第28話 知らなければならない事

 あれからどれだけの時間が経ったのだろう。

 いつの間にかベッドに顔をうつぶせた状態で眠っていたリリアナは、ふと気が付いて体を起こす。

「……あれ。いつの間に寝ちゃってたんだろう」

 目を擦りながら窓の外を見ると、まだ夜は明けていないようだったが、ランプの油の量を見る限りもうじき夜明けがやってくる時間帯だと言う事がわかる。

 リリアナはまだぼんやりとする頭でレルムの顔を覗き込むと、彼はまだ眠っているようだった。

「ちゃんと寝れてる。良かった」

 ホッと胸を撫で下ろすと、リリアナはそばに置かれていた桶に手を伸ばし、中の水に浸されていた布を絞る。そしてレルムの額に滲む汗を丁寧に拭っていると、背後から扉の開く音が聞こえ、咄嗟に振り返った。

「大丈夫?」

 そこにはランプを片手に微笑むポルカの姿があった。驚いたように目を瞬くリリアナにくすっと笑う。

「ふふふ。私が供もつけずに一人でここへ来る事がそんなに不思議? 娘が一人で看病しているのに、私が気にならないわけないでしょう?」

「で、でも……」

「私はあなたの体も心配なのです。無理をしないで、召使や医者に任せて休む時は休みなさい」

 ポルカはふっと微笑み、そっとリリアナの頭をなでる。

 リリアナは母親の優しさに触れて何も言えなくなり、視線を下げた。

「……陛、下……?」

 その時、ふいにレルムは目を覚ました。

 声がかけられたポルカとリリアナは驚いたようにそちらを振り返ると、まだ熱に浮かされているかのような目でこちらを見ているレルムと目が合う。

「ごめんなさいね。起こしてしまいましたか?」

「あ、レルムさん……」

 ポルカを前に起き上がろうとするレルムの動きにリリアナが思わず声を上げる。ポルカは同時にレルムの動きを手で制してそのままの体勢でいるよう無言の指示を出すとレルムは起き上がることを止めた。

「そのままで大丈夫ですよ。無理はしないで。この度は大変でしたね。ご苦労様です」

「……いえ。申し訳ございません。私が未熟だったばかりに、こんな結果に……」

「いいのですよ。あなたが生きて戻ってきてくれた事が、私達には何より嬉しい事です」

 にっこりと微笑みながらレルムを許すポルカとの会話に、リリアナは胸がいっぱいになった。

 先ほどよりも声がしっかりしているのは、少しでも眠れたせいだろう。

 彼はもう大丈夫。そう確信できた瞬間だった。

「敵地の状況はどうでしたか?」

 この状況下で訊ねるには、あまりに酷なのではとリリアナは思った。だが、レルムはそれに対しいつもの自分らしく応えようとしている姿に何も言えない。

「……要塞まで行く事はできませんでした。駐屯所は全て潰す事はできましたが、私が負傷したのがその最中でしたので……」

「そうですか……」

 こうして負傷したことに触れず、いつもの連絡事項を聞くことで逆にレルムの心の負担を軽くしようとしているポルカだった。

 負傷者として扱えば、彼なりのプライドが傷つく。それを分かっていたからこそ、いつものように接しているのだ。

 まだそれを掴みきれていないリリアナは少しばかりハラハラしながら、近くに置いてあった水瓶を咄嗟に手に取り、それを抱きしめながら立ち上がる。

 何となくこの場にいられない。

「あ、あの、あたし、水汲んできます」

「あら、それなら召使に……」

「いいんです。行ってきます」

 そういい置いて、リリアナは足早にその場を立ち去った。

 静かな通路に出て、とりあえず兵士塔の傍にある小さな庭園に出てみた。

 空を見上げてみると遠く地平線が薄っすらと明るくなりかけているのを見る限り、もうじき朝になる。

 リリアナは水瓶を抱えたまま近くのベンチに腰を下ろして小さくため息を吐いた。

 あれだけしっかりと受け答えが出来ているのならきっと大丈夫だと、心から安堵していた。

「もう少ししてから戻った方がいいかな」

 そうは言いつつも、外はかなり冷え込む。じっとベンチに座っていられずすぐに立ち上がると、丁度レルムの部屋の方角から歩いてくる召使に出くわした。

「あ、ごめんなさい。あの、水を汲みに行こうと思ってるんですけど……」

 そう声をかけると、召使は慌てて頭を下げた。

「そんな、王女様にやって頂くなんてとんでもございません。私が汲んで参ります」

「あたし、水を汲んでくるって言って部屋を出てきちゃったんです。だからあたしが持って行きます」

「で、では、私がこちらまでお持ち致しますのでお待ち頂けますでしょうか?」

「うん。ありがとう。じゃあお願いします」

 リリアナは抱きかかえていた水瓶を手渡すと、足早に去っていく召使の後姿を見送った。

 時折吹く風が冷たく、リリアナはブルッと身震いをした。

「ちょっと寒いなぁ……。厚着してくれば良かった」

 自分の体を抱きかかえるようにしながら、召使を待っているとすぐに彼女をは戻ってきた。

 リリアナはそれを受け取り、再びレルムの部屋へ戻ってくると中からする話し声に思わず足が止まってしまう。

「リズリーの事、まだ思うところがあるのですか」

「……いえ、私はもう彼女とは……」

「そうね。でも、あなたの心がまだしっかり定まっていないのではないですか?」

「……そうかもしれません。だからこそ、隙が生まれたのだと思います」

 リズリーと言う名が出て、リリアナはドクリと胸が鳴った。

 扉一枚隔てた向うで繰り広げられている会話の内容を、聞いてはいけない事のような気がしたが足が動かない。

 二人の会話から、リズリーとレルムには何か関係があるのだという事が分かる。それがどんな関係かまでは分からないが、友人と言う枠にはまるほど軽いものではない。

 友人よりも深い関係……友人以上の関係だと言う事は、恋人?

