第36話 選べない道
あぁ、これ以上は踏み込めない。……踏み込んではいけない。
原因が分からずに突如として泣き出した彼女の涙を、無意識にも拭ってしまった自分に後悔する。
それでも涙を拭った指先が名残惜しいと言わんばかりに、するりとリリアナの頬を撫でる様に微かに触れた。
「レルムさん……」
「……」
名を呼ばれるたびに胸の奥が疼くのは、意図せずそれだけ彼女に惹かれているのだろう。
みっともないほどに、彼女に触れたいと思う自分がいる。しかし、それは決して許される事ではない。例え、ポルカがそれを認めたとしても。
すっかり涙の引いたリリアナはまだ潤んだままの瞳で見上げ、顔を赤らめている。
なるほど……。確かに、自分の行動次第で彼女の表情は変わるのかもしれない。
「……部屋へ、戻りましょう」
リリアナの頬に触れていた指を離しきゅっと軽く拳を作ると、レルムは自分の気持ちを振り切るかのように踵を返した。
後ろからはまた彼女の少し小刻みな靴音がきちんとついてきているのが分かる。
波に揺られて微かに揺れる船と小さな軋み。そして静か過ぎる通路に響く二人の足音。それがやけに耳に響いてくる。
やがて部屋の前までやってくると、レルムは扉を開きリリアナを部屋へ入るよう促した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
照れたように顔を僅かに俯けたまま、リリアナは部屋の中へ入っていった。そしてチラリとこちらを振り返ると、レルムはいつもと変わらない笑みを浮かべてみせる。
「では、お休み下さい」
そう一言言い置いて、レルムはそっと扉を閉じた。
「……」
閉じられた扉を前に、レルムはその場に立ち止まったまましばし動けずにいた。
ドアノブを握る手と、先ほど涙を拭った手は扉の面に添えられている。その指先が、自分でも驚くほどにジンジンと痺れていた。
レルムは深くため息を吐いて、そっと扉から手を離しその場を離れた。
どうしようもないこの気持ち。触れてしまえば拍車が掛かりそうで仕方がなかった。
自室へ戻ったレルムが手にしていたランプをテーブルに置くと、パタ……と窓に何かが当たる音が聞こえてきた。
「雨か……」
ポツポツと降り出した雨は次第に強さを増して、船体を叩く音が聞こえてくる。
ふと渡航に支障が出るのではないかと心配になり窓辺に近づくが、酷い天候ではないため問題はなさそうだった。
窓に時折打ち付ける雨は大きな粒となって視界を悪くさせる。そんな様子を見つめながらレルムは一人今後の事を考えた。
リリアナと国の事を思えば、今胸の内にあるこの想いを隠す事が大事なのだろう。彼女に良きパートナーが見つかり、国としても安泰が見込まれれば何の心配も要らない。ただそれまでは、この想いをひた隠しに隠し通す。それが、自分が取るべき最良の選択だ。
今回の公務が無事に終わったら、彼女も承知している答えを伝えよう。それで彼女と距離を取る事で、何も無かった事にできるはずだ。
窓の水滴がガラスを伝い落ちる様を見つめながら、もう一度溜息を吐く。
「……私にはやはり、選べないんだな」
まるで自分を嘲笑するかのように小さく微笑む。
状況は違っていても、これはまるで昔の自分と同じ。そして目の前にある二つの道の内、絶対的に決められた道以外選べないと言う事も同じだ。
レルムはそう思いながら、遠い過去の事を思い出していた。
****
6年前の事だ。当時19歳だったレルムは同じ騎士の名家として知られていたガモンズ家の娘、リズリーと婚約し二人は順風満帆な毎日を送っていた。
レルムは当時デルフォスの総司令官として城に勤めていた父の下で、一兵士としての勤務をこなしながら生活費を稼いでいた。
くたくたになって帰れば、リズリーが満面の笑みを浮かべて出迎えてくれ、愛情のこもった食事を用意してくれている。どんなに帰りが遅くなろうとも、彼女は先に眠る事はせずに待っていた。
そんな幸せな毎日を送っていたある日、突如として父が倒れたと連絡を受け、急いで駆けつけてみると彼は、デルフォス国王と同じ不治の病と呼ばれるクロッカ病を患っていたのだ。
「父さん……」
「……すまない。レルム。私の代わりに、お前が総司令官としてデルフォスの軍を……国を、護って欲しい」
苦悶の表情を浮かべながら、父はあの時そう言っていた。
