第37話 臆病な心
「必ず帰ってくるから。だから、ここで待っていて欲しい」
床の上にへたりこんで泣き崩れるリズリーの前に、レルムはしゃがみこんで彼女の肩に手をかけた。しかし、リズリーは激しく首を横に振り続ける。
「嫌……あなたと離れるなんて、絶対に嫌……」
「リズリー……」
レルムは彼女に対してどんな言葉をかけていいのか分からず、言葉に詰まった。するとそれまで俯いて泣いていたリズリーはすがりつくようにレルムに抱きついた。
胸元に顔を埋めて背中にしっかりと腕を回す彼女に、レルムも堪らず強く抱きしめ返す。
「私一人で待ってるのは嫌なの。一人は嫌……」
繰り返し震える声で囁く言葉に、レルムは固く目を閉じた。
その想いに応えたい。だが、傍にいてやれる事は出来ない……。
胸の奥をどうしようもない想いがこみ上げて、レルムはただ強くリズリーを抱きしめ続けた。
そして、3日後の早朝。
隣で眠るリズリーの顔をそっと覗きこみ、柔らかな栗毛を名残惜しそうに指に絡めながらレルムはそっとベッドを離れる。
今日は父に代わり司令官として城へ上がる日だった。
つい先日届いたばかりの真新しい軍服に袖を通し、父から譲り受けた剣を腰に携えて今一度レルムは背後を振り返った。
こちらに背を向けたまま静かに寝息を立てているリズリーの姿を見つめ、レルムは後ろ髪を引かれる思いで部屋を出て行く。
どれだけの激務が待っているのか。それは、父を見てきたから良く分かっている。父も、家に帰ってこられた時は一年に一度あるかないかだ。
母は城で召使として働いていただけに、軍の人間がどれだけ大変な思いをしているかよくよく分かっていたせいか、そんな父に理解を示していた。
リズリーもまた騎士の家に生まれた者として、今は分かってくれなくともいずれ分かってくれるものと、浅はかにもこの時は考えていた。
出来うる限り僅かな時間でも作って家に帰れるように自分は努力しよう。そう考えていたものの、やはり現実はそう甘くはない。
城に上がってからの想像を超える激務は続く。その傍らで、「成り上がり」や「所詮は親の七光り」などと冷ややかな言葉を囁かれ、なかなか兵士達からの信頼を得られず決して居心地が良いだけの環境にはならない苦い思いもした。
何とか時間を工面しようと悪戦苦闘する内に、無情にも気付けば3年の月日が流れていた。
周りからの信頼も得られるようになり、総司令官と言う職務もだいぶ板についてき始めたそんな時だった。リズリーの情報が突如としてレルムの元に届いたのは。
「レルム様。お手紙をお預かりしています」
「あぁ、ありがとう」
召使から手渡された手紙を受け取り、中を開くと見慣れた文字が目に入り、ピクリと表情が動く。
「リズリー……」
気づけば3年も経ってしまっていた。それまでの間どうしても作り出す事が出来なかった時間。突如として届いたこの手紙には、恨みつらみの一つや二つ書いてあるに違いない。
そう想いながら文字を読み進めると、レルムの表情が次第に険しい物へと代わっていった。
手紙を持つ手が微かに震え、最後にはグシャリと握り締める。
まさか……そんな……。
レルムは愕然とした表情で机に肘を付き、頭を抱えうな垂れる。
『親愛なるレルムへ
あなたが城に上がって、早くも3年の月日が経とうとしています。
こうしている間にも、あなたは忙しく仕事に明け暮れている事でしょう。
今日はあなたに、報告があります。
実は私、あなたがこの家を立ってからしばらくして、赤ちゃんを授かっていました。
目には見えないあなたとの絆を感じて、それを知った時本当に嬉しかった。この子がいれば、私はあなたを待つ事が出来る。そう思っていたの。
