第78話 開放までの受難

「なぜ? もう戻られるの?」

 何度聞いたか分からないその台詞に、レルムはいつもと変わらない笑みを浮かべて頷き返しながら、内心深いため息を吐いていた。

 レオルド公爵令嬢であるピリムから、毎年春の終わりに差し掛かる頃になると直々に豪邸へ来るよう要請が入るのがお決まりとなっている。しかし、もっともらしい事を言って呼びつける割に、その内容は嘘だと言う事が少なくない。

 レルムは要請が入る度に盛大な溜息を吐くものの、断る事は出来ない為に職務の一環と完全に割り切った上でこうして彼女の護衛官としてやってくるのだ。

 今回も病床に伏せっているガーランドの容態を診に行きたい。そう言って呼びつけておきながら一向に離宮へ向かうことなく、そのまま豪邸で半月もの間過ごしている。

 毎日のように彼女の部屋に呼び出されたレルムは、かれこれ一週間ほど同じ押し問答を繰り返してばかりいた。

「ピリム様。大変申し訳ございませんが、いつまでも城を空けておくわけには参りませんので……」

 この台詞も、何度伝えたか分からない。その度に、ピリムは涙を流しながらすがり付いて離れなくなってしまう。

「このピリムとお別れをしても、レルムは寂しくはありませんの?」

 その問いかけにイエスとは言えない。うっかりにもそんな事を言ってしまっては、レオルド公爵の鋭い目に睨まれてしまいかねない。レオルド公爵の、娘に対する溺愛は異常とも取れる物でそれは周知されていることで有名でもあった。

 レルムはすがりついたまま嘘泣きのそれと分かる涙を流しているピリムに知られないよう、そっと溜息を吐いて彼女を見下ろす。

 年の頃で言えば、リリアナよりも3つほど年上のピリム。綺麗に整えられた肩までのダークグレーの髪に、決して見劣りはしない容姿だがキツイ印象を与えがちな目元とその傲慢で我侭な性格から、誰もが逃げ帰っているとの話を聞く。

 年齢だけで言えば、もう結婚も架橋を迎えていてもおかしくはないはずなのだが……。父親の溺愛も相まって、このままでは彼女自身も幸せを掴む事は難しいに違いない。

 レルムはそっとピリムの肩に手を当て、努めて声のトーンを変えることなく語りかけた。

「ピリム様。またお呼びいただければこちらへ参ります。しかし今は城に戻る事をお許しいただけないでしょうか?」

「嫌です! ピリムはあなたと一緒にいたいのですわ」

 ボロボロと涙をこぼしながらいかにも萎らしい女性のように顔を上げたピリムだが、その目はこちらを威嚇するように睨みつけてくる。自分の言う事が聞けないなら、どういう事になるか分かっているだろう? と、訴えかけるような威圧的な眼差しだった。

 慣れない人であればその眼差しに臆する事だろう。しかし、レルムには彼女のそれはもはや通用しない。

「申し訳ございませんが、私にもやらなければならない事がございますので……」

「そんなもの、あなたの後継者に任せれば宜しいじゃないの。その為に後継者をお作りになったのでしょ? 聞いておりましてよ?」

「……いえ、私個人の都合で動かす為に立てた後継者ではございません」

 困り果てたようにそう言うと、すっかり涙の引いたピリムはあからさまにジロリと睨み上げた。

 レルムの体に回した腕にぎゅっと力を込め、意地でも離さないと自己主張する。

「まさかと思いますけれど、あなたが一日も早くお城にお戻りになりたいのは、この半年ほど前に戻ってきたと言うガーランドおじの娘が原因ではなくて?」

「……」

 女性ならではの勘の良さか、鋭いところを突いてくる。

 城に戻る理由としてはクルーに任せっきりにしている職務の事や、彼だけでは捌き切れない仕事の事も当然ではあるのだが、その内の半分はリリアナが占めている事は確かだった。

 離宮から戻って一度も会う間もなくここへ来ているのだ。彼女の様子が気にならないわけじゃない。

 レルムはふっと目を閉じて首をゆるゆると横に振った。

「いえ……。王女が理由ではありません」

 レルムはそう言い切った。

 今ここで肯定するわけにもいかない。彼女に迂闊な事を言えばたちまちの内にその話が方々へ散ってしまう。嘘でもここは否定しておかなければならなかった。

 するとピリムはどこかホッとしたような顔を浮かべ、レルムに擦り寄った。

「良かった。もしかしたらその娘の事を特別目に掛けているのじゃないかと、心配しておりましたのよ」

 心配していた……。

 僅かに頬を赤らめながらそう言った彼女の口ぶりは、レルムと自分はもう既に恋仲なのだと言わんばかりだった。

 いっそこのまま思い切り振り切ってしまいたい気持ちは山々だ。ただそれが、自分だけの事であれば何ら問題はない。しかし、父や母の事を思うと簡単には振り切れない歯痒さがある。

