第118話 躊躇い

「ではリリアナ様。また夕食時にお声をかけに来ますので、それまではごゆっくりお休み下さいませ」

 パティはリリアナに声をかけて、ゆっくりと部屋のドアを閉めた。

 これから先、短いとは言えこの修道院が彼女の暮らす家になる。初めて来たこの場所でまずは落ち着いて過ごせるよう、一日目は予定を何も組み込まず、ゆっくり過ごしてもらう手筈になっていた。

 部屋を出て長い廊下を歩きながら、パティは先ほどのことを思い出す。

 リリアナの首に下げられていたペンダント。あれは間違いなくかつてレルムが購入したものだ。購入を躊躇っていた兄に勧めたのは紛れもない自分であり、手にとって見た事がある分見間違うはずがなかった。

 その時は他の女性に贈る為だと素直に思っていたが、まさか王女である彼女に贈る為のものだったとは……。

 無意識にも歩く足が止まり、眉根を僅かに寄せて固い表情でお腹の前で組んだ両手に力が入る。

「……お兄様……」

 幼い頃から騎士の名に恥じないよう厳しい教育を受けて育ったレルム。騎士とはどうあるべきか。君主に対してどうあるべきか。それらをきちんと熟知している人間だと思っていたのだが……。

 この時、パティはどうしたらよいか迷っていた。事前に貰っていた父からの手紙。その手紙にはどんな些細な事でも何か気付いた事があれば、すぐにでも連絡をするよう指示が書かれていた。本来ならばこの事は報告しなければならないのだろうが、果たしてありのままの報告したとしたら兄はどうなるのだろうか?

 仕事に真面目で、忠実に生きてきたレルム。父が病に倒れた時、すぐにでも城に上がり父の跡を継がなければならなくなったあの後から数日間、一人で悩んで苦しみ眠れない夜を過ごしていた事を思い出す。それでも自分の肩にかかった責任と昔から定められていた掟という途方もない重圧を真摯に受け入れ、かつてのフィアンセを振り切ってまで仕事に生きた。その結果、フィアンセをも手に掛ける事になった……。それはしょうがない事だったのは分かる。そのようにならざるを得なかった原因は、フィアンセにもあったという事も分かるのだが、そうする事でレルム自身がどれだけ傷ついた事だろう。

 生まれながらに自分の為に生きることを諦めなければならない傷ついた兄が、再び前を向き歩き出せるようになったのはリリアナの存在があったからだ。

 もしかすると、ようやく自分の人生を歩むための意味を見つけた唯一の人なのかもしれない。

 そう考えると、ありのままを報告する事にどうしても躊躇いを覚えてしまう。

 パティはポケットに閉まっていた、あのペンダントと同じ時に買ってくれたカメオのブローチを取り出す。

「お兄様は人一倍責任感が強い人。もし今回の想いが報われずに終わったら、きっと今度こそ誰にも心を開くことなく一人で傷ついたまま、自分の一生を国のためだけに捧げるのかもしれない……」

 そう呟いてみると、ぎゅっと胸が痛む。

 跡取りを望む両親からの重圧も、口にも顔にも出さないがおそらくレルムの負担になっているに違いない。

 人は誰しも、必要以上に心に傷を負いたくはないはず。その為にはかつてそうだったように、心を閉ざして生きる方が余程楽だと思うはずだ。

「……王女様との恋路が叶う事はないかもしれないけれど、今少しでも幸せを感じているのなら、私はお兄様の味方でいて差し上げたい」

 これまで一人で沢山の事を抱え、傷ついてきたレルムの姿を見てきたからこそ、パティはそう強く願わずにいられなかった。本来なら過ちを改めさせるのが筋というものだろう。そう言う立場に自分が立っていることも分かっている。だが、兄の幸せを願い、家族として応援したい気持ちの方が勝っていた。

