Long Day Long Night 26

 

   *

 

 貸してもらった駐車場にジープを止めて、駐車場から外に出る――ちょうど横手から歩いてきたカップルが、こちらの姿に気づいて表情を引き攣らせた。失礼な反応をする連中だと思いながら視線を向けたところで、思い出す――いつだったかそこの公園で猫を砂場に埋めて石を投げつけて遊んでいた出来損ないのガキどもを締めたときに、見て見ぬふりをしていた腰抜けどもだ。

 侮蔑をこめて唇をゆがめ、反対側の歩道に渡ろうとして赤信号だったので足を止める――青信号に変わったのを確認して、アルカードは左右に視線を投げてから歩き始めた。普通の人間であればそうするはずだからだ。

 本条兵衛の屋敷は、駐車場から道路をはさんで向かい側にある日本家屋だ――しばらく歩いて門の前にたどり着くと、アルカードは足を止めた。

 呼び鈴のボタンを押すと、家の中で人の気配が動き出すのがわかった――さて、自己紹介どうしよう。ご老人が自分で出てくれれば、説明が省けて楽でいいのだが。

 そんなことを考えながらそのまましばらく待っていると、魚眼レンズのついたインターフォンのスピーカーから若い女性の声が聞こえてきた。

「はい。どちら様でしょうか?」

「休日に失礼――アルカード・ドラゴスといいます。先日焼け出された洋食屋のアレクサンドル・チャウシェスクの甥でして」 マリツィカが行き当たりばったりで決めたらしい設定をそのまま拝借することにして、アルカードは続けた。

「本条兵衛さんのご自宅は、こちらでよろしいのかな」

「はい」

「今、ご在宅で?」

「はい、祖父はおりますよ――ちょっと待ってください」 五分くらいたったところで門が開き、十代後半のあどけなさを残した女性が顔を出した。

「お待たせしました。祖父が会うそうです、どうぞ中に」 招じ入れられるままに、邸宅に足を踏み入れる――前庭は見事な日本庭園で、玄関へ向かう飛び石を中心にして池や添水、枯山水がちょうど対称になる様に配置されている。右手にある池を、左手では枯山水がそっくり再現しているのだ。

「いい庭だね」 そう言うと、女性はこちらを振り返ってうれしげに笑った。

「この庭、戦前から残ってるんですよ」

「というと、半世紀前から?」

「はい。アメリカ軍の空襲も、なんとか被害を免れたらしくて。近くにある神社なんかは、集中的に焼夷弾を落とされて焼き払われたらしいですけど」

「ジンジャ? ああ、宗教施設だね」

「はい。そこの交差点をこっちからだと右折した先の山の上にあるんです。戦時中は民間人が避難してたらしいですけど、空からだと丸見えだったせいで焼夷弾を落とされたらしくて」 

「ほう」 そこで玄関までたどり着く――女性が玄関の引き戸を開けて、道を譲ってくれる。

「どうぞ」

「失礼」 そう声をかけて玄関をくぐると、ちょうど廊下の奥から姿を見せた本条兵衛がどかどかと足音を立てて近づいてきた。

「やあ、ご老人――突然押し掛けて申し訳ありません」

「いやいや兄さん、よく来た――爺さんたちの様子はどうだい」

「叔父に関しては、まだなんとも――命に別条が無さそうなのは確かですが」

「そうか――と、まあ立ち話もなんだ、上がっておくれ。美咲、お茶の用意を頼むよ」

「はい、お祖父様」 いかにも育ちのよさそうな品のあるお辞儀をしてから、美咲と呼ばれた女性が廊下を歩いてゆく。それを見送って、兵衛は前庭に面した縁側にアルカードを招じ入れた。

