第77話 上流階級の事情

 ノックもせず勢いよく扉を開くと、手紙の返事を書いていたポルカが驚いたように顔を上げた。

 髪を乱し、息を切らしたリリアナの姿を見て、ポルカはただ目を瞬く。

「リリアナ、どうしたのです?」

「どうしたもこうしたもありません! レルムさんの事で……っ」

 声を荒らげながら、慌しくポルカの元に近づいてくると不機嫌な顔を浮かべながら詰め寄った。

「離宮から戻ってきてから今日まで、レルムさんがレオルド公爵家のお嬢様の護衛についてるって、さっき知りましたけど!」

「あら。あの子ったら、言って行かなかったのね」

 ポルカは目を瞬いたまま呑気な声でそう答える。

 リリアナは胸の中にある苛立ちが抑え切れず、机にドンと手を突いてポルカに噛み付いた。

「何で教えてくれなかったんですか!」

「ごめんなさいね。てっきりあの子から報告が行くものと思っていたから……」

「聞いてませんっ!」

 先ほどまで不安そうにしていたり嬉しそうに笑っていたかと思えば、この数分の間で怒りながら戻ってくるとは想像もしなかった。

 面白いほどに表情豊かで感情を露にするリリアナに、ポルカは驚いたと同時に少し彼女の事が知れて得したと思ってしまったのは心に閉まいながら、ムッと眉根を寄せふくれっ面をする彼女を見て堪らず吹き出してしまった。

 顔を俯け、肩を揺らして笑うポルカに、リリアナの不機嫌さはますます悪くなる。

「笑わないで下さいっ! あたし真剣なんですよっ!」

「ふふふ。ごめんなさい。そんなに感情を露にして怒ってるあなたを見るのは初めてだから……」

「もう! 笑い事じゃないんですってば! 半月も戻って来てないなんておかしいと思いませんか!?」

 一人でぷりぷりと怒っているリリアナに、ひとしきり笑ったポルカは目の端に滲む涙を拭いながら「そうねぇ」と頷き返す。

「確かに、いつもより遅いかもしれないわね」

「いつもより遅いって……何で戻ってこないんですか!」

「ピリムは彼の事をとても気に入っているようだから、なかなか手放してはくれないのかもしれないわ」

 気に入っているから手放してくれない……。

 その言葉を聞いた瞬間、くらっとした立ちくらみと共に苛立ちはますます膨れ上がった。今ここでポルカに当たっても仕方がないのは分かっているが、このイライラを押さえ切れそうにない。

 このままでいいはずがないのだ。絶対に。

「王様の権限で連れ戻してくださいっ!」

「あら、残念だけどそれは出来ないわ。いくら国の指導者だからと言って、個人の問題に口を出す事はできないものよ」

「だけど! このままじゃ公務にも支障が出るし、お母さんだって護衛する人がいなかったら大変でしょ。何があるか分からないのに」

「その為に、彼がいるのでしょう?」

「……」

 ニッコリと微笑みながらポルカがリリアナの後ろを指差した。その指につられて後ろを振り返ると出遅れてやってきたクルーが、扉の前で困った様子で立っているのが見えた。

「あの……報告書をお届けに来たのですが……」

 クルーが申し訳なさそうにそう言うと、ポルカはリリアナの影から顔を覗かせ微笑んだまま頷き返した。

「ご苦労様。申し訳ないのだけれど、報告書はそこのテーブルに置いておいて貰えるかしら?」

「は、はい。では、失礼致します」

 いそいそと指定されたテーブルに持ってきた報告書を置くと、クルーはペコリと頭を下げてそそくさとその場を後にした。

 そんな彼を見送りながらポルカはふぅっと一つため息を吐く。

「もう少し自信を持ってくれて度胸がついたら、一人前だと言えるのだけど……」

 ふっと笑いながらそう呟くポルカにリリアナは向き直った。

「クルーの事はどうでもいいんです! 問題はレルムさんの事で……」

「嫉妬ね」

 さらりと遮るように呟いたポルカの言葉に、リリアナは自分の言葉を飲み込む。

「……え?」

「あなたのそのイライラの事よ」

 くすくすと笑いながらそう答えるポルカに、リリアナは初めて自分が見た事もない公爵令嬢に嫉妬しているのだと気が付いた。その瞬間、顔がカーッと熱くなるのが分かる。

「だ、だって……レルムさんはいつも近くにいてくれたし……。なのに、半月もあたしの知らない女の人と一緒にいるのかと思うと、凄く、何か、モヤモヤするって言うかイライラするって言うか……」

