月と渦

三角海域

1

 そこまで距離があるというわけではないのに、その島のシルエットはどこかぼやけていた。

「すいませんね」

「いいえ。仕方ありませんよ」

 僕は三年前に別れた彼女と会うために、ある島を目指していた。その島に行くには、船に乗らなければならないのだけど、どうやらその船が故障しているらしい。

「昨日までは問題なかったんですがね。すぐに修理は始めますが、はっきりとこの日にとは言い切れないんです」

「かまいません。時間はたっぷりとあるので」

 そう。時間はある。彼女に会うにあたり、僕は仕事を辞め、住んでいた部屋も引き払った。今の僕には帰る場所というものがない。いや、元々あそこは僕の場所ではなく、僕の亡骸の場所だった。彼女と共有していた部屋、彼女と朝まで作業した職場。どこにでも彼女の影が残っていた。僕はそんな風に彼女といる自分を見つめながら生きていた。まるで、影の中の自分が本物で、こうして生きている僕が偽物になってしまったかのように。

「お客さん、どこか泊まるあてはあるんですか?」

「適当に探します」

「そうですか。それなら、ここからすぐのところに民宿がありますんで、そこに泊まってはいかがでしょう。この時期は営業してないんですが、私の方から泊まれないか頼んでみますので」

「そこまでしてもらうのは悪いですよ」

「いいんですよ。これも何かの縁ということで」



 紹介してもらった民宿へ向かい、部屋へ通される。部屋は一人には十分広く、綺麗だった。部屋へ案内してくれた女将さんがお茶を淹れてくれた。

「すいません。ご迷惑ではないですか?」

「いいえ。この時期にわざわざこんな所まで来る人も珍しいですから。ちょっと興味があるんです」

 ここら辺は夏になると有名な祭りが開かれる。企画系の仕事をしていた僕と彼女は、そういった祭りから催しのヒントを得ることもあった。そのいくつかの祭りの中でも、彼女はここでの祭りに興味を持っていたようだった。

 彼女が僕の前から消える前も、その祭りのことを話していた。

「知人に会いに来たんです」

「あの島に住んでいるんですか?」

 女将さんは少し驚いたように言った。

「ええ」

「お客さんとそこまで年齢は変わらないんでしょう?」

「そうですね」

「こういう言い方はよくないですけど、あの島は何もないんですよ。元々そこの生まれとかならまだしも、東京からあそこに引っ越すというのは、面白いですね」

 面白いという前に少し間があった。変とでも言いかけたのかもしれない。

「いままで故障なんてしたことなかったんですけどね。早く治るといいですね」



 女将さんが出ていくと、部屋の温度が少し下がったように感じた。僕はお茶を飲みながら、彼女から三年ぶりに連絡があった夜を思い出していた。

 月がきれいな夜だった。いつものようにコンビニで弁当とビールを買い、部屋に帰ると、電話が鳴った。

「ひさしぶり」

 最初は言葉が出なかった。あまりにも突然なのに、あまりに日常的なその状況に僕は混乱していたのだ。

「いま、どこにいるんだ」

 やっと言葉を絞り出した。

「前に二人で行きたいねって話してたお祭りあるでしょ。覚えてる?」

「ああ」

「そのすぐ近くにね、島があるの。そこに住んでる」

「どうしていきなり消えたんだ」

「消えたわけじゃない。こうしてお話してるじゃない」

「僕の前からいなくなった」

「あなたのせいじゃない」

「ならどうして。仕事か?」

「いいえ。ただ、呼ばれた気がしたから」

「呼ばれた? 何にだ」

「分からない。ただ、ここからでていかなきゃって思ったの」

「会いに行ってもいいか」

「私に? どうして?」

「やり直したいなんて言うつもりはないから安心してくれ。ただ、一度話をしたい。ダメか?」

 彼女は少し間を置いて、「いいわ」と言った。僕らは会う日取りを決めると、少しばかり昔話に花をさかせた。

「君は今何をしてるんだ?」

「月を見てる」

「え?」

「それじゃあ」

 電話は一方的に切られた。僕はしばらく受話器を持ったまま立ち尽くしていた。

 予感。そう、予感だ。忘れていた。ふと心に浮かんだ予感。

 彼女が僕の前から消える前。暗い部屋で彼女は月を見ていた。あの時、僕はなぜか「これで終わりかもしれない」と感じた。

 その後、いつもとかわらない笑顔を見せた彼女を見たら、そんな予感は消えてしまったのだ。

 月。彼女は今も、月を見ている。



 夜が更け、風呂に入り、夕食をすませた。女将さんはたいしたものを用意できなかったと言ったが、十分美味い食事だった。

「そういえば、船直ったらしいですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。でも、変な感じで」

「変とは?」

「どこもおかしくなかったらしいんですよ。故障なんてしてなかったらしいんです」

「でも船は動かなかった」

「ええ。おかしなこともあるもんですね。あ、そうだお客さん、今日は月が綺麗ですよ」

 予感。また予感がした。僕は女将さんに礼を言い、部屋に戻った。明かりはつけず、窓を開ける。

 淡い光を放つ月がそこにあった。冬の夜風と夜の海に光の幕を下ろしている。

 携帯が鳴った。僕は携帯を手に取り、窓から月をのぞきながら通話ボタンを押した。

「やあ」

「こんばんは」

 電話はやはり彼女からだった。

「船が故障したらしくて島まで行けなかったんだ。連絡しようとしたんだけど、繋がらなくて」

「いいのよ。そういうものだから」

「そうなのかな」

「ええ。本来そうあるべきなのかもしれない。当たり前のように誰かがいて、当たり前のように誰かと会って。私は私でしかないのに、誰かを介さないと私は自分が間違いなくそこにいると確信できない」

「そんな小難しいこと考えてんだな」

「小難しいかしら」

「多分ね。でも、なんとなく今なら分かるよ。社会ってのは渦なんだ。僕らはその中でぐるぐると同じところをまわり続けてる。過去も未来も、同じ渦の中にあるんだ。ぐるぐる回りながら僕らは渦の底に沈んで、その内消える。過去から未来は線上じゃない。渦の底に沈んでいく過程なんだ」

「詩的なこと言うのね」

「月が綺麗だから」

「そうね」

「君も月を見てるのか?」

「ええ。今日は特に綺麗な月だから」

「明日、そのまま帰るよ」

「いいの?」

「ああ。こうして月を見ながら話せたから。それで満足だ」

「わかった。頑張ってね」

「ああ」

 僕は「ありがとう」と言った。彼女は「さよなら」と言った。

 そうして、僕は電話を切った。

 月は変わらずそこにある。僕はしばらく月を見つめ、布団にはいった。

 明日朝一でここを出よう。東京に戻って、部屋を見つけて、しばらくはのんびりしよう。幸い蓄えはある。それから、何をするか考えよう。渦の中で、繰り返しの中でどう生きていくかを決めよう。

 目を閉じる。そうして、彼女と過ごした時間は渦の中に埋もれた。もう彼女の影を見ることもないだろう。僕は今、自分の存在をしっかりと感じ取ることができる。

 もう僕は、亡骸ではない。 

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月と渦 三角海域 @sankakukaiiki

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