 枯山水を臨む縁側に並んで腰を下ろし、

「爺さんは助かりそうなんだって?」

「一応は。おそらく後遺症は残らないでしょう」 庭の松の木の枝で羽を休めている雀を眺めながらそう返事をすると、

「そいつは、一流スパイの見立てかね」

 別にスパイじゃないんですけど。訂正する気も起きずに、アルカードは小さく息を吐いた。

「そんなところです」

「どうぞ」

 控え目に声をかけて玉露と茶菓子を置いていった女性を見送ってから、アルカードは老人に視線を戻した。

「それで、どうしたんだね? 爺さんが無事なのは結構なことだがな、それを知らせるためにわざわざ訪ねてきてくれたわけでもないんだろう?」 老人の問いかけに、アルカードは居住まいを正した。

「彼らの生活の再建について、少し相談に乗っていただきたいことがありまして」

 

   *

 

 スニーカーの爪先が足元に落ちていた小石を蹴飛ばして、からからと音を立てる。大小様々な大きさの岩で出来た足場の隙間に落ちていった小石が、落ちていった先に水が流れているのかぽちゃんという音を立てた。

 アルカードの言うとおり洞窟の内部は全体に湿っており、足場になる岩の表面は濡れていて滑りやすい――足元がかろうじて見える程度には照明が燈されてはいるものの、雰囲気を壊さないためか数は多くない。ワット数の小さな白熱電球のオレンジ色の光が、そこかしこで濡れた岩に照り返されている。足場は悪いものの壁にはアンカーが撃ち込まれて鎖が張りめぐらされ、移動のときにそれに掴まることが出来るので言うほどの不自由は感じない。

 空気はひんやりと冷たく湿って、奥で海に通じているからだろう、内部は風が吹いている。足元はごつごつした岩で、お世辞にも平坦で歩きやすいとは言い難い――アルカードの説明によれば、もともとは海蝕洞だったものが地盤の隆起によって持ち上がり、その際の岩盤の破壊によって島側にも入り口が出来たものなのだそうだ。

 たしかに島側の出入り口は折れた岩盤が、ちょうど『入』の漢字の様に一方が一方に自重を委託して支えあう様な形になっていた。おそらくその際に岩盤から剥離して落下した岩で構成されているからだろう、足場は岩の塊がいくつも組み合わさって出来たものだ。壁も同様に大小様々な岩塊が積み上がって出来たもので、頭上には岩の剥がれた痕跡が今でも残っている。それらの足場の下、この洞窟内の本当の地面には水が流れているのか、ちょろちょろという音が聞こえていた。

 大きく開いているのは入り口だけで、内部は狭いところでは小柄な女性でもすれ違うのに苦労しそうなほどに狭い。少し進むと、壁になっている岩の隙間から水が流れ出しているのがわかった。

「それは湧き水だ」 フィオレンティーナの注意が向いているのに気づいてか、アルカードがそう言ってくる。

「でも海に近いせいで山が蓄えた水と、海辺の土や砂に染み込んで毛細管現象で吸い上げられた海水が混じってるから、飲めない――水質が独特なのか、固有種の魚がこの岩の隙間の水の中にいる」

「へえ」 パオラがそう返事をして、物珍しげに岩の隙間を覗き込む。携帯電話についているカメラ用のライトでは満足がいかなかったらしくあきらめかけたパオラに、アルカードがどこから取り出したのかフラッシュライトを差し出した。

「ありがとうございます」 燈体の周囲にステンレス製のスパイクがついた、明らかに格闘戦用の武器であることを窺わせる物騒な形状のフラッシュライトだ――が、パオラは気にせずに差し出されたライトを受け取って、岩の隙間から洞窟の地面を照らし出した。

 子供たちとリディアも一緒に岩の隙間を覗き込むと、たしかに水深五センチくらいの水の流れの中でメダカくらいの大きさの黒い体色の魚が泳いでいるのがわかる。

「ほかにはコウモリもいる――ここにいるコウモリは虫を主食にしてて、洞窟の外だけでなく洞窟内部でも狩りを行う。そのためだろうな、この洞窟の中にはゴキブリの様な昆虫のたぐいがいない」