でも……ダメだった。私はお母さんになれなかったの。
なぜ今頃そんな事を言うのか不思議に思っていることでしょう。
私、あなたを驚かせたかったの。あなたが帰ってきた時にあなたの子供がいるって知ったら、きっと喜ぶと思ってそれが楽しみだった。
だけど、ダメだと分かったその日から何もかもが嫌になって、こうなってしまった事も、一人になった事も、全部あなたのせいにしている私がいる。
愛しているのに、あなたが憎くて堪らなくなっているの……。
だから……私マージへ行きます』
なぜ、そんな大事な事をもっと早く知らせてくれなかったのだろうか。
なぜ、恨むならばわざわざマージへ堕ちるような事はせず、ここまで駆け込んでこなかったのか。
考えても到底分からず、レルムにはただ、後悔だけが残った。
彼女にしてやれることはもっとあったはずなのに、何も出来ないうちにこんな形で離れる事になるとは、考えても見なかった。
どうしようもない焦燥感と喪失感に駆られ、レルムはきつく拳を握り締める。
そしてその後、マージに渡ったリズリーの活躍の話をたびたび小耳に挟むようになる。その話はどれも残忍極まる、思わず耳を塞ぎたくなるような話ばかりだった。
いつしかレルムは、彼女に対する後悔と罪悪感を胸に残して愛情が少しずつ冷めていくのを感じていったのだった。
幾たびも重なる戦いの中、たった一度だけリズリーと対峙した時、変わり果てた彼女の姿に翻弄され、レルムは彼女がかけた昼夜で入れ替わる性転換の術にまんまと掛かってしまったのである。
「その術は、私を殺さない限り絶対に解けないわ。……せいぜい苦しむ事ね」
冷ややかな眼差しで微笑を浮かべながら、そういい残して去っていくリズリーの言葉は今でも耳に残っている。
それからだった。レルムが必要以上に周りに心を開こうとせず、頑なに職務一筋に生きようとし始めたのは。
あの時のような苦い思いをするくらいなら、自分が原因で大切な人を苦しめるのなら、もう誰にも心を許す事はしないと……。
雨は次第に小降りになってきた。
窓に当たる雨もなく、水滴の残る窓ガラスを見つめたまま呆然と昔の事を思い出していたレルムは、ふっと視線を下げて息を吐く。
「……もう誰にも心を許す事はしない。確かにあの時、そう決めていたのにな」
どこか物憂げな瞳で、自分の手のひらを見つめた。
ブレディシアで初めて悪党に絡まれてもなお果敢に立ち向かうリリアナを見つけ、偶然にも彼女の手の甲にデルフォス王家の紋章を見つけた。
彼女がルク村にいる事を割り出して、ようやく見つけ出した王女を迎えに行った時、雨の降る中泣き崩れる彼女を抱きしめた。
リズリーの想定外の奇襲で完全に怯えてしまった彼女を連れてデルフォスへと帰還し、彼女の日頃の行動を見てきた。
お披露目パーティの時、初めて綺麗に着飾られた彼女を見て、ロゼス王子に見初められた瞬間を見た時はこれでこの国も安泰と喜ばしくも思ったが、少し寂しくもあった。
深夜に部屋を抜け出して足を痛めた彼女を抱き上げ、部屋まで送り届けた時は不思議と心が満たされたような気持ちにもなった。
初めは特別な気持ちなど一切なく、ただ自分が仕えるべき人が無事にデルフォスへ戻ってきてくれた事を純粋に喜んでいたはず。
今思えば、初めて彼女を見た時から自分は彼女に惹かれていたのかもしれない。
自分にはない、自分自身に正直に生きようとするその姿。分け隔てなく、誰とでも仲良くできる社交性の高さ。壁にぶつかりながらも、逃げ出さずに目の前の問題に対応する強さ……。
見つめていた手をきつく握り締め、レルムは苦々しい表情を浮かべた。
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