 その時、ふと視界の端に人影が映り、パティはそちらに目を向けた。

 廊下から見える白い砂浜と水平線。吹き付ける潮風に煽られながら、こちらに背を向けて砂浜の上にゆっくりと腰を下ろしたのはクルーだった。

「……あの方は、リリアナ様と一緒にいらっしゃった方だわ」

 一人で砂浜に座り込みぼんやりと海を見つめているその後姿は、酷く落ち込んでいるかのように見える。そしてとても悩んでいるようにも……。

 パティは廊下から砂浜へ出ると、そんな彼に声をかけた。

「どうなさったんですか?」

「えっ?」

 海風にゆるゆると煽られながら訊ねると、座り込んでいたクルーは驚いたように顔を上げてこちらを見上げてきた。

「何だか、とても落ち込んでいらっしゃるようでしたから……」

 パティがやわらかく微笑みながらそう聞き返すと、クルーもまた苦笑いを浮かべながらゆっくりと視線を海に戻す。

「いえ……別に、何も……」

 頭の上で一つに束ねた長い銀髪の髪を揺らめかせ、「何もない」と言いながらもやはり何事か思い悩んでいるような顔を浮かべている彼の姿に、パティはふっと微笑んだ。

「……そうですか。もし何かあるのでしたら、いつでもお話を伺いますわ」

 パティはそれ以上の追求をする事もなくすんなりと引き下がった。

 話したくないことは、誰しも一つや二つあるもの。話したがらない事を無理やり聞き出そうとする無粋な真似はするつもりはなかった。

「……ここの海は、とても綺麗ですね」

 他愛ない話題を持ちかけてくるクルーに、パティは静かに頷き返す。

「えぇ。ここはいつも穏やかで落ち着いた場所です。こうして海を見ていると、心が洗われていくような気持ちになります。そしてこの海のように寛大な心で何事も物事を受け止めよう。そう言う気持ちにもさせてくれますわ。神に仕える者には最適な場所なのかもしれませんね」

「……」

「あまり長くいると、体が冷えて体調を崩してしまいますわ。潮風に当たり過ぎないよう、お気をつけ下さいね」

 パティはそういうと部屋へ戻る為に踵を返した。するとクルーは咄嗟に歩き出した彼女に声をかける。

「あの……やはり少し、話を聞いてもらえますか?」

 パティが振り返るのと同時にクルーも彼女を振り返ると、真面目な視線がかち合う。

 抱えている思いが重過ぎて、自分ではどうしていいのか分からなくなったクルーの表情を見たパティは、頷き返して彼の傍に戻ってくるとすぐ隣に立って海を見つめる。それに習い、クルーもまたじっと海に視線を見つめた。

 しばしの沈黙の間も、打ち寄せる漣の音が終わることなく聞こえてくる。

 話を聞いて欲しいと言って来たクルーに対し、パティは静かにその場に立ったまま切り出してくるのを待った。

「……実は、レルム様の事についてなんです」

 ややあって、クルーはおもむろに口を開いた。

 兄の話だと聞いて、パティは彼が何を言いたいのかおおよそ話の内容が読めたものの、何も言わずに頷いた。

「お兄様の事、ですか?」

「はい。正確には、レルム様と、リリアナ様の関係についてで……」

 ぎゅっと拳を握り締める彼の様子に、パティは緊張感を持ってポツポツと語り始める彼の言葉に耳を傾けた。

 二人の不適切な関係に気付いてから、クルーはこれまで信頼して尊敬してきたレルムに対する思いが変わってしまった事に戸惑いを感じているようだった。

「俺は長い間レルム様に憧れて、信頼し尊敬してきました。それが、思いも寄らない裏切りにあったとショックと言いようのない憤りを感じているのは確かなんです。それでもまだ、あの人に頼られれば応えたいと言う思いも……正直、ないとは言えないんです。俺は一体どうしたらいいのか分からなくて……、つい王女様にも従者としてあるまじき態度を取ってしまったりして……」

 彼の中でレルムを許せないと言う思いと、許したいと言う思いとが複雑に絡み合い、葛藤しているというのが良く分かった。

 それだけ長い時間、クルーはレルムの下で懸命に働き、憧れてきたのだ。そう簡単に結論が出せるわけもない。

「なぜ、兄に背を向けきれないのですか?」

 パティがそう訊ねると、クルーはぎゅっと顔を顰めてくしゃりと前髪を掻いた。

「背を向けきれないのは、たぶん……ここに来る前にレルム様が最後に見せた表情が今まで見てきたあの人の顔とは違う、とても満たされたような表情だったからだと思います。俺は、あの人のあんな顔を見た事が今まで一度もありません」

 その言葉に、パティはふっとこれまでレルムに対して自分が感じていた物を、彼も薄っすらと感じ取ったのではないかと気がついた。

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