 アルカードはそう言ってから、天井に近い岩の裂け目を指差した。

「ライトで照らすなよ――あそこの裂け目にコウモリが営巣してる」 照明の白熱電球の光がかろうじて届く暗い裂け目の中に、たしかになにかが蠢いているのが見える。

「と言っても、この洞窟に人の手が入ったのはここ七、八年の間のことだ――バット・グアノの供給源になったりといった、歴史的なエピソードは無い」

「バット・グアノ?」

蝙蝠のバットグアノだ」 リディアの質問に、アルカードがそう答える。

「そもそもグアノってなんですか」 パオラがそう尋ねると、アルカードは首をすくめて、

「グアノはあれだ、化石化した海鳥の死骸や糞の塊のことだよ」

 グアノというのはもともとは『糞』を意味するケチュア語を語源とする英語で、いわゆる燐資源のひとつだ――海鳥の死体や糞、餌の魚の死骸や卵殻等が数千年から数万年にわたって堆積して化石化したもので、燐などの成分を豊富に含有するため化学肥料の原料として利用される。かつて領有する島嶼部に莫大な量のグアノを有したペルーでは大量に採掘され、それが欧州に輸出されて好景気と社会的なインフラの発展をもたらした。しかしすぐに資源が枯渇して好景気は一時的なものに終わり、経済の破綻を招くこととなった。

 バット・グアノというのは海鳥ではなく蝙蝠の営巣地に堆積したコウモリの糞や死骸等が堆積して化石化したもので、同じく燐資源として利用されてきたらしい――産出量がさほどないため、現代では観葉植物や自家菜園用の肥料に用いられている。

「グアノからは硝石が抽出出来るから、これと木炭と硫黄を混合することで黒色火薬を作ることが出来る――個体数があまりいないから日本ではバット・グアノはほとんど利用されなかったが、東南アジアでは大量のバット・グアノを利用して硝石を抽出してた」

 そんなアルカードの説明を聞きながら、フィオレンティーナは目を眇めた。カーミラに噛まれる前に比べてかなり夜目が利く様になっており、フィオレンティーナには洞窟の天井からぶら下がっているコウモリの群れの様子がはっきりと見て取れる。

「しょうせきってなあに?」 蘭の質問に、アルカードがそちらに視線を向ける。

「硝酸化合物――どう言えばいいかな、肥料とか昔使われてた火薬の原料だね(※)」

 そう答えてからアルカードは話題を戻すことにしたのかちょっと考えて、

「ここのコウモリは目が完全に退化していて、視力は持たない――人間が瞼を閉じた状態でも周りが明るいか暗いかを判別出来る様に、多少の光の感受性は残ってるそうだが。あまりないが光を浴びせたりして刺激すると襲ってくる可能性があるから、ライトで照らすのは避けたほうがいい」

 それで説明を終えて、アルカードはパオラが返したフラッシュライトを受け取って歩き始めた。

「余談だがな、大型のコウモリの仲間のほとんどは音響反響定位の能力を持ってない――代わりに視力が発達していて、普通に視力に頼って飛行する」 アルカードはそう言ってから一度足元を指差して、手にしたフラッシュライトで岩の隙間から地面を照らした。

「そこに気をつけてな」

「はい」

 アルカードがその後もしばらく洞窟についての説明を続け、固有種の魚二種類とカエルがいるという話をしてから言葉を切った。

「雰囲気のあるところですね――このまま進んだ先に、地底湖とかがあったら最高なんですけど」 というパオラの感想に、

「その地底湖に巨木とかが生えてたりしたらな――残念ながら、ここには地底湖は無いな」 アルカードがそんな返事をして、周囲の光景を視線で撫でる――先程のトバという老人に頼まれたことが頭にあるからか、アルカード自身は先客を探すことに気を配っているらしい。

「まあそうは言っても、この奥にある入江も悪くはないぜ」 そう言ってから、アルカードは足元の岩の隙間に視線を落とした。特に誰も落ちていないことだけ確認してから適当に肩をすくめ、

