Long Day Long Night 32

 

   †

 

「貴女たち人間は、なんというんだったかしら――ええと、そこの連中の記憶によると、ワンパ? だったかしらね? 一緒にしないでほしいわ」 女が口にした妙に突っ込みどころのある科白は、つまるところ先に引きずり込んだ先客の記憶を奪ったためらしい――別に高位の魔物に限らず、こういった魔物の中には他者の記憶を奪い取って今現在の文明の発展状況を把握したり、言語を理解したりする個体がいるということは聞いたことがある。

 あの女が海鬼神に抑え込まれていた下級妖魔だというのなら、少なくともこの島に残っているという神隠しの口伝が四百年前から伝わっているという事実を鑑みるに、四百年以上前から生きていることになる。それにしては話し方が妙に現代口語に近いことが気になっていたが、つまり先にこの空間に引きずり込まれた先客の記憶を取り込んだためらしい。

「今までは出来るだけ傷つけない様に、手加減してただけだもの」 言葉の続きを口にして、両腕にバングルの様に光輪を纏わりつかせた女が万歳をする様に両手を挙げる――同時に触れた物すべてを寸断し削り取る光輪が、頭上に向かって撃ち出された。

 意図を図りかねて、一瞬頭上に視線を向ける――それがすべての間違いだった。頭上を見上げた瞬間に右胸を熱した棒状のもので貫かれたかの様な激痛が走り、リディアはその場で崩れ落ちた。

 なにをされたのかすら、わからない――凄まじい激痛で呼吸がうまく出来ず、こめかみのあたりで血管が脈打っているのがはっきりとわかる。脂汗のせいで顔に砂がくっついて、砂粒が口の中に入った。

 深々と刺された傷口に真っ赤に焼けた火掻き棒を突っ込まれ、そのまま捩りながら滅茶苦茶に出し入れされたらこんな感じなのだろうか。思考が滅茶苦茶に乱れて、うまくものが考えられない。集中が途切れて術式が崩れたからだろう、手の中にあるはずの黄金色に輝く長剣はただの紙切れに戻ってしまっていた。

「傷は無いわよ――ただ痛みの感覚を刺激しているだけ。けれど、苦痛は本物――わたしが魔力供給を打ち切るまで、痛みは消えない」 どちらに向けたものか、女がそんな言葉を口にする。しまった――頭上に向けて撃った光輪は注意をそらすための囮か。

「人間を無力化するなんて簡単――ただ単に痛みを与えればいいんだから。本当はもっと遊んであげたかったけれど、で吸血鬼がなにかしているみたいだから、これ以上派手に魔術を使うのは危険なのよね」

 もはや脅威にはならないということか、警戒した様子も無く女が小島の浜辺に上がってくる――小島の波打ち際の手前で空中を浮遊するのをやめたのか、女はくるぶしから下を水に濡らして湖水を蹴散らしながらパオラのそばに歩み寄り、彼女のかたわらにかがみこんだ。

「さて、どうしようかしら。あまり苦しめても可哀想だし――」 すでに抵抗する力を失った獲物を嬲りものにするつもりなのだろう、ねっとりと絡みつく様な口調でそんな戯言を口にしかけた女が、後退しながら立ち上がる。パオラが女の胸元を刺そうとしたのか、左手を突き出したからだ――だが彼女の手には、紙切れ以外なにも握られていなかった。

 術式が解けて撃剣聖典が崩れていることにさえ、気づく余裕が無かったらしい――女は再びパオラのそばにかがみこんで、ストッキングの上から彼女の左の太腿に触れた。

「強い子ねえ」

「――!」 苦痛に顔をゆがめ、悲鳴もあげられないままパオラがその場で転げ回る――同じ術を、今度は脚にかけられたらしい。更に両腕にも術を施されて、パオラは細かい痙攣を繰り返しながらその場で悶絶し始めた。

「ね、え、さん――」 リディアの声を聞きつけて、女がこちらに視線を向ける。

「ああ、貴女が妹だったの。心配しないでいいわ、苦痛で発狂するかもしれないけれど死にはしないから。激痛で死ぬのまでは、保証出来ないけど」 女がそう言って、リディアのほうを指で差し示す。次の瞬間右の太腿に激痛が走って、リディアは声もあげられないままその場で身をよじった。

 あざけりの笑みを浮かべた女が、背後の巨樹に視線を向ける――別にその視線を追ったわけではないのだが、地面の上で転げ回っているうちに寝返りをうったらしく、巨樹が視界に入ってきた。

 ……!?

