第117話 パティ・ラゾーナとの出会い
デルフォスを出て、東海岸にあるレビウス修道院へは馬車で約一日ほどの場所にある。
昼過ぎに城を出たリリアナがレビウスに到着したのは、翌日の昼前だった。
修道院へ続く街道を走りながら、リリアナは馬車の窓に映る水平線を見つめ僅かに心が躍る。
「海だ……」
僅かに窓を開けると、サァッと潮の香りが流れ込み、遠くに飛ぶ海鳥の鳴き声がリリアナの耳にも届いた。それらは真っ白い砂浜に打ち寄せる漣の音と溶け合って、それまで抱えていた悩みが洗い流されるような気にさえなる。
そんな海岸線を一直線に走っていると、遠くに小さな青い屋根の教会が見えてくる。そしてカーン、カーンと修道院の屋根に取り付けられた鐘が鳴り響き、その音は周りに遮る物が一切ない為にどこまでも響いていく。それが、とても幻想的で現実を忘れてしまいそうになった。
馬車は修道院の前でゆっくりと止まると同時に、修道院の入り口の扉が開いて中からたくさんの子供達が出てくる。すると、それまでの静けさが嘘のように一気に賑やかになった。
「こら! あなた達! お行儀よくなさい! 今日はデルフォス王国から王女様がいらっしゃるのよ!」
自由奔放に走り出る子供達を叱りながら追うように出てきたのは、深い緑色の優しげな目をしたリリアナよりもいくつか年上のシスターだった。
他のシスターと手分けしながら慌てて中庭を走り回る子供達を捕まえ、中に戻るよう促すその横顔を見つめてリリアナはあっと声を上げる。
「……あの人、何だかレルムさんに似てる」
その女性を見た瞬間に思わずそう口走ると、荷物を荷台から降ろし馬車の扉を開けたクルーは、視線を合わせることもなく手を差し伸べてしれっと呟く。
「そうですよ。あの方はレルム様の妹君ですから、似ていて当然です」
「え? 妹?」
レルムに妹がいると知らなかったリリアナは驚いてクルーを見たが、彼はちらりとこちらを見るなりスッと視線をそらしてしまう。
まだクルーは怒っている。一体何に対してそんなに機嫌が悪いのかを語ろうとしない彼に、その原因を問いただすのは間違っているのかもしれない。
彼の手を取って馬車を降りる時、リリアナはそれとなく声をかけてみた。
「クルーはすぐに帰るの?」
「いえ。今日は一日ここに停泊させて頂きます。出発は明朝です」
「そう、なんだ……。そうだよね。疲れるもんね」
当たり障りのない言葉を選んで力なく笑って見せても、やはりクルーは自分と目を合わせてくれようとはしなかった。
昔馴染みのお兄ちゃん的存在だったクルーと、理由の分からないまま出来てしまった溝にリリアナは心が沈んだ。
どうして何も話してくれないのだろう。ほとんど目も合わせてくれず、態度も恐ろしいほどにそっけなく他人行儀だ。それが堪らなく寂しくもあり怖くもある。
荷物を持ったまま少し後ろをついてくるクルーの事を気にしながら、視線を僅かに下げて出迎えてくれたシスターや子供達の前にやってくると、シスターの中でも一番年上である女性がニコリと微笑みかけてきた。
「お待ちしておりましたリリアナ様。ようこそレビウス修道院へ。私はメリッサと申します。この修道院の主であり修道士でございます。花嫁修業期間中何かお困りの事がございましたら何なりと申しつけ下さい」
とても優しい笑みを浮かべおしとやかに挨拶をするメリッサに、リリアナも吊られて会釈をする。すると彼女はすぐ近くにいたパティを呼び寄せた。
「この子はパティと申します。花嫁修業期間中はリリアナ様の身の回りのお世話をさせて頂く事になります」
「パティ・ラゾーナと申します。どうぞよろしくお願い致します」
紹介されたパティはレルムに良く似た柔らかな笑みを浮かべて微笑み、優雅な会釈をする。
笑顔だけじゃなく、立ち振る舞いもどことなく似ているような気がしなくもない。
少し気後れしながらリリアナも挨拶を済ませると、彼女以外のシスター達はいそいそとクルーの傍へ近づいていく。
「お連れの方もお疲れでしょう? お部屋へご案内いたします」
そう言いながら、シスター達は彼の持っていた荷物を持つ。そして取り囲むようにしながら部屋へ連れて行こうとすると、さすがにそれまでムッとしていたクルーもうろたえた。
「い、いや、荷物は自分で持ちますから……」
「ご無理なさらずとも大丈夫ですよ」
いつになく華やいでいるシスター達に落ち着かない様子で、クルーは修道院の中へ入っていく。そんな彼らを見たメリッサは呆れたようなため息を大袈裟に吐く。
「まったく……普段男性と接する事がないからって、しょうがない子達ねぇ」
呆れたように呟くメリッサの言葉に、パティとリリアナは思わずふっと笑ってしまった。
「ではリリアナ様。お部屋へご案内させていただきますね」
パティに連れられ、リリアナは修道院の中に初めて足を踏み入れた。
