙間からぬっと姿を現した。いやそもそも、重量10tを越えるダンプカーを手で押して後退させたのが、誰あろうこの大女自身なのである。

 一見したところ、崩れた壁の破片と砂埃で衣服や頭髪が汚れてはいるが、トレンチコートの大女に目立った外傷は見受けられない。むしろダンプカーに跳ね飛ばされ、更にコンクリート製の壁と車体に挟まれて潰された筈なのに、その身体は五体満足でぴんぴんしているのが却って不気味だった。そして周囲の野次馬達が益々をもってどよめきながら見守る中で、相変わらずの無表情のままコインランドリーから出て来た大女は、周囲をぐるりと見渡して獲物の姿を探す。しかし獲物である桑島健蔵の姿が視界の中に無い事を確認した彼女は、まるで土下座するかのように、突然地面にべたりと這いつくばった。何事かと思ってよく見れば、トレンチコートの大女はアスファルト敷きの路面に鼻を付けて、くんくんと匂いを嗅いでいる。

「こっちか」

 やがて匂いを嗅ぎ終えると顔を上げ、健蔵達が走り去った方角を向いたトレンチコートの大女は、ボソリとそう呟いた。そして彼女は脇目も振らずに、好奇の眼を向ける野次馬達も意に介さず、一心不乱に走り始める。

 国道の方角からは、トレンチコートの大女が走り去った後の事故現場へとパトカーのサイレンが近付きつつあったが、既に事故の当事者は誰一人として残っていない。

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