 それまではきらきらと輝いていた巨樹が、変わっている――幹は黒々として無数の瘤と節穴があり、どういうわけだか濡れている。そこから伸びた枝葉はまるで生き物の様に蠢き、頭上からなにか液体がしたたり落ちてきている。

 ……節穴? 違う――頭上に広がる枝からしたたり落ちてきた液体が口の端に入って、リディアはそれがなんであるかを理解した。

 血だ。

 幻想的ですらあった巨樹の幹にある瘤は、顔だ。顔の形をして目と口の位置に節穴のある瘤だ。否、もともとは瘤であったのかどうか。

 人の顔にあまりにも似すぎた形状の大小様々な瘤の両目と口の位置に穿たれた節穴から、赤い液体が垂れているのだ――まるで血の涙と涎の様に。リディアの顔にしたたり落ちてきたのは、枝の先まで巨樹の表面をびっしりと覆い尽くす大小様々な瘤の目や口の位置にある穴から垂れてきた血だった。

 まさか、さっきまで葉から降り注いでいた粉の様なものの正体は――

 瘤のうちみっつが周りの幹と違って肌色なのに気づいて、リディアは戦慄した。

 男らしき顔がふたつ。女らしき顔がひとつ。いずれも意識は無い様だが、苦痛は感じているのか苦悶に顔をゆがめている。

「ああやって搾っているの。すぐに貴女たちもこうしてあげる」

 その言葉とともに――ざわざわと音を立てて枝葉が蠢き、パオラとリディアに向かって伸びてきた。

 ……枝葉?

 否、違う――枝の先に無数に茂る葉に見えたものは、手だった。樹皮に覆われて黒々としているが、人間のものに酷似した手だった。

 表面は樹皮に覆われているのに、指先には色こそ樹皮のそれだが爪が生えているのだ。枝の先に無数についた手が体を這い回って手足を掴み、太腿や首、腰に絡みついてふたりの体を絡め取る。

 まるで捕らえた獲物を触手を使って口に運ぶかの様に、巨樹の枝はふたりの体を幹に近づけ始めた。

 同時に巨樹の幹に変化が起こる――幹の表面の瘤の一部が蠢いたかと思うとまるで地面に敷き詰めた砂利を動かして地面の剥き出しになった場所を作る様に移動して隙間を詰め、幹に瘤に覆われていない箇所が形成されたのだ。そしてその瘤の無い箇所の樹皮がバリバリと音を立てて水平に裂け、まるで肉の襞に細かい棘が密生したかの様な内部の姿があらわになる。

 顔だけを残してあれに包み込まれるのだ。想像を絶するおぞましさに戦慄しながらも、なにも出来ない――恐怖を楽しんでいるのかふたりの体をことさらゆっくりと幹に近づけていく枝の動きが、場違いな電子音によって唐突に止まった。

 ぴっぴりぴっぴっぴっぴっぴー。三人で同じ機種を選んだ携帯電話の、プリインストールされた着信音。

「……?」

 女がかがみこんで、砂の上に落ちていた物体を拾い上げる。

 掌に収まるくらいの大きさの赤い塊。パオラの携帯電話だ。

 鳴っているのだろうか。なぜ?

 いつから――さっきからずっと鳴っていたのに気づかなかったのだろうか。

 折りたたみ式の携帯電話を適当にいじり回していた女が、パカッと携帯電話を開く。通話ボタンに指が触れたのか、液晶画面に表示されている内容が通話中のそれに変わった。

「――パオラ! 聞こえるか?」 ハンズフリーモードではないので、本当ならほとんど聞き取れないであろう小さな声。けれど、その耳慣れた声は不思議とはっきりと聞き取れた。

「パオラ!」 返事が無いことでこちらの状況が危機的であることを理解したのだろう――アルカードがどうやって電話をしているのか見当もつかないが、焦燥のにじむその声は続いてリディアの名を呼んだ。

「――リディア! どっちでもいい――聞こえてるのなら俺の名前を呼べ! どこにいようが必ず拾ってみせる! 俺を呼べ、パオラ、リディ――」 そういう設定になっているのか、扱い方がわからずにあわてていたらしい女が携帯電話を再び閉じたところで通話が切れて、それでアルカードの声は途切れた。

 聞こえているなら、自分の名を呼べ――彼はたしかにそう言った。呼びさえすれば、どこにいても見つけてみせると。

 実際にどうやって見つけるつもりでいるのかは、リディアには見当もつかない。だが――

「――アルカード!」 精一杯の声を出して、リディアは魔人の名を呼んだ。彼の言葉に間違いは無い。彼の名前を呼びさえすれば、彼はどうにかしてここに来てくれる、そんな確信を持って、リディアは金髪の魔人の名を呼んだ。

