或る人々の商談

米野よねこ

声売り屋

 男が一人、ビルの上で思い詰めていた。顔面は蒼白、脂汗をかき、体はぶるぶると震え、目はかぁっと見開かれていた。この光景を見れば、男が何をしようとしているかは明白であろう。男は、自らに嫌気がさしていたのだ。

 口を開けば言葉は足をもつれさせて「どもり」となって出てくるし、何とかそいつらをなだめすかして言葉を積み上げればそれは醜悪な化け物となって他人を襲い、男にとってとんと益をもたらさぬそれに、男は心底疲れ果てたのだ。

 こんな体とはおさらば決めてしまって来世にでも期待しようと思い立ち、今ここまで来たまではよかったのだが、いざ事に及ぶ前に下を覗いてしまったのが悪かった。行き交う光にじっとしている光、すべての光がじいと男を見つめ、男が飛び降りるのを今か今かと待ち望んでいるかのように見えてしまったのだ。ひい、とのどが音をならす。肌がべたついて気持ち悪いと訴えかけてくる。心臓より先に足が怖気づいている。ええい、こんなにも体が駄々をこねるのでは、心でいくら覚悟を決めたところでどうにもならないではないか。などと自分自身に言い訳をしながら、数刻前まではもう歩くことはないと思っていた階段を再び踏みつけにするために後ろを振り返った。


 と。


「こんばんは……なにかお悩みのご様子で?」


 つるりとした雰囲気の、表情の見えない人間が至近距離でこちらに語り掛けてきたものだから、男はもうたまらない。ぎゃあ、だか、わあ、だかよくわからない悲鳴を上げて、一度決別の気持ちを固めたはずの欄干へと倒れこむ。


「おや、そんなに怖がらないでくださいな。わたくしは只の商い人でございます。」


 深く被った帽子の向こうからくつくつ、と笑うその相手に、男は大層機嫌を悪くした。


「お、お、おまええ、どうして、そんな、ば、ばかにするんだあ。」

「莫迦に?」

「そ、そうだあ。おおお、おれがとびこもうとするのを、うし、うしろからじいっとみて、さあしね、やれしね、だのと、たの、たのしんでいたんだろうがあ。」

「まさかぁ。さっきも言いましたが、わたくしは只の商い人。取引先が一つ潰れてしまうかも知れないとなれば、それはもう恐ろしい気持ちで御座いましたよ。何しろわたくし、花屋でも棺桶屋でも、増してや葬儀屋でも御座いませんので。」

「ふ、ふ、ふざけているのかあ。」

「いいえ、ちっとも。わたくし真面目に商談をしたく貴方様にお声を掛けたく、ご都合の好い時を伺っていたのですが、貴方様、余りにも真剣な面持ちで御座いましたので、ついこの様な形でのお目見えとなってしまいまして。……ああ、そうですね。その節では大変なご無礼を致してしまいました。申し訳ございません。」


 つるつると、絹織物のように喋るその声は、男に付け入る隙を与えなかった。いや、男が付け入るつもりにならなかった、と言ったほうが正しいのだろうか。例えるなら、美しい絵巻物を、途中でえいそれと鋏を入れてば罰が当たるのではないかという感覚に似ているだろうか。とかく商い人と名乗る人間の喋りは、頭から尾の先まで聞いていなくてはならない様な気持ちにさせられた。


「ええ、ええ、申し訳ありませんとも。何しろわたくしの売り物はまず話を聞いてもらわない事には効果を実感していただけません故、まず一から十までご説明を聞いていただかなくてはならないのです。それなのにわたくしときたら、おお、恥ずかしいやら。浅ましいやら。」

「い、……いや、き、きにするほどの、こ、ことでも」

「そうですか、そうでしたか!いやあ御心の広い事で大変わたくしは嬉しゅう御座います。それに、貴方様でいらしたら、きっとわたくしの扱う売り物は気に入っていただけると思います。故に、是非に、是非にお話を聞いていただきたかったのですよ。」


 一拍、間が空く。そして。


「……何しろ。わたくしの扱う売り物は、“声”でございますので。」


 商い人は、ここぞといわんばかりに力のこもった声でこう言った。


「……こ、え?」

「ええ!人の印象というのは見た目八割などとはよく言いますが、その見た目というのは眼球に映るものだけでは御座いません。耳に映る声も姿の一部と言えます。故に人前に出る時は立ち居振る舞いだけではなく声までも人は整えてから出向くのです。わたくしは、その声そのものを取引しているのですよ。」