 そう考えると顔を顰めてしまうほどに強い胸の痛みを覚えた。

 リリアナはぎゅっと水瓶を抱きしめて、堪らずその場にしゃがみこんだ。

 二人が恋人で、お互いを想い合っているのなら、どうして敵対するような事になっているのだろう? 二人はお互いを憎んでいる? なぜ?

 ふとその時、ポルカの言葉が頭を過ぎった。

『身分の差以前に、相手にはもう心に決めた人がいたの』

 そう言って、どちらにしても諦めざるを得なかったと言うポルカの初恋。

 もしかすると、自分も全く同じような事に直面しているんじゃないだろうか……?

 ならばなぜ、ポルカは自分を応援するなどと言ったのだろう?

 頭の中が混乱して、不安に鳴る胸の鼓動がやけに耳障りだった。

 そんなリリアナを余所に、会話は続けられる。

「あなたの中でリズリーを討つ為の本当の覚悟は、あなたにとって守るべき物が出来た時なのかもしれないわね……」

「私にとって守るべき物は、この国と王家の方々です」

「……いいえ、そうじゃないわ。私が言いたいのはあなた個人にとって守りたいと思えるものよ」

「……それは……」

 言葉を濁すレルムに、ポルカは浅いため息を吐いた。

「今はまだ無理かもしれない。でも、ずっとこのままでもいられないわ。あなたはあの時から心を頑なに閉じてしまっているけれど、職務だけが全てだとは思いません。職務に没頭する事であの時の事を忘れ、次へ進めないと言うのは違うと思うの」

「……」

 あの時……?

 気になりはするものの、まるで立ち聞きしていましたと言わんばかりのタイミングのような気がして今出て行くのは気まずい。

 戻るタイミングが分からない。

 どうしたらいいか分からず、リリアナは水瓶を抱きしめる。

「あと、リリアナにあなたの体のことをまだ話せていないようだけれど……」

「はい……」

「いつまでも隠し通せる事じゃないわ。特にあの子には……。あの子にとってあなたはとても近しい存在。きちんと説明するべきです」

「そうですね……」

 ふいに、そこで会話が途切れた。

 リリアナは今しかないと、立ち上がり努めて出て行った時と変わらない様子で部屋に入っていった。

「ご、ごめんなさい遅くなりました。場所が分からなくって……」

 そう言いながら扉を開いて笑うと、ポルカは座っていた椅子から立ち上がりリリアナを振り返った。

「誰かに頼めば良かったのに」

「あ、いえ……あたしがやりたかったんです」

 うろたえながらそう答えると、ポルカはクスクスと笑いながらリリアナの肩にそっと触れた。

「……あなたも、あまり無理をしないでね」

 ポルカは気遣うように声をかけて部屋を後にした。

 部屋に残されたリリアナとレルムは会話が無く、とても気まずい雰囲気が流れる。

「あ、えと……、水飲みますか?」

「……ありがとうございます」

 礼を言うレルムに背を向け、リリアナは水瓶の水をコップに移した。

 窓の外は先ほどよりも明るくなり出しているのが見える。

 水を注いだコップをじっと見つめ、立ち聞きしてしまった動揺がバレないよう一呼吸置いてから振り返ろうとした瞬間、レルムがそれを止めた。

「……王女。そのまま、聞いてくださいますか」

「え……?」

「私は、あなたに黙っていた事があります」

 その言葉にドキリと胸が鳴った。

 黙っていた事とはどの事だろう? さっきの話をまがい形にも盗み聞きしてしまっただけに心がざわつく。

 リズリーの事だろうか? もしそうだとしたら聞きたくはない……。

 小さく呻き声を上げ、背後で布のすれる音が聞こえてくる。起き上がれるような状態じゃないはずなのに、彼は無理をして体を起こしたようだった。

「あ、あの、あまり無理をしては……」

 そう言って振り返ろうとするが、レルムはやはりそれを止める。

「いえ……っ、どうか、そのままで……」

 そうしている間にも外はどんどん明るくなり、眩しいほどの朝日が部屋の中に注いできた。

 なぜ振り向いては行けないのだろうか。

 わけも分からず脈打つ鼓動の早さを感じながら、リリアナは言われるままに背を向けて立っていた。やがて、静かに声がかかる。

「……どうぞ」

「……」

 振り返る事を許されたリリアナは、緩慢な動きで恐る恐る背後を振り返った。そして、目の前にある状況に思わず目を疑ってしまう。

「嘘……」

「……」

 あまりにも信じられない状況に、リリアナは愕然として動く事が出来なかった。

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