「わたしはここです! アルカード――!」

 

   †

 

「――パオラ!」 発狂寸前の激痛で自分の状況の把握すらままならぬ中、どうして彼の声が聞こえたのかは、わからない――だが金髪の魔人が彼女の名前を呼ぶ声は、乱れた意識の中でなぜかはっきりと聞き取れた。

「――リディア! どっちでもいい――聞こえてるのなら俺の名前を呼べ! どこにいようが必ず拾ってみせる! 俺を呼べ、パオラ、リディ――」 それで声が聞こえなくなった。彼を呼ばなければならない――呼びかけさえすれば、きっと彼はここに来てくれる。

 そんな確信がある。だが、激痛のあまり声が出ない。

「――アルカード!」 呼びかけたのはリディアだった。

「わたしはここです! アルカード――!」

 すぐには、なにも起こらなかった。だが困惑してこちらを見上げた女の表情に焦燥が浮かんでいるのが、ぼやけた視界の中でもはっきりとわかる――なにが起こっているのか、女には理解出来ているのだろう。

 

 次の行動を決めかねているのだろう、女は動きを見せていない――冷静に考えれば、もうあの三人もパオラとリディアも放り出して、ほかの『層』に逃れるのが最善だ。だが同時に、女もさほど余力は無いのだろう。なにしろ、ようやく自力で動ける様になって手に入れた最初と二番目の獲物なのだ。

 今あの三人を放棄すれば、この『層』から逃れることは出来ても、再び力を使い果たしてしばらく動けなくなる可能性が高い――だからもっとも合理的な行動をとることに逡巡があるのだ。

 あるいはこの領域セフィラを放棄出来ない理由でもあるのかもしれない――たとえばこの領域セフィラに女の本体があって、ここから移動させることが出来ないとか。

 だがそれでも、逃れるべきだった――そうすれば、少なくともここで死ぬことは避けられただろう。女には取るべき選択肢があったにもかかわらず、迷ったばかりにゼロになった。

 そのまま数十秒ほども経ったころか。

 唐突に落雷の様な轟音が響き渡ると同時に巨大な魔力が膨れ上がり、同時に女の悲鳴があがる――術式に対する女の魔力供給が途切れたのかそれまで意識をさいなんでいた激痛が消え、同時に自分の状況も把握出来た。

 最初に目にしたときの幻想的な姿はどこへやら、人の顔の様な形をした瘤が幹全体を覆ったグロテスクな巨木の枝に体を絡め取られているらしい。

 振りほどこうにも力が入らない――が、次の瞬間には枝がことごとくぶつ切りにされ、パオラの体は拘束から逃れて地上に向かって落下している。

 地面に叩きつけられることを覚悟してきつく目を閉じたが、その瞬間はいつまでたってもやってこなかった――代わりに力強い腕に抱き止められている。

「――よう」 目を開けると、彼女の体を横抱きにしたままアルカードが声をかけてきた。同じ様に枝葉の拘束から解放されたリディアの体を、フィオレンティーナが抱きかかえている。彼女はリディアの体を片手でかかえたまま、アルカードのそばまで移動してきた。

「大丈夫か? 見たところ怪我は無い様だが」

 気遣わしげな声がまさに救済に思えて、パオラは思わず泣き出しそうになるのをこらえながらうなずいた。返事をしようとしたが、うまく声が出ない――アルカードはそれで察したのかしゃべるなと言いたげにかぶりを振って、パオラの体をその場に降ろした。

 身体に巧く力が入らずにへたり込む様に地面に座り込んだパオラの背中を抱き支え、アルカードが女から奪い返したものらしい赤い携帯電話を彼女の膝の上に置いてくれる。彼はリディアの体を抱きかかえて近づいてきたフィオレンティーナのほうに視線を向け、

「無事か」

「はい、なんとか」 アルカードの簡潔な質問に、リディアがそう返事をする。

「ごめんなさい、面倒をかけて」

「それは別にいい」 アルカードはそう返事をして、

「こっちこそ、すまんな。捕捉するのに手間取った」

「いえ、こうして来てくれたんですから、それで十分です」 弱々しい微笑とともに返されたリディアの返事には、けれど絶対的な信頼が込められていて。全幅の信頼を込めたその言葉に小さくうなずいて、アルカードはフィオレンティーナに視線を転じた。