「は、はなしがみえてこないのだが。」

「そりゃそうでしょう。砂でも使わない限り声の波紋というものは見えませんもの。ああ、詐欺では御座いませんよ。ちょっと試してみましょうか。」


 そういうと、商い人は何時の間にか取り出してきた鞄から、えいこらと瓶をいくつか取り出した。そうして、一つの白い靄の詰まった瓶に口をつけてから、今度は蝶のような物の詰まった瓶に口をつけた。


「……ふう、さて、お分かりいただけますかしら?これが私の売り物ですの。」


 途端、商い人の声が変わった。今までのすべらかで清らかな、真珠か絹かといった声から、まるで、帳の向こうで薄布一枚と共に共寝を強請る女のような声に。


「……は、え?」

「あら、思った以上に驚かれていらっしゃるわ。私、とても嬉しくてうれしくて仕方がないわね。何しろ私の魅力に気付いていただけるのですもの。」

「……い、いや!お、おまえのこえまねが、いじょうにうまいから、わ、わざわざ、おれごときを、だますために、そんな、むだなろうりょくをつかうなんて、きとくなやつが、いたもんだなと、おどろいたのだ!」

「おや辛辣。私泣いてしまいますわよ?」


 うふふ、と笑う商い人は、それからも多種多様な何かの詰まった瓶に口をつけては、まるで別人の様な口調で話し始める。ある時は縁側に差し込む日の光の様な温かい声の老人、ある時は切りたてのオレンジの様な瑞々しさと力強さを持った少女の声。喋っている人間は一緒なのに、声が違うだけでこうも印象が変わるのか、商い人の姿だけは徹底的に無個性に見えるせいか、余計に声による印象というものに強く雰囲気が揺さぶられていた。男の頭がくらくらしてきたころ、最初の白い靄の詰まった瓶に再び口をつけて、商い人はにこりと笑った。


「この様な次第となっております。効果の程、ご理解頂けました?」


 正直、男は未だに商い人の言葉を完全に信用したわけではなかった。随分と声真似のレパートリーが多いものだ、と内心小莫迦にしていた。

 しかし、もし、本当に、男の全ての足を引っ張るこの声を、何とかすることができたとしたら、どうだろう?

 そんな考えが、商い人を鼻で笑う自身の後ろから囁いてきていた。ごくり、と喉がなる。結局のところ、男は商品に興味がわいて仕方がないのだ。しかし、長年培われてきた経験というものが、男に素直になるという選択肢を与えないのだ。考えて考えても、ひねくれた言葉しか出てこない。そして、また、いざこざを起こす。それはまるで、下り続ける螺旋階段の様であった。そんな男の内心を見透かしたのか、そうではないのか、そこは最早男から見ても定かではなかったが、商い人はにぃと笑った。


「思い立ったが吉日、などとも言いますよ……お客様?」


 結局、男は商い人の声に乗せられて、商談とやらに乗ることにした。訳の分からない商品なのだから、きっと法外な値段を請求するのだろうとあてこすってみたが、商い人はけろりと言った。


「おや、お客様から此の度は金子を頂くつもりは御座いませんよ。ただ貴方様の声をそのまま頂ければ満足でございます。」

「……ど、どうしてだ。お、お、おれのしゃべりかたなんて、だ、だ、だれも、とくしないんじゃないのか。」

「捨てる神あれば拾う神あり、なので御座いますよ。お客様の様なお声をしていらっしゃる方で、取引に乗っていただける方は貴重で御座います。故に、商品のストックが増えるのでしたらこちらは万々歳なのですよ。」


 男にはやっぱり話が見えてこない。見えてこないが、どうせ気にしたところで煙に巻かれるだけに思えたので、男はそうかとそれ以上追求しなかった。


「そうですね、……お客様でしたらこちらの声などどうでしょうか。」


 そういって差し出された瓶の中には、青い牡鹿が青い木立の中でこちらを見つめているのが見て取れた。……この瓶の中身は、さっき見たような気がする。商い人がこれに口をつけたところ、確か若い男性の声で話すようになった覚えがある。さわやかで、それでいて、どこか賢しい印象を与えさせる声だった。


「いきなり声の印象をまるっきり変えてしまうのは、少しばかり他のお方に驚かれてしまって、いらぬ諍いを生んでしまうことが御座います故。この様にお客様の見た目からそこまで浮かない声にお変えするのが宜しいかと思われます。」


