第34話 葛藤
「わぁ……これが海!」
リリアナは胸いっぱいに海風を吸い込んだ。
あたり一面に広がる潮の香り。見た事がないスケールのでかさの海。白くサラサラの砂浜……。
どれもこれもが初めてで、リリアナは興奮が抑えきれなかった。
「あまりはしゃがれると転びますよ」
その場にヒールを脱ぎ捨てて砂浜を足の裏全体で感じながら、子供のように波打ち際に向かって走り出したリリアナ。そんな無邪気な彼女を、ペブリムは困ったように微笑みながら見つめる。
着ているドレスが汚れる事など気にもせず、砂浜に座り込んで砂を手に持ち、指の間をすり抜けていく細かな粒子をじっと見つめている。かと思えば、小波と戯れて遊んでみたり……。
初めて見て、初めて触れる物。そのどれもに心の感じるまま接するリリアナの姿は愛しささえ感じさせた。
落ちていた貝殻をつまみ上げて微笑む彼女を見つめていたペブリムは、眩しい物を見るかのように目を細めて微笑む。
取り繕う事がなく、自分の心に素直になれる。そんなリリアナが今の自分にはとても輝いて見えた。
「ペブリムさん! これ、凄く綺麗ですよ!」
そう言いながら駆け戻ってきたリリアナは息を切らしながらペブリムの前に立ち、手にした貝殻を大切そうに両手に乗せて見せてきた。
リリアナの両の手に乗せられた貝殻は薄いピンク色をした小さな貝殻で、形も綺麗に残っている。
「……えぇ、とても綺麗です」
ふわりと微笑んだペブリムを見て、リリアナは瞬間的にハッと気付くと顔を赤らめ、貝殻を握り締めながら顔を俯けて上目遣いで見上げてくる。
「……今、子供みたいって思いましたよね?」
ペブリムはそんなリリアナを見て目を瞬くも、クスッと笑いながら首を横に振った。
子供みたいだとは思わない。むしろ、彼女の今のあり方が羨ましくさえ思えた。
「いいえ。あなたの飾らない、自分の気持ちに正直な一面を見れて良かったと思ってます」
「!」
そう言われた途端、リリアナの顔の赤みが増した。
戸惑いの色を見せてはにかみながら、さりげなく別の話に擦り替える。
「ふ、船、まだ出港しないんですかね」
「そうですね……。もうじき準備が整うと思いますよ。乗り場へ行ってみましょう」
くるりと向きを変えて歩き出したペブリムの後ろを追って、リリアナもヒールを手に素足のまま海岸線を歩きながら船着場へと向かう。
目の前を歩くペブリムの後姿を見つめていると、ふいに馬車の中で感じていた気まずさを思い出す。
思わず一人ではしゃぎ回ってしまったが、昨日思いがけず打ち明けてしまった告白の事を思い出してしまうと一気に膨らんだ気持ちが萎んでしまった。
相手は何もその事に関して言って来ないところを見ると、そのままスルーしているのだろうか? いや、彼女に限ってそんな事はないだろう。必ず、こちらが考えている通りの返事を寄越してくるはずだ。
「……」
リリアナはだんだん歩調が弱まり、そして無意識にも足を止めてしまう。
そうだ。昨日の返事を貰ったら、自分はどうしてしまうだろう。この場にいる事もはばかるかもしれない。まして、隣になど立っていられなくなる……。
考えれば考えるほどに怖さが増して、先ほどまでの楽しい気持ちが嘘のように思えてきた。
返事を聞くべきか、それとも聞かないべきか……。
手にしていた貝殻をきゅっと握り締める。
「……今は、このまま何も言わないで欲しい……」
ボソッと呟いた言葉は、潮風に包まれて流されていった。
出港準備が整った船は、すぐにでも港を離れる。
先に到着していたドリーは、リリアナと共に部屋へと引き上げていく。そんな姿をペブリムは見つめて浅くため息を吐いた。
返事をするべきか、しないべきか……。
いずれはハッキリさせなければならないのだが、今はその時ではない。うっかりにも今返事をしてしまったら、この後の公務に支障が出る事は日の目を見るよりも明らかだった。
今はまだ、胸の内に留めておかなければ。
ペブリムは遠ざかっていくリリアナの背を見送ると、くるりと向きを変えて自分に用意されていた部屋へと向かった。
あてがわれていた部屋はなかなかに広く、ベッドと机、ソファなどが置かれている。窓からは外を眺められるように小さなバルコニーもついていた。
ペブリムは荷物を置いて窓を開き、どこまでも続く水平線を見つめながら、先ほど海辺でリリアナが見せた楽しそうにする姿を思い出す。
心からの笑顔。それがとても眩しくて、そして自覚する前よりも強く心が疼いた。
「……こんな気持ち、間違っている」
陽は傾き始め、空は徐々に夕暮れが近づいてくる。空は茜色から藍色へと移り変わり綺麗なグラデーションを映し出していた。
自分の気持ちに蓋をする事ばかりになってしまうのは、大人の良くないところかもしれない。
ペブリムはふっと目を閉じる。そして今一度、自分の気持ちに問いかけた。
蓋をしてでも、通さなければならない事はある。今はその時だ。
ゆっくりと目を開くと、ペブリムは本来の姿……レルムへと変わっていた。
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