Long Day Long Night 27

 

   *

 

「――ここだ」 アルカードがそう言って、ジープの駐車ブレーキのレバーを引く。

 アルカードが本条兵衛老から借りたという古い一軒家はお世辞にも真新しくて綺麗とは言えなかったが、まあ築年数の長い空き物件なので仕方が無い――つい数ヶ月前まで転勤族の借り上げ社宅として法人名義で貸し出されていた家で、事前にチェックしたアルカードが言うには雨漏りの痕跡は無いということなので、それで十分だ。

 一台ぶんのスペースがある駐車場カーポートはふさがっていて、ハウスクリーニングの業者の車が置かれている――本条家の経営する不動産屋が緊急に手配してくれたものらしく、ちょうど機材を取りに家の中から出てきた業者らしい若者が家の前に車を止めたこちらを認めて会釈する。彼はこちらに近づいてくると、アルカードが開けたサイドウィンドウから声をかけてきた。

「すんません、ここに入居予定の方っすか?」

「はい」 マリツィカがうなずくと、彼はバツが悪そうに前後逆にかぶっていた帽子を直しながら、

「すいません、まだ作業中で……夕方までにはなんとか終わらせますんで」

「否、かまわない」 軽くかぶりを振って、アルカードがそう返事をする。彼は懐から無造作に取り出した高額紙幣数枚を作業員に向けて差し出し、

「どうせまだ家具の手配もろくに出来てないから、気にしなくていい――ただ、家具を調達しないといけなくてな。扉のサイズを測らないといけないんだが、邪魔はしないから家の中を見させてもらってもかまわないか」

「あ、はい。どうぞ」 紙幣は遠慮するつもりなのか手を振る男性作業員に、

「いいから受け取っておいてくれ――無茶なスケジュールを立てさせたのはこっちだ」

「否、どうせ今仕事無くて手が空いてたんで、こうして仕事いただけるだけでも」

「人手は空いてても日程は無茶だろう――昼過ぎから夕方までに、三階建て6LDKをまともに使える状態にしなくちゃならんのだから。おまけに今俺たちがその作業を邪魔してるんだ。そのぶんの迷惑料だとでも思って、気にせず受け取ってくれ」

「は、はぁ……ありがとうございます」

 そう返事をして、作業員が受け取った紙幣を胸ポケットに入れる。アルカードはマリツィカを促して車から降りると、ドアのロックを施錠してから家に向かって歩き出した。

「ねえ、この家って賃貸なんでしょ? わたしたち通帳もカードも燃えちゃったし、お金すぐに用意出来ないんだけど」 彼について歩きながら声をかけると、

「もう支払ったから要らん」 簡潔にそう返事をして、アルカードが玄関から家の中に入る。彼は機材で床を傷つけないためか保護シートの敷かれた廊下に上がると、玄関のすぐ脇のリビングに続く扉を開けた。

「とりあえず半年ぶんを支払ってきた。それまでには、おまえの家族は全員まともな状態に戻るだろう――とりあえずは明日から三日くらいを使って、この家を使える状態にしよう。あとのことはそれから考えればいい」

「全員……って、うちの父さんは――」 もう意識が戻らないかも――最悪の想像を口にしかけたマリツィカの唇に、振り返ったアルカードがまっすぐ伸ばした指先が触れる。

「心配はいらん――彼は必ず全快する。俺がそうしたからだ――時間はかかるがな」 そう告げてから指を引っ込め、アルカードはここに来る途中でコンビニで調達したメジャーをポケットから取り出した。

「さあ、とりあえずは開口部のサイズを測ってしまおうか――でないと家電品のサイズも決められないしな」

 

   *

 

 しばらく進むと剥落した岩盤は途切れ、その先は濡れた岩の地面になっていた――岩の質が浸蝕を受けやすいのか地面の一部が深く浸蝕されて川、というか沢状になり、そのまま奥へと続いている。その一方でアルカードの言った通り地面を流れていた水はすべてそこに流れ込んで、地面は濡れてはいるものの冠水はしておらず、靴に水が入る様なことは無い。

