第109話 亀裂
静まり返った兵士塔。夜も更け、起きているのは見回り組みの兵士とレルムぐらいなものだろう。
レルムの父親が大臣に就任以来警備が以前にも増して厳しくなっていると聞いている。だからこそ、こんな時間の一人歩きはあり得ない。
出来る限り見つからないように、履いていた靴を脱いで素足のままひたひたと足音を忍ばせ、注意深く周りを気にしながらレルムの部屋の前にやってきた。
周りに注意を払いながら手にしていた靴を履き直し、リリアナはそっと扉に耳を押し当ててみた。中からはパラパラと用紙を捲る音だけが微かに聞こえてくる。やはり、彼はまだ起きているようだった。
リリアナは脈打つ鼓動の速さを感じながら、ぎゅっと握り締めた手をあげて一瞬躊躇する。
彼の気持ちを再確認したい。その思いだけでここに来てしまったが、部屋の扉を前に不安になった。
ここまで来て引き返したら、この後もずっと悶々とした気持ちを抱えたままでいなければいけなくなるかもしれない。そう思うと、やはり今確認したかった。
リリアナは意を決してトントン、とドアをノックする。
「はい」
部屋から短い返事がかかり、カタンと何かを置く音が聞こえ足音が近づいてくる。そして何のためらいも無く扉が開かれた。
「……リリアナ様?」
夜更けのリリアナからの訪問。それに驚かないわけが無い。
レルムは目を見開き、そして僅かにうろたえながら辺りを見回して、リリアナを部屋へ招き入れた。
「どうしたんですか? こんな夜更けに……」
思いがけない来訪に、戸惑いと僅かに怪訝な表情を浮かべて訊ねて来るレルムに、リリアナは若干うろたえながら言葉を探す。
まさかイキナリ、「自分が好きかどうか、本心で聞かせて欲しい」と押し迫るような勇気はない。何か適当な話をしながらタイミングをみて聞こうと考えをめぐらせた。
「えっと……その、何かちょっと眠れなくて」
いつになく下手な笑みを浮かべている自覚はあったが、取り繕わなければと必死になって笑ってみせる。
レルムはそんなリリアナを見つめ、小さく息を吐いた。
「とりあえず、こちらにお掛け下さい」
そう言ってすぐ傍にあるソファに腰をかけるよう促し、レルムは職務机の傍に置かれていたワゴンから新たなカップに紅茶を注ぎ、それを手渡してきた。
「あの、マーヴェラは寝てますか?」
手渡された紅茶の暖かな湯気を感じながら顔を上げてそう訊ねると、レルムはふっと微笑んで頷き返してくる。
「えぇ、よく寝ています」
「そ、そうですか。何となく、夜の方が逆に起きてる事が多いんじゃないかなって思ったんですけど、そうじゃないんですね」
「……」
うまく取り繕えていない。
リリアナは自分でも分かるような不自然な会話の流れに、違和感を感じて仕方が無かった。自分がそう感じているのだから、当然レルムにもその雰囲気は伝わっている事だろう。
ぎくしゃくしながら受け取った紅茶に口を付けると、レルムはリリアナのすぐ隣に腰を下ろしてきた。その瞬間、無意識にも体がビクッと反応をしてしまう。
「……何か、あったんですか?」
「……」
当然、そう訊かれてもおかしくない状況だ。リリアナはカップを握り締め、しばし口を閉ざした。
単刀直入に訊くべきだろうか? それとも、遠まわしにそれとなく訊いたほうがいいだろうか?
