X-1 動画

 1

 

 夜遅くだというのに教会からはかすかに灯りがもれていた。

「兄さん」

 イロハだ。教会に来る道すがら、妹に連絡を入れておいたのである。

「イロハ、何も変わったことはない?」僕が訊く。

「はい、私には何も。一体どうしたんですか」イロハが答えた。

「別にどうというわけじゃない。博士とは連絡が取れた?」

「それが、いないんです」

「いない?」僕はイロハの言葉を繰り返した。

「兄さんから連絡があって、博士の部屋を見に行ったんですけど、博士、どこにもいないんです」

「……とにかく、博士の部屋に行ってみよう」

 僕は妹を連れ立って博士の部屋へと向かった。

 

 夜の教会はしんと静まり返っていた。

 壁を一つ越えるだけでオフィス街に出られるはずのその場所が、僕には無性に遠いものに感じられた。

 教会の壁の真ん中に不思議な文字がかかっている。世界の最後から5分前の文字。僕はなぜか世界5分前仮説という話を思い出した。歩きながらイロハに話す。妹は不思議そうに僕を見た。

「世界5分前仮説ですか?」

「イロハは知ってる?」

「いえ、知りません」

 イロハは首を横に振る。

 イロハは何も知らない。

「ラッセルっていう哲学者兼科学者がいるんだけど、彼の仮説――というか思考実験の一種だよ」

 世界5分前仮説とはこんな与太話である。

 例えばもしも世界が5分前に、5分前の状態で神様に作られたとしよう。その時人間は世界が5分前に作られたと気が付くだろうか?

「世界が5分前に5分前の状態で作られる?」

「僕たちの記憶や精神状態、水の一滴から地球の回転まで、ありとあらゆるものが5分前に、まさに5分前の状態で作られたとしたら、その時僕たちは5分より前の世界がないことに気が付くだろうか?」

「それってつまり私の心や行動も全部そのように作られるんですよね? それだったら気が付くわけないじゃないですか」

 僕は頷いた。確かにそうだ。5分前に5分前の世界が作られたとしても、僕たちにそれが5分前に作られたのか、それとも137億年前に作られたのか区別する方法はない。

「……で?」

「で?」

「それで何なのですか?」

「なにって?」

 僕が訊き返す。

「そんな当たり前の思考実験に意味ないでしょう? なにかもっと深い意味があるんですよね?」

「いや、知らない」

「知らないって……」

「たぶんきちんと意味があるんだと思う、これだけじゃあまりに当たり前で、こんなに有名になる理由がわからないから。僕は残念なことにラッセルの著作は読もうとして挫折した経験しかないから、詳しいことは知らないんだ」

「兄さんでも知らないことがあるんですね」

「当たり前だろ」

「ていうか世界の最後の5分前の文字と世界5分前仮説って何の関係があるんですか」

「語感が似てる」

「それだけです」

 それには僕も同意した。

 博士の部屋に着く。博士の部屋は相変わらず思わず震え上がるほどの冷気が立ち込めていた。博士の部屋は薄暗く、部屋の奥に見えるサーバのインジケータだけが瞬いてあたりをかすかに照らしていた。イロハが電気をつける。荒れた女の部屋があらわになる。

「やっぱりいませんね」

 イロハがつぶやく。

 博士の姿は見当たらなかった。

 僕は博士の携帯を探した。今日の昼にも見たそれはベッドのシーツの上に投げ出されていた。中を見る。不用心なことにセキュリティはついていない。履歴を調べると、最後に僕からの着信が残っていた。

「どこに行ったのでしょう」

 イロハが不安そうに言う。

 僕はベッドの横に据えられた机に目を移した。机の上にはいくつものディスプレイが並んでいた。とりあえずキーボードに触れる。コンピュータはスリープ状態から復帰し、ディスプレイに明かりが戻る。

 デスクトップはものすごくごちゃごちゃしていた。フォルダが大量に並び、とてもじゃないが知らない人ではわからないだろう。

「これじゃないですか?」

 イロハがその中から一点を指さす。

 それはムービーファイルで、ファイルの名前は"救世主君へ"とあった。

 直球だった。

 僕はそのファイルを開いた。

 

 

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