もともとそう言う約束の下で、レルムも城に従事していたのだから当然と言えば当然の状況だとも言える。だが、レルムはその申し出にすぐに頷き返す事が出来なかったのだ。
城に総司令官として上がる。それはつまり、国の為、陛下の為、人生の大半を捧げなければならず、家に帰る事が極めて困難になると言う事だ。
父自ら、総司令官の座を引き継いで欲しいと言われたその日、レルムの心中は穏やかではいられなかった。
「……こんな事を彼女に言ったら、どんな顔をするのだろう」
帰宅への道を歩きながら、レルムは眉根を寄せていた。
自分は、父の座を継ぎ遅かれ早かれ国に上がらなければならない。そうなると、リズリーの為に傍にいてやることも同じ時間を過ごしてやることも、とても少なくなってしまう。
本当ならこの話は、婚約すると決めた時に彼女に伝えなければならない話だった。だが、レルムは彼女がそれが原因で離れていく事がとても怖かったのだ。それだけ、当時は彼女の事を心から愛していた。
自宅前に辿り着くと、レルムは深いため息を吐く。
父がもう騎士として城に従事できなくなってしまった以上、この事を話さないわけにはいかない。
覚悟を決め、レルムは玄関の扉を開いた。
「お帰りなさい。レルム」
玄関を開くと、リズリーが満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。
そんな彼女を見ていると、ぎゅっと胸が掴まれるような思いだった。
「……あぁ、ただいま」
努めていつもと同じように返事を返したつもりだった。だが、リズリーはすぐにレルムの異変に気付く。
「……どうしたの? 何かあった?」
心配そうに顔を覗き込んでくる彼女に、レルムはすぐに言い出せない自分の弱さをみせつけられたようで、思わず視線をそらしてしまった。
話さない訳にはいかない。先延ばしに出来ることじゃない。
レルムはそう自分に言い聞かせ、リズリーを見る。
「先に、ご飯にしよう。それから話すよ」
そう言って笑って見せた。
その後、食事を終えて二人キッチンに並んで後片付けをしている時にレルムはようやく重たい口を開いた。
「……実は、俺、城に上がる事になった」
「え……?」
「……父さんがクロッカ病で倒れて、もう騎士として城に従事できなくなったから、俺が代わりに総司令官の座を引き継ぐ事になったんだ」
突然の事に驚いて動きが止まってしまったリズリーが、真っ直ぐに見上げてくる。聞こえてくるのは、水道から流れる水の音だけ。
レルムはそんな彼女と目を合わせることを躊躇っていたが、ぎこちなく顔を向けて視線を合わせる。
「……嘘」
「……ごめん。嘘じゃない」
「じゃあ、もうしばらくはこの家に帰って来れないってこと?」
今にも泣き出しそうに表情を曇らせるリズリーを見て、心が痛まないわけが無かった。
レルムもまた表情を曇らせ、再び視線をそらした。
「あぁ……」
「何でそんな突然……」
「突然じゃないんだ……。もう最初から決められていた事なんだ」
「……そんな話、聞いてないっ!」
リズリーは感情的に叫び、その瞬間手にしていた白い皿が手から滑り落ち床の上に砕け散る。
レルムは辛そうに眉をよせ、目を閉じた。
「すまない……。本当なら、婚約する前にこの話をしておくべきだった。でも、この話をする事で君が俺の元を去っていくのが怖かったんだ……」
「そんな……」
リズリーは大粒の涙を流しながら、首を激しく横に振った。そして泡のついて濡れたままの手でレルムの両腕をしっかりと掴み、その胸元に頭を押し付ける。
「嫌よ……! あなたがいつ帰るかも分からないこの家で、一人でただ待っているだなんて絶対に嫌!」
「リズリー……」
「ねぇ、お願い。行かないで。私の傍にいて?」
「……っ」
涙を流しながら真っ直ぐに自分を見つめてくるリズリーの瞳を、レルムは辛そうに見つめる。
彼女の望む通り、例え国を追われる事になっても全て放り投げて傍にいたい。これからの人生を彼女と二人で分かち合いたい。
そう強く望んでいたが、国王とラゾーナ家との間に結ばれたこの約束事を違える事も出来ない。
レルムは二つの選択肢に板ばさみになっていたが、やがて苦しげに目を閉じ俯いた。
「……ごめん」
喉の奥から搾り出すように謝った彼の言葉で、リズリーは自分を選んでもらえなかった事を確信しその場に泣き崩れた。
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