 じい、と、瓶の中の鹿と共に商い人がこちらの様子を伺っているのがわかる。正直、ここまで来て何も起こりませんでした、なら、相手を一発ぶん殴ってやればいいし、何か起こればそれはそれで、ろくなことが起こらなかったとぶん殴ってやればいい、といったところで、男としては最早なるようになればいいと思っていた。自分がどんな声になりたいか、とか、そんなことを一切考えもせず、では、そうしようとかなんとかいって、瓶の中身を一息に飲み干した。

 どこかで、何かが悲鳴をあげる声がしたような気がした。


 で。


 男は商い人をぶんなぐる次第になったのかというと、そんなことはなかったのである。瓶に口をつけた途端、何か喉を後ろから刺すような痛みを感じ、この野郎、毒を盛りやがったなと抗議の声をあげようとしたところ、


「ちょっと!こんなの、聞いてないですよ!まさか中身に毒が入っているなんて……え?」


 この通りなのである。どもりは消え去り、荒い言葉遣いは丁寧に飼いならされ、まるでどこかの御曹司の様な雰囲気すら漂わせる自分の声に、男は思わず声に似合わぬ情けない声を上げた。


「おや。せっかくいい声になりましたというのに、ご不満でしたか?」

「ああいえ、そういうわけではないのですよ。ただちょっと……喉が痛くなる、という話を聞いていなかったもので、驚いたものです。こんなに声が変わってしまうとは。」

「だから言ってますでしょう。わたくし、声を売る商人ですもの……ああ。そうそう。貴方様の声はきちんと其方の瓶にお受け致しましたので、これにて商談成立ということで宜しいですね?」


 手元を見れば、先ほどまで青い鹿が入っていた瓶に、何か白い、毛むくじゃらの、何本もの手足の生えた、奇妙な生き物が詰まっていた。昆虫、と呼ぶには肉々しく、動物、と呼ぶには余りに奇怪な骨格を持つそれに、男は吐き気を催した。


「……こんなのが、今まで俺の喉に入っていた、と?」

「まぁそんなところで御座います。」


 淡々と瓶を受け取りながら商い人は続ける。


「この瓶には少々特殊な術が施されておりまして、声のイメージを生き物として表す事が出来るのですよ。……ああ、これを使えば砂を使わずとも声の波紋やら様子やらが見えましたねぇ。」


 うっかり、うっかり。などと気楽なことをいう商い人を前に、男はただただ呆然としていた。ただのいたずらと思っていた。それが、こんなに簡単に男のコンプレックスを解消してしまうことになるとはつゆほども思わず、頭が追い付いていないのだ。


「ではわたくしはこれにて。ああ、そうそう。返品は受け付けませんよ。有償の交換なら受け付けますがね。わたくし商い人ですので、そうそう身勝手な交渉を受けるわけにはいかないのですよ。お客様の声を手に入れることができたというのに、返せと言われてもそりゃ困るといったものですので。」

「あ、ああ。わかりました。そんなことはないとは思いますがね。」

「……まぁ一応、連絡先を渡しておきましょう。万が一のアフターケアというものです。」


 商い人が手渡してきた名刺には、どこかのサイトのURLが書かれていた。


「最近はデジタル化が進んでおりますからねぇ。」


 と商い人はぽつりとつぶやいて。では、と屋上から降りる階段へと消えていった。

 後には、男がひとり、残された。


 それからというもの、男は今までが嘘のように“ついている”生活を送っていた。仕事でトラブルを起こすことは格段に減ったし、人とのコミュニケーションも円滑になった。ふと思いついて、動画サイトで雑談配信など行ってみたら、じわじわと人気もついてきた。

 今まで人と触れ合うとろくなことがなかった男にとって、これはまさに夢の様な出来事であった。職場で話をしていれば、相手が以前とは全く違う評価を自分に持っていることが分かるほど楽しい時を送ることができるようになったし、自分のハンドルネームを検索すれば、ファンの声が聞こえるようになった。男は、いつかの取引を、まさに最高の幸運であったと感じていた。


 しかし。


 ある日の事であった。

 男が歩道橋を降りていると、突然、後ろから突き飛ばされた。振り向けば、だれかはわからないが、若い男性の様なシルエットが見えた。しかし、碌に何もできず、男はただ階段を転がり落ちていくばかり、最後、視界が暗転する前に見えたのは、灰色のコンクリートであった。


