たねも仕掛けもオチもない日々

海月智

「異常なし」のはんこ


 書類整理をしている中で、報告欄に特に記入がないもしくは「異常なし」「特になし」の記入があった場合、こちらからの意見欄に「異常なし」のはんこを押す作業がある。一通り書類に目を通して記入があるものを抜き取ったら、黒いスタンプインクを出し、「異常なし」のはんこを持ち、淡々と「異常なし」のはんこを打っていく。インク台と紙面を往復する腕の動きは、書類の量が多いほど機械のように同じペースで繰り返す。もしこのはんこが落ちるまでの間に別の物が不意に挟まって来ても咄嗟に避けることはできないのだろうな。

 ぼんやりとはんこを押す中で、もしこの手の甲に、いやどこでもいいんだけれど体の一部に、「異常なし」のはんこを押したらどうなるだろうと考えた。きっと何が変わるわけでもなくただそこに「異常なし」の文字が写るんだろう。周りの誰かがそれに気づいたら「どうしたの」「何してるの」と声を掛けられるかもしれない。

 ただそれだけだ。

 ただそれだけなのに、なんだか妙にわくわくして、怖くて、悪いことをしようとしている時の気分。そういえば以前、同じような欲求に駆られて数字のスタンプをこっそり指先に押した時も妙な不安に襲われてすぐに手を洗いに行ったっけ。

 これはなんなのだろうなあ。手の甲に「異常なし」の字。それはまるで、こう、ディストピアとでも言えばいいのか、自分が誰かにそう判断を下されたしるしのようだ。あるいは自分は異常ではない、そう言い聞かせたいのがくすぐったいのか。

 何にせよ自分は「異常なし」だと言い切れないのだろう。だから数字のスタンプとは違ってこれは実行に移せない。今まで何度も書類の整理をする度に頭を過っているのに、機械的な動きを繰り返すはんこと紙面の間に手の甲を滑り込ませることができたことは一度もない。これはきっとこれからもそうなんだろうな。


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