 そこまで来る途中に比べるとかなり広くなっており、それまでの様に少女たちの体格でもかがんだりしなければならない様なことは無くなった。

「ずいぶんと曲がりくねってるんですね――浸蝕洞ってこういうものなんですか」

「さてな――ただ九年前まで、ここはある悪神の棲み処だったんだ」 リディアの感想に、アルカードがそんな返答を口にする。

「あ、海鬼神のことですか」 パオラがそう返事をすると、アルカードは肩越しにこちらを振り返り、

「誰から聞いたんだ?」 自分で話したことは無かったからだろう、アルカードがそう尋ね返してくる。別段機嫌を損ねているというわけではなく、ただ不明な点を確認するだけといった淡々とした口調だった。

「名前だけですけど、アンさんたちから」 フィオレンティーナの返答に、アルカードは小さくうなずいた。

「そうか――そうだ、その海鬼神が巣食っていた。曲がりなりにも神を自称する力を持つ海妖が巣食っていた場所だ、自然だけで形成されたものとも考えにくい」

 それは確かにそうだ――まるでヤドカリの様に、鬼神や魔神が自然に存在していた場所を手を加えずにそのまま棲家にしていたとも考えにくい。

 先程通り過ぎたが、空間が広くなり始めてすぐのところに一ヶ所だけ左側の壁を構成する岩盤が崩落した場所があった。

 かつては厚みが数メートルもある分厚い岩盤によって隔離されていただろう内部を覗くと、こちら側同様に海水の浸蝕によって形成された空間だったが、こちら側よりはるかに広く天井も高かった。自然の海水による浸蝕では、絶対にあんなふうにはなるまい。

 ――

 おそらくそこがアルカードが以前殺したという、海鬼神の棲家だったのだろう。

「この洞窟の近隣はもともと、ここに棲みついていた海鬼神の餌場だった――観光資源として使われ始めたのは奴が死んだあとだ。それまでは、この洞窟は近づくと神隠しが起こるからと地元の人間は極力近づかなかった」

「神隠しってなんですか」

「前触れ無く人が行方不明になることだ――昔の日本人は、それを神様が連れ去ったという意味で神隠しと呼んでいた」

 そう言って、アルカードが足を止める。沢の中を覗き込んで小さな固有種の魚が泳いでいるのを見てはしゃいでいる子供たちに目を細め、

「あの空洞――地面に穴が開いていただろう」

 アルカードの言葉に、フィオレンティーナはうなずいた。先ほどの巨大な空洞、こちら側よりも比較的低い位置にある地面に大きな穴が穿たれて、その穴が海とつながっているのか水が満ちていた。

「あの穴は海底洞窟を通じて、この先の入り江につながっている。海鬼神はあそこから触手を伸ばして、洞窟の近辺に近寄るものを引きずり込んでは食糧にしてたんだ――この浸蝕洞に一定の距離まで近づくと、海鬼神に操られて洞窟に引き寄せられ、いったん海底洞窟を通してあの空洞の中に取り込まれていた」 当時のことを思い出しているのか、アルカードの口調が少し険しくなっている。

「一応、島の言い伝えの様なものはあったらしい――危険だからこの近隣には近づくなとな。この浸蝕洞に地上から接近出来る入口が出来たのが正確にいつなのか、それはわからない――言い伝え自体は島の記録とともに四百年以上前からあったらしいが、その当時の記録には浸蝕洞に入口があった記録は無いそうだ。この島のもともとの土着の住民で一番高齢なのは今年百三歳の爺さんだが、島の住民は長い間浸蝕洞の近辺には近づくなと言い含められて育ってきたらしい――具体的にどの程度の距離まで近づいたら危険なのか、それは彼らにはわからないから、近づきすぎた人間が時折行方不明になってたそうだがな」

 そこでアルカードがフラッシュライトで足元を照らし、そこが滑り易いと警告を発する。アルカードはいったん足を止めてその場所をしばらく照らし続け、少女たちが全員危険個所を通過したところでライトをしまい込んだ。