 次に気が付いたとき、男を突き飛ばした犯人はもう捕まっていた。彼は男の職場の同僚の恋人であり、彼女が男の事ばかり話して、終いには恋人のことを「面白みがない」と言ってふったのだという。そのことで男を逆恨みされても困るのだが、捕まったのであれば正直あとは法に任せるしかないだろう。以前の自分であったら、今すぐにでもその犯人とやらをぶん殴りに行くところであっただろうな、と男は考え、こんなに冷静に現実を理解できているのは、きっと声が変わったことで自分に余裕ができたのだろうとぼんやりと結論付けた。検査を済ませ、幸いにも骨折などは見つからなかったが、何かあったらすぐ病院に来てほしいということで解放され、さてどうしたものかと考えていたら、携帯がなった。

 画面を見ると、母から着信が来ている。警察から連絡でも行ったのだろうか。確かに階段から落ちたのなら、最悪頭を打って死んでいるかもしれない。そういう意味では親族に連絡を取るのは何ら不思議なことではないだろう。男は、電話に出ることにした。


「もしもし?おかあさんだよ?ああ、お、おまえがかいだんからつきおとされたときいて、おかあさんいてもたってもいられなかったんだけど、でんわにでられたってことは、きっと、おまえはぶじだったんだね?けがはないんだね?」


 通話ボタンを押した途端、矢継ぎ早に母が話しかけてきた。……こんなに耳障りな話し方をする人だっただろうか。まぁ、きっと慌てているせいで変な話し方になっているのだろう。男はまず、母を安心させようと返事をすることにした。


「ああ、母さんか。大丈夫。俺は元気だよ。」

「……え、ええ?おまえ、いえ、あなた、うちのこのけいたいに、いえちがう、あなた、ええっと、うちのこは、う、うちのこはどどど、どうなったのですか?!ま、まさかいまも、でんわにでられないほど、ぐあいが、」

「何言ってるの母さん。俺だよ。さっき目が覚めて、検査して、骨折とかも何もなかったから、こうして電話に出られているんじゃないか。」

「いえそんな、おきをつかっていただかなくても、け、け、けっこうです!む、むすこは、むすこは、まさか、し、し、しんでしまったりなんか」


 ……しかし、母の様子がどうもおかしい。男の事を自分の息子本人であると認識していない様だ。ああ、声、随分と変わったしな。と男は安心させようと話つづけた。


「いや、だから、俺ですよー。かあさんのだし巻き卵が大好きだった、貴方の息子ですってば。」

「そ、そ、そんなこといって!あ、あ、あなたは、わたしを、だ、だまそうとしているのでしょう!」


 ああ、これ、まずいな。男は思った。母は、興奮するとどもりがひどくなるのだ。普段はそんなことはなかったのだが、昔、結構な訓練をしたらしくて、感情が高ぶってくると、その訓練した喋り方もどこかに行ってしまうのだ。……まるで、男にそっくりの喋り方になる。


「う、ううう、うちのむすこは、た、たしかに、くちはわたしに、にてしまって、わるいですけどね、いっしょうけんめい、ことばを、かんがえて、しゃべる、こでしたもの!!」

「あ、あ、あなたみたいな、うすっぺらいしゃべりかたなんて、し、しませんもの!!ええ、ええ、しませんもの!!」


 昔の自分にそっくりな喋り方で、母が男を糾弾する。

 大したことないはずなのに、男は、ひどく動揺した。言葉を選んで、考えてしゃべる子だった。確かに、昔はそうしていた。そうしないと、人に不愉快を与えてしまうかもしれなかったから。でも今は、新しい声を手に入れたことで、そんなことを気にしなくても、人の心を傷つけるような喋り方をすることなどなくなっていた。それはとてもいいことだったはずだ。


 じゃあ、なぜ、ははのきゅうだんが、ここまで、こころに、いたいのだ?


 男は、とにかく、貴方の息子さんは無事ですと母を落ち着かせてから、携帯を切った。だが、心のざわめきは、一層強くなっていた。

 たかがこんなことで、ここまで動揺するのはおかしい。男はそう思っていた。それは、久々に人と争うことになったせいかもしれないし、頭の打ちどころが悪かったせいかもしれないし、どこかで喉をぶつけたせいかも……そうだ。喉。声。


 男は、依然もらった名刺のURLを思い出していた。


「それで?」


 自宅のPCでURLにアクセスすると、そこはボイスチャットルームであった。随分と手間のかかることをするものだと思ったが、商い人の商売の特性上、連絡をとるといえばきっとこんなことになるのだろうか。と思った。


「いやだから、こういうことがあったので、もしかして声に不調が現れたのかもしれないんですよ。なので、アフターケアに当たる事項なのか、それとも、自分で対策をとるべきなのか」

