カフェ「菓子と麦酒cakes and ale」へようこそ
夕星 希
第1話 ミサキの場合
「マスター いつものね。」
ミサキは浮腫んだ片方のふくらはぎを反対側の手で揉み、ヒールを半分脱ぐ。働く女性がするこのしぐさは、サラリーマンがリラックスしたいとき、自分のネクタイをゆるめるのと同じ意味なのだと彼女は勝手に考えている。
「営業は……」
傍らのビジネスバックからは、分厚い資料が覗く。
「一に根性、二に根性、三四がなくて五に……」首を廻し、肩を叩くと両手を広げ、
爪に塗られたエナメルが剥がれていないかを確認する。
「……愛嬌っ!」
いつもミサキは決まって水曜日の午後、カフェ「菓子と麦酒」に立ち寄る。
ミサキは、ここのマスターが作るクロテッドクリームをはさんだ、大ぶりのスコーンが食べたくて、仕事中にもかかわらず隣町から自転車を漕いでやって来る。
お局から嫌味を言われても。
上司から減給だと脅されても。
だからではないが、水曜日は午後10時まで働くことにしている。
初老のマスターは、どういう訳かミサキの名前がいつまでたっても覚えられず、いつも「やぁ、サキちゃんいらっしゃい。」と言いながら、熱いおしぼりを目の前に置く。
ミサキは、半ば諦めたふうに愛想笑いをする。
店のBGMは、
エラ・フィッツジェラルド。
カウントベイシー・オーケストラとの掛け合いがクールなナンバーだ。
ミサキは、スコーンを頬張りながら、前から聞こうと思っていたんだけど、と前置きをして
「『菓子と麦酒』って名前、何か意味があるの?」と、気安くマスターに尋ねた。
マスターは、次にかけるレコードを物色しだした。「次は、コレ」と言いながら
レコード・プレーヤーの脇に置く。
「サキちゃんは、サマセット・モームは読んだことあるかな?」
「月と6ペンス……」
「そう。その人。」
マスターは、店の名前の由来を何度も何度も客に説明するうちに、とうとう小説の、
「菓子と麦酒」の冒頭と中間、そしてエンディングを暗唱してしまった。評判を聞いて来た文学オタクの客にそれを披露するのが最近の慣わしとなっていた。
もちろん、店の名前の由来を尋ねて来たミサキにも、披露した。感情は平坦であったが、それであるがゆえに、かえって引き込まれた。マスターは、ゆっくりではあるが、しかし確実にアシェンデンに成りきり、ロウジーを愛する主人公として話した。
たくさんの男を手玉に取るロウジーは世間ではすこぶる評判の悪い女であったが、アシェンデンは分かっていたのだ。ロウジーはロウジーの純粋な「愛」を惜しみなく男たちに捧げていたことを。
ミサキは、自分は、まだまだ子どもだと思った。
最後のレモン・ティーが口に運ばれた瞬間、熱い涙がミサキの頬を伝った。
「人を愛することは、一生のテーマだと思わないかい?」
マスターは、レコードをターン・テーブルに静かに置いてそう言った。
ミサキは、数ヶ月前に遠距離の寂しさから、3年付き合ったシンヤと別れた。
皆にゴール目前だといわれていた二人だった。
30歳になったミサキは、失恋の喪失感からなにもかにもヤケになり、
捨て猫のように、このカフェにたどりついた。
人を愛することとは……
人を愛することとは……
いったいどういうことなんだろう?
自分の体や心が回復しないまでに深く深く傷つくこともある。
絶望して深遠の淵を彷徨い、明日という希望も見えない状況の中で……
けれど、傷つきながらも人を愛したのはまぎれもない自分なのだ。
「愛すること、忘れること、許すことが一番大変で、時間はかかるみたいだけれど、それを乗り越えた時、かけがえのない今を、そして自分を、心から大切にしようと思うよ。」マスターは言った。
「会社に戻ります。」
ミサキは吹っ切れたようにカフェを出て行った。
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