「地元の人間は絶対に近寄らない場所だったんだが、そこにあまりこの島に詳しくない観光客や、地元民の身内ではあるがこの島に住んでないから事情に詳しくない者たちが近づいた」 当時のことを思い出しているのかアルカードの気配が尖り、口調が険しくなっている――彼は周囲に視線を走らせながら、

「それが当時一歳半の蘭ちゃんとデルチャやマリツィカ、それにほかにも帰省してきた近隣住民の家族たちだ――それに彼らを探すために浸蝕洞に近づきすぎて海鬼神に操られた島の住民たち」 アルカードがそう続ける。彼は言葉を選んでいるのか少し考えて、

「そのとき俺は一緒に行動してなかったから初動が遅れてな。もう少しで彼らが餌になるところだった」

 彼はそう言ってから、

「すまん、もうこの話は終わりにしよう――せっかく旅行に来てるのに、こんな話ばかりしてても仕方無い」 彼はそう言ってから、沢を覗き込んでいる子供たちの横でかがみこんだ。

「いえ、その――貴方が今海鬼神のことを考えてるのは、わかります」 リディアがそう返事をする――つまるところ、彼は今、海鬼神の復活の可能性を懸念しているのだろう。

 アルカードは子供たちの求めに応じて再び取り出したフラッシュライトで水中を照らしてやりながら、軽くかぶりを振った。

「否、海鬼神そのものはもう復活の可能性は無いと思う――端末だけでなくアウゴエイデスも完全に破壊してやったからな」 彼はそう言ってから、言葉を選んでいるのかちょっと考え込んだ。

「ただ、海鬼神以外の魔物がここにいないという保証も無い――海鬼神が生きてる間は奴に搾取されてたいしたことも出来なかったんだろうが、奴が死んでから力を取り戻し始めたのかもしれん」 あるいは先住の魔物がいなくなったところに入ってきた新参の魔物か――そう続けて、アルカードは言葉を切った。

 アルカードの話では、この洞窟は一本道で往路と復路の区別は無い――奥で船に乗って外に出ることは出来ないので、最奥部まで到達したら元来た道を引き返して外に出なければならない。

 つまり、島側から洞窟に入ったのなら、島側から外に出るしかない。だというのに――もうだいぶ奥に来たのに、二時間前に入ったという三人の客の姿も痕跡も無い。

 アルカードがリディアの言葉に返事をしないまま、ちょっとだけ唇をゆがめる。彼は蘭と凛が立ち上がるのを待って、再び奥へと進み始めた。

 奥へ進むにつれて洞窟は再び狭くなり始め、そのせいでか肌を撫でる潮風はだいぶ強くなってくる。洞窟の通路の半分を沢が占める様な状況に至って、フィオレンティーナは思いついたことを口にした。

「その先に来たお客さんが、この川に落ちて怪我をしてるっていうことは無いでしょうか」

「たぶん無いと思うよ――この川、これ以上そんなに深くも広くもならないから」

 川の幅は一メートル強、そして水深は約五十センチ。壁から染み出してくる水で水量がどんどん増えているために最初に川になったころに比べるとかなり流れは速いが、足をとられて転倒することはあっても流されるほどの深さでも速さでもない。

「それに、三人全員がそうなったとも考えにくいしな」 そう言ってから、アルカードが足を止める。その先は大きく曲がっていて、奥の様子が窺えない。

 ただ、終着点は近いのだろう――向こうから潮風とともに、バシャバシャという波が岸壁に当たって砕ける音が聞こえてきている。

「さ、この先が終点だ」 アルカードがそう言って、先に進む様に手で促す。蘭と凛に手を引っ張られて、フィオレンティーナは彼女たちに続いて奥へと進んだ。

「わぁ……!」

 あとからついてきたパオラが、小さく歓声をあげた――海側の出入口のほうから差し込んだ光が海底に反射して、洞窟内部の入り江を満たす海面を真っ青に染め上げている。

 入り江は岸壁の部分にアンカーとチェーンで転落防止用の柵が作られ、その手前まで青く染まった水で満ちていた。

 まるで入口の部分が光っている様に見え、照明のほとんどない暗闇の中で青と黒のコントラストが美しい。波打ちたゆたう海面はそのたびに濃淡が変化し、まるで無数の宝石が波打っているかの様だった。