一人で自問自答を繰り返しながら手にしていたカップをテーブルに置き、ひざの上でぎゅっとこぶしを握り締める。そして意を決したように顔を上げると、レルムの真剣な眼差しと視線がぶつかった。
「あの……あたし……」
自然と声が震えてしまう。
大丈夫。ただ確かめるだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、勇気を振り絞って口を開く。
「何だか自分に自信が持てなくて……」
「……自信、ですか?」
「今までずっとレルムさんの事疑う事も無く信じてきたのに、急に自信がなくなってしまって……」
「……」
リリアナの言わんとする意図が上手く読み取れないのか、レルムは困惑と怪訝な表情を浮かべ眉根を寄せた。
彼のその表情が更にリリアナの不安を煽り、上手く言葉に出来なくなる。そして思わず彼から視線をそらして自分の手元を見つめる。
「……それはどう言うこと、ですか?」
いつになくトーンの低い声で訊ね返され、リリアナは怖くなってしまった。
レルムが怖いのではなく、相手を怒らせるような事を言っている自分に対しての恐怖……。一体何を訊きたくてここまで来たのだろうか。
「それは……つまり……」
「……つまり?」
「もしかしたら、レルムさんはまだ、リズリーに未練を感じているんじゃないかって……」
自分の口から出たその言葉が、非常にヒヤリとした冷たいものを含んでいるかのように思えて仕方が無い。
完全に彼を疑ってかかっている事が今露呈された。言ってしまってから、言わなければ良かったと早くも後悔すら覚える。
顔を上げられずビクビクしているリリアナは次の瞬間、腕を掴まれ目の前の視界が反転した。あまりに突然の事に何が起きたのか分からずぎゅっと目を閉じると、顔の脇にレルムの手が着いた。
恐る恐る目を開けてみると自分の真上に覆いかぶさるレルムの姿があった。掴まれていた腕は顔の横に縫い止められ、身動きが取れないよう囲われている。
この状況は何であるのか頭が真っ白になって分からなかったが、すぐに理解する。
自分は、彼にソファの上に押し倒されているのだと……。
「レ、レルムさ……」
こんな風に追い込まれた事など一度もなかっただけに、無意識にも顔に熱がこみ上げてくる。胸は酷く脈打ち何ともいえない羞恥心が湧き上がった。だが、こちらを真上から見下ろすレルムの表情を見るとすぐにそれらの感情は消え失せる。
こちらを見下ろしている彼は今まで見た事が無いほど真顔で、そして怒っているように見えた。
「……心外です」
低いトーンで呟くように言ったその言葉に、リリアナは不安にドクリと胸が鳴った。
静か過ぎる室内に、ソファの上に押し倒されたリリアナとレルムの間に初めて出来た冷たい歪を感じさせる。
「以前、申し上げましたね? 私は過去を清算したと。彼女の事で何かあるとすれば、ただそれは、私が弱く臆病だったが故に何もしてやれなかったと言う後悔だけです。確かに、昔はそこに彼女への想いと未練はありましたが、今はもう何もありません」
レルムはそうキッパリと言い切ったが、リリアナはまだ不安が拭えなかった。
「……き、訊きました。でも、マーヴェラの事を引き取ろうと思ったのは、やっぱりまだ未練があるんじゃないかと……」
思わずそう言うとレルムは怒ったような眼差しから一転、スッと目を細め寂しそうに呟いた。
「……あなたは、私を信じてくれてはいなかったのですね」
信じてくれてはいなかった。その言葉一つで、ヒヤリとした物が胸に落ちる。
すっとリリアナから手を離してソファから降りるレルムを追って、リリアナは慌てて上体を起こした。
「ち、ちが……っ、そう言うわけじゃ……っ」
「いえ……。もう構いません。今日はもう遅いですから、部屋へお戻り下さい。お送りします」
「レルムさんっ」
こちらに背を向けたまま突き放すように部屋へ帰るよう促してくる彼の姿に、リリアナは胸が張り裂けそうなほど苦しくなった。
何を間違えたのだろう。ただ、自分は彼の本心を聞きたかっただけのはずなのに……。それが間違いだった?
今この瞬間から、途端に彼との距離が広がってしまった事を実感した。
レルムはそれ以上何も言うことなく上着を羽織ると、ランプを手に取り入り口へと向かって扉を開く。
「どうぞ」
いつもと変わらないエスコートなのに、そこにはまるで大きな壁が出来てしまっていた。
呆然としてしまうリリアナだったがもうどうする事も出来ず、震える手をぎゅっと握り締めてゆっくりと部屋を出た。そして前を歩く彼の後ろをトボトボとついて歩いた。
馬鹿な事をしてしまった。あんな事言わなければ、彼を怒らせる事もなくこんなにも関係が冷えてしまう事もなかったのに……。
リリアナは襲い来る後悔と寂しさに涙がこみ上げてくる。堪えようも無い涙をポロポロと零し、何度も涙を拭いながら何も言ってくれないレルムの後姿を見つめた。
近いのにとても遠くなってしまったその背中……。手を伸ばすことさえ出来なくなってしまった。
もう声をかけてくれる事はなくなってしまうのだろうか? ただの王女と騎士と言う本来ならあるべき姿へと戻ってしまうのだろうか?
言いようの無い不安と寂しさと、自分の愚かさに涙が止まらなかった。
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