第六章 過去のしがらみ

第62話 春の予感

 昼は診察と往診に勤しみ、診療所が終わってからは簡単な食事を摂りながら寝る間も惜しんで、クロッカ病の事を調べてはそれに対抗しうる薬の調合を試みる。

 ゲーリは体を休める事すら忘れて、毎日のように研究に没頭していた。

 ルシハルンブルクの研究支援の申し出に返事を返してからほどなく、受領の手紙と共に研究支援金の給付とクロッカ病に関する詳しい情報提供を受け、研究に励んだ。

 自分の体のことなど省みず、捕り憑かれたように研究に明け暮れているゲーリを村人が心配するほどだ。

 この日も、診療時間が終わり入り口に休診の札を掛けたところへ、隣人のマリーンがおずおずと声をかけてきた。

「先生」

 部屋へ入ろうとしていたゲーリは足を止めてそちらを振り返ると、マリーンは手にナフキンの掛かった皿を持ち心配そうにこちらを見つめてくる。

 いつになく青白い顔をしてやつれているゲーリの顔を見て、マリーンは軽くした唇を噛みながら小走りに駆け寄ってきた。そして持っていた皿を差し出すと、視線を僅かに俯けたまま口を開く。

「これ、良かったら食べてください」

「あぁ……ありがとうございます」

 やんわりと微笑んで皿を受け取ったゲーリは、軽く頭を下げるとすぐに部屋へ戻ろうとする。だが、マリーンはそんなゲーリの袖を掴み彼を引き止める。

「先生」

 突然の事に驚いたゲーリが彼女を振り返ると、マリーンは泣き出しそうな目でこちらを見つめてくる。

 その顔を見ていると、村を立ち去る前のリリアナを見ているようで何気なく視線を逸らしてしまった。

「すみません。忙しいので……」

 そう言いながら、振り切るようにその場を離れようとした。

 ほんの僅かな時間さえも惜しい。一刻も早く研究に戻らなければ……。その気持ちが彼を急かしていたのも嘘じゃない。

 マリーンはそんなゲーリの袖をぎゅっと握り締めると、慌てたように声をかけてきた。

「あまり無理はなさらないで下さい。先生の体が心配で……」

「ありがとうございます。私なら大丈夫ですよ」

 決して強がって言っているわけではない。疲れているのはゲーリ自身よく分かっているのだが、それでもやらなければならない事は山のようにあるのだ。

 マリーンも、今ゲーリが何に向かって頑張っているのかを知らないわけじゃなかった。

 時折遠方からわざわざゲーリを訪ねてくる人間がルシハルンブルクの医療班で、彼らがクロッカ病に対して薬の研究をしている事は周知されていることだ。

 ゲーリの袖からゆるゆると手を離したマリーンは、顔を俯かせる。

「……私に、お手伝いできる事があったら何でも言ってください」

 そういい残し、ペコリと頭を下げるとマリーンは自分の家へ足早に戻っていく。そんな彼女の背を見送り、ゲーリもまた家へと入った。

 マリーンから受け取ったのは、栄養バランスが考えられたサンドイッチだった。

 ゲーリはそれを手にしたまま調剤室へ入り、乱雑に散らばった無数の資料を適当に掻き分けて、テーブルの上に置き、席に着いて研究の続きをし始める。

 何十種類もある薬草の配合を微量に変えながら、ルシハルンブルクから提供された資料を見つつ給付金を元に購入した顕微鏡を覗き込みながら薬の調合に励む。その間にサンドイッチに手を伸ばし、無造作にそれをむさぼりながら研究の手を止める事はしなかった。




                                  *****



「……できた」

 ゲーリは試験管に入った液体を見つめ、長い溜息を吐きながらそう呟く。

 研究に没頭してから、実に3ヶ月目の事である。

 ようやく完成したワクチンだが、今回ゲーリが初めて作ったというわけではなかった。

 これまでも沢山の医師が試行錯誤を重ねてワクチンを作ってきてはいたが、どのワクチンもクロッカ病のウイルスには全く効果が見られない事が多かった。

 今回のこのワクチンも、効くかどうかは全くの不明だ。

「とりあえず、これをルシハルンブルクへ送ってみよう」

 小瓶に詰めた薄い茶褐色のワクチンを丁寧に包んでルシハルンブルクへの配達を頼むと、ゲーリの肩から少しだけ力が抜けた。

 このワクチンを作るために望んだ時間は長かった。これまで失敗してきた薬の配合表を見ながら、独自の考えを元に作り上げた月日はおよそ4ヶ月。

 取り掛かったのは北では雪が降るほどの真冬だったが、今はもう暖かな南風が吹く春の陽気に包まれている。

 結果はどう出るか分からないが、ゲーリはホッと溜息をついた。

「先生」

 ふいに背後から声をかけられてそちらを振り返ると、そこにはマリーンが立っていた。

「マリーンさん」

「薬、完成したんですか?」

「完成とは言い切れませんが、とりあえず形は出来て今送ったところです」

 にっこりと微笑んでそう答えると、マリーンもまた安堵したように微笑み返してきた。

「それは良かったです。先生が倒れてしまうんじゃないかって、ずっと心配してましたから……」

「マリーンさんにはお世話になりました。いつも食事をありがとうございます」

 ゲーリがペコリと頭を下げると、マリーンは顔を赤らめて恐縮だと言いながら首と手を横に振った。

「い、いえ! 私にはそのぐらいしか出来ませんでしたから……」

 恥ずかしそうにそう言いながら視線を逸らした彼女に、ゲーリは目を瞬く。

 そう言えば、なぜ彼女は毎日のように食事を用意し、気にかけてくれていたのだろうか?

 マリーンはリリアナよりも3つほど年上の女性で、リリアナがいた頃は何かあるとよく面倒をみてくれていた女性だ。

 だいぶ前に彼女の母親が何気ない会話の中で、「良い年頃になったと言うのに一向に嫁の貰い手がない」とぼやいていたのをふと思い出す。

 容姿が悪いわけでも、性格が悪いわけでもない。色めいた話の一つや二つあっても良さそうなものだが、そんな噂話すら聞いた事がない。

 申し分ない女性だと言うのに何もないと言うのは、母親が心配するのも無理はないだろう。

「あの……先生?」

「はい?」

「これからも、食事を作って持っていっても構いませんか?」

 顔を赤らめたまま恥ずかしそうにそう訊ねて来た彼女に、ゲーリは一瞬言葉に戸惑った。

 もちろん駄目ではない。駄目ではないが……もしかして彼女は……。

 そう思うと途端に落ち着かなくなる。

「あー……いや、それは構わないのですが……」

「本当ですか! 嬉しいです!」

 パァッと表情を明るくすると、マリーンは嬉しそうに笑みを浮かべ「ありがとうございます!」と頭を下げ、足取り軽く自宅への道を帰っていく。

 そんな彼女を見送りながら、ゲーリは困ったように頭を掻いた。

「……薬がもしもウイルスと適合したら、しばらく村を留守にしようと思ってたんですけどね」

 ボソリと呟いたその言葉は、春の温かな風に流されていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る