 レルムは疲れた様子でふぅ……とため息を吐いた。

 そんなレルムを余所に、ピリムは彼にすがりついたまま恥ずかしそうに頬を染めて突然モジモジしはじめる。

「……レルム。わたくし、ずっと考えていた事があるんですの。あなたと家庭を築けたらどんなに幸せだろうって」

 その言葉に驚いて彼女を見下ろすと、ピリムは自分の髪を弄りながら上目遣いにこちらを見上げてくる。

 恥じらいを持った乙女らしい仕草ではあるのに、その目に宿る強い威圧感は消えていない。同じ行動をしているのに、リリアナとはまるで違う。

「ねぇ……わたくしと婚姻を結んでは下さらない? あなたならわたくしの事よくご存知でいらっしゃるし、お父様だってきっと喜んでくださるわ」

 迫り来るピリムに、レルムもまた覚悟を決めて彼女に臨む事にした。

 毎度の事ではあるのだが、これ以上この場に留まっているわけにはいかない。まして、婚姻を願い出てきたのは今回が初めてだ。

 レルムはピリムの手を取るとそっとその手の甲に唇を寄せる。

「……ピリム様。あなたのお申し出はとても有難く思います。ですが私は城に仕える身。家に戻る事もままならない職務故に、あなた一人を家で待たせるのはとても忍びないのです」

「大丈夫よ、わたくしならあなたの帰りをいつまでも待っていられるわ。あなたのかつての女性のような事は絶対にありえないもの」

 恍惚とした表情を浮かべて見上げる彼女の発言は、やや棘のある言い方だ。思わずピクリと反応したが、レルムはきゅっと目を細めて表情を崩す事もなく静かな声音で語りかける。

「私には、女性をそのように悲しませる事はできません。あなたにはもっと素晴らしい方がいらっしゃるはずですよ」

「あなた以上の素晴らしい人なんていやしません。みんなわたくしの事なんて厄介にしか思っておりませんもの」

「そうでしょうか」

「えぇ、そうよ」

 キッパリと自信満々に言い切るピリムに、レルムは小さく息を吐いた。彼女の強情さは、なかなか骨が折れる……。

「私のような下級貴族には、あなたは勿体無いお人です。レオルド公爵の事を思えば、私などより身分相応の方と結ばれるべきではないかと思います」

 そう告げると、途端にピリムは眉根を寄せて不機嫌そうに顔を顰め、レルムを突き放すようにして離れると腕を組んでそっぽを向いた。

 どこか辛そうに下唇を噛み締めて、どこを見るともなく睨みつけている。

「……あなたも、お母様と同じような事をおっしゃるんですのね」

「?」

「身分相応ってなんですの? 身分だけが対等でそれ以外はどうでもいいとおっしゃるおつもり? そんな建前ばかりの愛のない婚姻なんて、意味などありませんわ。わたくしはただ、好きな方と結ばれたいだけですのに……」

 毒づくピリムの言葉に、レルムにはハッとさせられる部分があった。

 生まれてからずっと貴族社会の中で育ってきた彼女もまた、自分の身分だけにあった人間との婚姻に疑問を抱いている一人だった。

「政略結婚なんて、大人が世間体だけを気にしているだけのもの。満足するのは大人だけで、当人達には辛い以外の何ものでもございませんわ。そんなもの、愛の前に必要でして?」

 言いたいことは分かる。だが、これまでがそうであったようにこれからもそうならざるを得ない。もしもそれを覆すような事があった場合、どんな事になるのかをレルムは知っている。

 いつだったか、身分違いの若い男女が許されない恋路から駆け落ちを決行したものの、すぐに居場所がバレて2人は引き離された。そして末路はとても喜べるような結果にならなかった事も……。その2人の捜索に関わっていたのがレルムだったのだ。

 その当時なら、それが当然だと冷静に受け止める事も出来たが今は出来そうにもなかった。

 不機嫌にしているピリムに、レルムは自分の気持ちを素直に吐露する。

「……そのあなたのお気持ちは、分かります」

「え……?」

 思いがけない言葉に、ピリムはレルムを振り返った。その眼差しから視線だけを逸らしたレルムは苦々しく言葉を続けた。

「私も……相容れぬ方との恋路に悩まされております」

 その言葉に、ピリムは大きく目を見開いた。まさか、そんな答えが返ってくるなどと思ってもいなかっただろう。

 ピリムは戸惑いを露に、何事か言いたげに口をパクパクしていたがやがて溜息混じりに呟いた。

「……そう。だからあなたはわたくしの申し出に応えてはくださらないのね」

「……ピリム様」

「でも、わたくしはあなたの事をそう簡単に諦めたりは致しませんわ。どうしてもお城にお戻りになるのでしたら……キスしてくださいませ」

「……」

 レルムは驚いたように彼女を見た。だが、ピリムもまた真剣そのものの顔でこちらを見つめている。

 瞬間的に悩んだがこれで解放してもらえるのならと、レルムは彼女の前に立つ。するとピリムはそっと目を閉じ、その瞬間を待った。

 レルムが身を屈めそっと唇を押し当てたのは……彼女の額だった。

「……違いましてよ」

 ムッとした表情で目を開くと、ピリムは自分の唇を指差してくる。

「キスと言ったら、普通こちらでしょう?」

「……」

 レルムは困ったような表情を浮かべるが、ピリムはお構い無しに目を閉じてキスをねだってきた。しかもきちんとするまでは離さないようにレルムの服の袖をしっかり握り締めている。

 どうしてこんな事になってしまったのか……。

 レルムは内心これまで以上に盛大な溜息を吐き、ゆっくりと身を屈めた。

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