「素敵ですね」

「でしょー」

 少女たちの反応がうれしいのか、蘭と凛がにこにこ笑いながらそう答える。

「イタリアにもあるの、こういうの?」

「あるよ――そのうちあっちに遊びに来てくれたら、そのときは一緒に行こうね」 蘭の質問に、リディアがそう返事を返した。

 全体の八割超がにこやかな雰囲気に包まれている中で、アルカードだけがただひとり固い表情を浮かべている。それに気づいて、フィオレンティーナは彼に視線を向けた。

「どうかしました?」

「おかしい」 アルカードがこちらに視線を向けないまま、そう返事を返してくる。

「この洞窟はここが最奥部だ――さっきも言ったが、今来たルート以外の出口は無い。先に入ったという、先客三人はどこだ?」

 高度視覚を使って周囲の状況を検索しているのか、吸血鬼の瞳が暗闇の中で金色に輝いている――アルカードは岸壁に歩み寄って地面に膝を突くと、左手を水面に近づけた。

 といっても、ただひざまずいただけなので指先は到底水面に届かない。

 見ているとアルカードの左手の指先が形を崩し、まるで金属の質感を持つ粘土の様な状態に変化した。左手の手首から先だけがまるで水銀の塊の様になり、そのままどろりと水中に向かってしたたり落ちている。まるで糸を引く粘液の様に落下していった水銀の塊が、ぽちゃんという水音を立てて水中に沈む。

 なにをしているのかと聞こうとして、やめる――夢で見たアルカードの記憶が正しければ、アルカードの左腕を形成する憤怒の火星Mars of Wrathは表面から超音波を放射して、その反射によって音響反響定位を行う機能を持っている。を使って、水中に転落していないかを調べているのだろう。

 やがて探査が終わったのか、アルカードはすぐに左腕を水中から引き戻した。まるで不格好な粘土細工の様に膨れ上がった左腕が、徐々に収縮して元の形状を取り戻してゆく。完全に元に戻るより早く、アルカードはピッピッと手首を振って左手についた水滴を振り払った。

「どうでした?」

「誰もいない。少なくともそこの出入口から外に出てから半径五キロ以内の海底に、人間の死体は沈んでない」 アルカードはそう答えて、フィオレンティーナに向かってなにか放って寄越した。

 反射的に受け止めると、海水で濡れたプラチナの結婚指輪だと知れた――台座に填め込まれたダイヤモンドが、足元を照らす弱々しい照明の光でオレンジ色に輝いている。

「あったのはそれだけだ」

「ちょっと、どうするんですかこんなもの」

「あとで駐在さんのところにでも持っていくか――どうせ持ち主なんぞとっくに帰ってるだろうし、もらってもいいだろうが」 そこらへんはあまり気にしないたちなのか適当に肩をすくめ、売れば旨いもん食えるぞ、と続けてくる。

「それじゃねこばばじゃないですか」

「じゃあ駐在所に持っていこう――もしかしたら先客は若気の至りで入り江から泳いで外に出て、とっくに陸に上がってるのかもしれないしな」 そう答えて、アルカードはフィオレンティーナの手の中から指輪を取り上げた。それをポケットに入れながら歩き出したアルカードのあとを追い、歩き出しかけて――

「ついてこなくていいぞ。羽場さんに電話するだけだか――」 だけだから、と言いかけたところでアルカードが言葉を切る。振り返った彼は、フィオレンティーナの肩越しに彼女の背後を凝視していた。

「どうしたんで――」 言いながら背後を振り返ると、驚きで目をまん丸にしている蘭と目が合った。蘭だけではない、凛も呆然としてそれまでパオラとリディアがいたであろう場所を見つめている。それまでふたりがいたであろう場所には、なにも残っていなかった――否、パオラの靴の片方だけが、冗談の様に地面の上に残っていた。

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