「ありませんよ」


 まぁ気にすることはないと、男が話を始めると、

 ばっさりと商い人がこちらの話を切って捨てた。


「……もう一度言いましょうか?ありませんよ。対策も、アフターケアも。わたくしが聞く限り、お客様のお声には何にも不都合が起こっておりませんもの。」

「でも、でも実際、母が妙なことを言っていたんですよ!詐欺師だとかなんとか、って!そんなの、何かがおかしいと思いませんか?!」

「お客様、私の商品にどんな不満があるというのですか。」

「いえ、不満とかではなくてですね……」

「……はぁ。わかっていただいて取引成立頂けたと思ったのですがねぇ。なかなかうまい事行きませんか。まだまだわたくしも未熟な処が多いということでしょうか。」


 商い人は、マイクの向こうでため息をついたらしい。


「いいですか。お客様。貴方様が手に入れた声はですね、“人に自分をよき人間であると思わせる声”なんですよ。その声の印象を聞いた人間がどう受け取るか、それはもう、わたくしの手におえる仕事では御座いません。鳥の声を美しいととるか、只の騒音ととるか、それはもうわたくしの介入できる事柄では御座いませんからね。」

「……こ、この声が変われば、俺はなんの不自由もない人生が送れるんじゃなかったのか!」

「不自由のない人生?……何を言っておられるんですかお客様。わたくし最初に言ったじゃないですか。」


 商い人が、はじめて、驚いたような声を上げた。まるで男の言った言葉が心底意外であったように。


 わたくし、葬儀屋では御座いませんよ。と。


「お客様はお自分のお声が大層お嫌いそうでした。なので、わたくしが商談を持ち掛けた次第でございます。別に、お客様の人生を救おう!だなんて大それたこと狙っちゃおりませんよ。」


 くつくつ、と何故か商い人が笑う。余りにも馬鹿げたことを言ってしまい、自分でおかしくなってしまった、とでも言いたげに。


「でも」

「でももなにもありません。わたくしは声売り屋。お客様、少々勘違いをされているのではないでしょうか?ご理解いただけることを願いますが。……それこそ、そんなに不自由な人生がいやなら、やり直せばよかったじゃないですか。」

「お前ッ」

「声が嫌だ、その一点でしたらわたくしお役に立てますが、それ以上の事はお役に立てません。そして恐らく、どんな商売人もお客様のお役には立てません。あきらめてください。……わたくし、これから商談に行かねばならないのですよ。ちょうど、お客様から交換していただいた声の取引先が見つかったので。」

「ど、どこに売るつもりですか?!それは俺の」

「もうわたくしのです。取引は成立しております。どこに売ろうが私の勝手。……と言いたいところですが。」


 そこで一呼吸。


「言ってしまっても構いませんか。貴方様のお声は、貴方様のご母堂にお売りするのですよ。」

「……はぁっ?!」


 理解が一瞬遅れ、男は心底混乱した。何を言っているんだこの人間は。


「だって、貴方様、随分とご母堂に嫌われてしまったのでしょう。そしたら、ご母堂は悲しがっているでしょうねぇ。あの声でしゃべるお客様はもしかしたらもう死んでしまっているのではないか、とね。」


 絹織物のように、するすると、商い人が、喋る。


「ですから、取引を持ち掛けようと思うのです。お客様のお声でしゃべる何か適当な…… そうですね、お人形にでもしましょうか。それを売りますよ。とでも。まぁ声との取引ではないのでお金はいただきますが……ご母堂はきっと、お買い上げになるでしょうね。」


 かたん、とマイクの向こうで音がする。


「もう、よろしいですか?このままご母堂を放っておくと、お客様と同じように、身を投げてしまわれるやもしれません。そうなる前に、取引を持ち掛けなくては。」

 では、また。


 そういって、チャットルームには、男が取り残された。

 男は呆然と、自分の喉を両手で包んでいた。




 数日後、一人の男性の遺体が発見された。身元はわからず、ビルの屋上から飛び降りたとみられている。屋上には遺書が残されており、そこには、ただ、「こんな声はいらない」とだけ、書かれていた。

 ネット上では男が動画配信者であったことから、ファンが悲しみのツイートをして、現実では、職場の人間たちが、彼の悩みに気付けなかったことを悔いて、悲しんだ。


 そして、全員が、彼の事を、最後には、忘れてしまった。


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或る人々の商談 米野よねこ @redfoolish

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