「お嬢さん、ふたりを頼む」 アルカードがそう言ってから、近くで立ち尽くしていた女のほうへと一歩踏み出す。攻撃を仕掛けなかったのか、仕掛けられなかったのか。

 こちら側に移動した直後に、アルカードが攻撃を加えたのだろうか。出血や外傷がある様には見えなかったが、女が苦悶に顔をゆがめながら右脇腹を手で押さえている――アルカードが少女たちと悠長に話している間に、攻撃を仕掛けてこなかったのはそれが理由だろうか。外傷は認められなかったが痛みは感じているのか、女は憎々しげに顔を顰めながら瞳の無い目でこちらを睨みつけていた。

「ひとりで戦うんですか」 フィオレンティーナの問いかけに、アルカードが肩越しにこちらを振り返る。

「あんなもん問題にもならねえよ――怖いのは動けないそこのふたりを、あれに気を取られてる間にもう一度捕まえられることだけさ」

 ――ギャァァァァアッ!

 頭の中に直接響く絶叫とともに、アルカードの指の隙間から赤黒い血が滴り落ちる――滴り落ちた血は見えない器の中に溜まっていくかの様に曲刀の形状を形作り、次の瞬間塵灰滅の剣Asher Dustに変化した。

「心配するな、しくじりゃしねえさ――しくじったらご褒美ももらえないしな」 唇をゆがめて獰猛な笑みを浮かべ――ているのだろう、アルカードの背中が纏う敵と相対したときの研ぎ澄まされた刃物の様な気配が、肌のひりつく様な殺気で満ちる。

「……どうやって、ここに――」

「そこのふたりが俺を呼ぼうとしたからな――ああ、どうせ貴様にゃわからねえだろうよ、三流魔術師が」

 女のうめき声に、アルカードがそんな返事を返す。

 それでわかった――人間は誰であれ、思考をすればわずかなりとも魔力に小さな動揺が生じる。言ってみれば脳波の様なもので、漣の様な微かな変化ではあるが、その変化は魔力の動きとして明確に表れる――人間の脳波の生理状態や感情による変化、たとえばレム睡眠状態の人間の脳波が異なる個体であってもみんな同じパターンである様に、人間の霊体に生じる漣の様な小さな動揺も、思考したり感情の変化が起こったときに起きる変化のパターンはほぼ同じなのだ。

 これは様々な魔具とその使用者を回路パスで接続した際に使用者の思考や運動を拾い出し、魔具をコントロールするために利用される――が、つまりパオラであれリディアであれ、その場にもしいたとすればフィオレンティーナ、あるいは凛や蘭であっても、アルカードの名前を呼べば――あるいは呼ぼうとすれば、その動揺のパターンはみんな一緒なのだ。

 アルカードがどうやってこちら側の魔力を探したのかまではパオラにはわからないが、アルカードはふたりに自分の名前を呼ぼうとさせることで彼の名前を呼ぼうと思考したときに生じる特定のパターンで動揺する微妙な魔力の変化を探し当て、この『層』を特定したのだ。

 だがそんな微妙な、それも異空間の変化を探し当てて場所を特定するなど、生半可な魔術師に出来ることではない。

 間違い無い――どうして精霊魔術は一切使おうとしないのかわからないが、この男の魔術師としての力量は間違い無く歴史上トップレベルだ。

「名前を呼んだだけで? そんなことが……」

「出来るとは思わなかった、か? 十分な力量があれば出来るんだよ――だからおまえは三流だっていうのさ」

 女の言葉を鼻先で笑い飛ばし、アルカードはそれまで肩に担いでいた塵灰滅の剣Asher Dustの鋒をまっすぐ女に向けた。

「場所さえわかれば簡単だ。こっちとあっちを召喚魔術でつなげて、俺たちがこっち側に召喚だけでいいんだからな」

 察するにアルカードが先ほどやったのは、異なる『層』の生物や霊体を呼び寄せて使役する召喚術の応用らしい――応用らしいということだけはわかるが、どうやったら実際にそんなことが出来るのか、パオラには見当もつかなかった。

「さて、そこの女ふたりをさっさと連れて帰ってやりたいんでな。しばらくほっといたら瘤になりそうなそこの三人も掘り出してやらなくちゃならんし――これから死ぬ奴に対魔術戦の講義なんぞしてやっても時間の無駄だ。与太話はそろそろ終わりにしよう」

 死の宣告を口にして、アルカードは手にした塵灰滅の剣Asher Dustを軽く振った。

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