 赤い顔をしたままふてくされたように視線を下げ、ブツブツと言い訳をするリリアナにポルカはただ微笑んでいた。

 リリアナは急に勢いをなくして黙り込み、ぎゅっとドレスの裾を掴んで顔を俯ける。

「あなたが気になるのは分からないわけじゃないのよ。でも、レオルド公爵も私達と血族関係にある以上無縁なわけではないのだし、レルムが公爵令嬢であるピリムの護衛に着くのは別段おかしなことではないわ」

 ポルカはゆっくりと席を立ち上がると、リリアナの隣に立った。

 まだどこか腑に落ちないような顔をしているリリアナを、ポルカはふっと目を細めて見つめた。

「分かっていると思うけれど、レルムは王家の所有物ではありません」

 所有物……。そんな風に考えた事など一度も無かったが、その言葉にグサリと刺さる物があった。

「そ、それは……そうですけど……」

 ぎゅっと裾を掴む手に力が入る。

 リリアナは視線を逸らしながら、しかしまだ納得のいかないような口ぶりをした。

 厳しい事を言うようだが、知っておかなければならないことならばとポルカはあえて厳しい言葉を続けた。

「彼らより地位の低いレルムにとって、レオルド公爵家は私達と同等の扱いをするべき相手でもあります。その公爵家の申し出を無碍に断ったとあっては、あの子が過去に築いて来た物や立場や家族までもがどうなるかは、皆まで言わずとももう分かるでしょう?」

 そう言われると、理解せざるを得ない。

 彼は彼なりに自分の立場や家族を守らなければならない。だからこそ、自分が思っているような断れば良いなどと言う簡単な物ではない事が分かった。

 自分はそれだけ無知で、浅はかだったのかもしれない……。そう思うと先ほどまでの怒りが嘘のように沈静化し、むしろ落ち込んでしまった。

 そんなリリアナの背中を、ポルカはそっと手を当てて慰めるように摩る。

「厳しい事を言うようだけど、そんなに簡単なことではないのです。これは、知っておくべき事でもありますよ」

「……」

 リリアナは小さく頷く以外出来なかった。

 すっかり落ち込んでしまったリリアナに、ポルカは努めて明るく話を逸らす。

「それにね、知らないわけじゃないでしょう? レルムがあなたの事を誰よりも大切に思ってるって」

「分かって……るけど……もしかしたら、ただ自分が驕ってるだけかもしれないって思ったら……」

 どれほど大切に想われているのかは痛いほど分かっている。しかし、時として自信がなくなる事もある。今がその時だった。

 もしかしたら、公爵令嬢であるピリムと言う女性に絆されてしまっていたらどうしようか……。

 あり得ないと思っていても、ふっとそんな事が頭をよぎって仕方がない。

 急に自信なさげにするリリアナに、ポルカは驚いたように目を瞬く。

「あら……。レルムを信じてないの?」

 その問いかけに思い切りブンブンと首を横に振った。

 信じてない訳じゃない。信じている。信じているからこそ不安になるのだ。

 ポルカは「しょうがないわね」と溜息混じりに言いながら、リリアナを近くの椅子に座らせる。

「レルムがレオルド公爵家に行く前に私のところへ来たのだけど、その時に聞いた事があるの」

「え?」

「どれくらい、あなたの事を愛してるのかってね」

「……っ!?」

 ギョッとしたように目を見開き、リリアナは驚きのあまり言葉が出てこなかった。

 そんな彼女を見つめながら、ポルカは言葉を続ける。

「そうしたら最初は言い渋っていたけれど、最終的にあの子にしては珍しく取り乱しながら少し顔を赤らめて言っていたわ。何物にも代えがたいただ一人の人、ですって」

 何物にも代えがたいただ一人の人……。

 リリアナはその言葉を聞いた瞬間にカーッと頭の先から足の先まで熱くなった。

 ポルカは溜息混じりに肩を竦めながら、真っ赤になって固まってしまったリリアナに微笑みかける。

「聞いた私の方が恥ずかしくなってしまったわ。でも……レルムはあなたを正真正銘愛してくれているんだと確信できた瞬間でもあったの。だから、あなたが不安に思うようなことは何もないはずよ?」

「……は、はい」

「確かに、知らない女性と共にあるのはいい気分ではないかもしれないけれど、レルムは職務と割り切っているようだし心配いらないわ」

 こくこくと首を縦に振り、リリアナはようやく納得したように頷いた。

「へ……部屋に帰ります……」

 リリアナは真っ赤になった頬に手を当てて一言そういい置くと、いそいそとポルカの部屋を後にする。

 立ち去る彼女の後姿を見送りながら、ポルカはふっと笑みを浮かべた。

「ほんと、世話が焼ける子ね……」

 クスクスと笑いながら、ポルカは再び机に向かうのだった。

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