「もう少し奥まで進むと、足場の岩が無くなる――そっち側は地面の隆起の際に岩盤が破壊されてないからだ。そこまで行くと水の流れがまとまって川になってるから足を濡らすことは無いが、ただ滑りやすいのには変わりないから気をつけてな」


※……

 現代では肥料の原料や食品加工用に用いられることが多い硝酸塩ですが、当時は黒色火薬の原料として必須のものだったため、硫黄と並ぶ極めて重要な戦略物資のひとつでした。硝石は水溶性のために日本の様な雨の多い環境では天然で産出することは無く、そのため人畜の排泄物由来の硝石の抽出法が試みられてきました。

 そのうちのひとつが漫画ドリフターズでも用いられていた便所の土から抽出する『古土法』で、これは北西ヨーロッパでも行われていました。フランスには硝石採取人と呼ばれる職業があり、国王から国中のあらゆる家に立ち入って床下の土を掘るという特権が与えられていたそうです。

 日本では古土法のほか加賀や飛騨などで培養法と呼ばれる蚕の糞や石灰屑などから硝石を得る方法、ヨモギに尿をかけて吸収させ、ヨモギの根から硝石を得る方法などが考案されていました。古土法ですが、織田信長よりも石川本願寺が豊富に硝石を得ていた様です。

 硝石丘はヨーロッパで考案されたもので、織田信長がドリフターズ作中で行っていたものは人間の死体が加わっているぶん独自色が強いです。腹を裂いて内臓を引きずり出しておくとより効果的でしょうが、気候によっては雨よけが必要になります。先述したとおり硝酸カリウムは水溶性で、雨が多かったり水が流れている環境では容易に溶出してしまいます。温暖湿潤気候の日本で天然の硝石鉱床が存在しないのも、このためです。

 東南アジアでは伝統的な高床式住居の下で家畜を飼っていたため家の下の地面から硝石を抽出していたほか、前述したバット・グアノからの抽出も行われていた様です。

 現代の主流になっている無煙火薬は硝石を必要としないため、硝酸塩を抽出する技術はすでに無用のものになっています。

 ちなみに現代における硝酸塩の使い道としては前述のとおり燐を豊富に含むため肥料として用いられるほか、燻製の塩漬えんしの際に添加してボツリヌス菌の働きを抑制する、防腐剤の一種として用いられています。

 ハムやベーコン、ソーセージの原材料欄にある硝酸●●●がそれで、これを添加された肉はピンク色に発色します。そのため発色剤と書かれていることもあります。

 無塩せきと書かれている製品はこれらの硝酸化合物を添加剤として用いていないことを示しており、塩漬が行われていないということではありません。また、硝酸化合物は肉中に含まれるアミンと結合して強力な毒性を持つ発癌性物質であるニトロソアミンを生成するため、食品添加物としては危険な部類に属します。

 ただし硝酸化合物自体は肥料として使われていることからもわかるとおり野菜などの含有物質としても体内に蓄積され、それ自体は特に人体に影響はありません。燻製の添加物として取り込まれた以外の硝酸化合物も人体の内部でニトロソアミンに変わるため、摂取経路が違うだけで硝酸化合物の体内への取り込みを避けることは出来ない様です。このため、無塩せきの燻製ばかりを食べていれば絶対大丈夫というわけでもないみたいですね。摂取量を減らすことは出来るでしょうけど。

 なお、ソーセージの本場ドイツではボツリヌス菌による食中毒を防ぐために添加が義務づけられています。

 また硝酸化合物の摂取とそれによる健康被害に関しては、JECFA(FAO/WHO合同食品添加物専門家会議)は人体実験による確証が得られていないとしており、現状ではコメントを差し控える立場にある様です。否、まあ人体実験したから大丈夫大丈夫!ってどーどーと言われても、それはそれで困るけどさ……

 なお硝酸塩の1日許容摂取量(農林水産省)のADIに関する記事でも、実験動物に癌発生は認められていないとのことです。

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