中は質素なつくりをしているものの、入り口の正面にはステンドグラスに神と崇められる白銀の玉を加えた竜神の石造と祭壇が置かれている。そして長椅子が通路を挟んだ両脇に置かれ、今は祈りに来ている人はどこにもいない。
リリアナはその聖堂を横切り、二階へ続く階段を登ると広いバルコニーのある大きな部屋へと通された。
中に置かれている家財は全てシンプルで、まるでルク村に戻ってきたかのような錯覚を覚えるほどだ。
木で造られた少し固そうなベッドに鏡台、服をかける衣装棚が一つと勉強するために備えられているのだろう机と椅子。床には落ち着いたブルーのカーペットが敷かれているだけだ。
「こんな粗末なお部屋しかご案内できず、申し訳ございません」
そう言いながらリリアナの荷物を部屋に運び入れたパティを振り返り、首を横に振った。
「大丈夫です。あたし、少し前まで普通の村娘として生活してましたから。むしろ何だかこの感じが凄く懐かしくて、嬉しいです」
パティはその言葉を聞き、小さくクスッと笑った。リリアナが不思議そうに首を傾げると、彼女はにっこりと微笑みながら口を開く。
「……本当、兄のお話通りの方ですのね」
「え?」
「もうご存知かと思われますが、私はレルム・ラゾーナの妹です。兄から時々リリアナ様のお話を聞いておりました。とても明るく朗らかで、そして誰よりも前向きで可愛らしいお方だと」
レルムが自分の事をまさかそんな風に家族に伝えていたと知り、途端に顔が赤くなってしまう。そんな心のゆとりが今はあるわけではないのに、「可愛らしい」と言ってもらえていた事が嬉しくて堪らなかった。
「そ、そんな褒められるような人間じゃないですけど……」
「その親しみやすさは、今後のリリアナ様にとって強みになると思いますわ。市民に慕われる国王のいる国は大変に豊かで、争い事も少ないですもの」
赤らんだ顔を隠しながら一人で照れているリリアナの傍で、パティは手馴れた様子でカバンの中の衣服を取り出し衣装棚に掛けていく。
市民に慕われる国王。そう言われると浮き足立った気持ちが僅かに萎えた。そうだ。自分はその国王になるべく、ここに花嫁修業に来ているのだ。目の前の事に現を抜かしている余裕などどこにもないはずだ。
全ての衣服が掛けられると、元々修道院で用意されていたドレスのような服を手にパティが戻ってくる。
「リリアナ様。ここにいらっしゃる間はこちらの服をお召しください。これは他のシスターと造りは違いますが、立派な修道服です」
そう言って修道服を手渡され、リリアナは小さく頷き返した。
「じゃ、じゃあ、早速……」
「お手伝い致しますね」
城から着てきた衣服に手をかけ、するりとブラウスが肩から滑り落ちる。するとリリアナの首にかけられていたネックレスにパティの手が止まった。
「あら……」
「え?」
「それは……?」
驚いたように目を瞬き、「それ」と言った彼女の視線を追いかけて自分の胸元に目を向けると、ペンダントに目が留まる。
リリアナはそのペンダントに手を添えて不思議そうに首をかしげた。
「えっと……。これが何か……?」
「……そう言うことでしたのね」
「?」
それまでにこやかだったパティの顔が一変し、僅かに影が落ちる。
何があったのか分からないリリアナは、困惑しながらパティを見つめた。するとパティはブラウスを手にしたまま聞きにくそうに口を開く。
「リリアナ様、不躾な質問ですが……そのペンダントは?」
「え……っ」
瞬間的に、素直に答えて良いのかどうか分からず言葉に悩んだ。
ここで素直に白状したら、その事もきっとデルフォスに知られてしまう可能性は高い。ならば迂闊に話してはいけないような気がした。
リリアナは僅かに慌てながら微笑み、ペンダントトップに触れる。
「こ、これは、村にいた時に来てた旅の宝飾店から買ったペンダントなんです。き、綺麗ですよねぇ。凄くお気に入りでずっと身に着けてるんですよ」
苦し紛れの弁解かもしれない。そんな気がしてならないものの、他に思いつかず思わずそう口走って笑った。
パティはそんなリリアナを見て目を瞬き、どこか安心したように柔らかな笑みを浮かべる。
「……そうでしたか」
「これが、どうかしたんですか?」
「えぇ。実は、以前兄が実家に帰省した時に、想いを寄せている相手にそれと良く似たペンダントを購入されていたものですから……」
ニッコリと微笑んでそう答えると、パティはそれ以上その事については何も言わず、着替えを手伝い始める。
リリアナはドクドクと胸打つ鼓動に激しい動揺を覚え、これから始まる花嫁修業中に、自分のうっかりした行動や発言が元でとんでもない事が起きるのではないかと不安に駆られた。
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