Long Day Long Night 16

 とりあえず旅行鞄を鋼管の下に置いて、フィオレンティーナは残る四人に続いて客室に足を踏み入れた。彼女と入れ替わりに、なにか用事が出来たのかパオラが和室から出ていく。

 床は先日の神城邸や鳥勢で見かけた草のマット――畳と同じもので、フィオレンティーナの目分量が正しければ一枚一枚のサイズが若干大きい様に見えた。

 壁際にテレビと冷蔵庫、貴重品を保管しておくためのものか金庫も置いてある。窓際は板間になっていて、外を眺めながらくつろぐためのものか椅子と卓が置かれていた。窓自体は和室には似つかわしくないかなり大きなもので、先程のエレベーター前と同様内側に湾曲した弧を描く砂浜の様子が一望出来る。部屋の中央にはテーブルが置いてあり、小さな籠の中にお菓子がいくつか入っていた。

「いい眺めですね」 窓際から眼下の光景を見下ろして、リディアがそんな感想を口にする。

「海水浴に炭坑跡めぐりに、小さな島だけど行くところは結構あるわよ――海水浴以外でも、退屈はしないと思う」 水中洞窟もあるってアルカードが言ってたけど――アンがそんなふうなことを付け加えてくる。

「水中洞窟? アンさんも行ったことがあるんですか?」 フィオレンティーナが尋ねると、アンはエレオノーラと顔を見合わせてかぶりを振った。

「水中洞窟は行ったことが無いわね――アルカードが言ってたのを聞いただけだから」

「アルカードが?」 と、これはリディアである。

「変ですね――アルカードは前に、海で泳ぐのはしないって言ってましたけど」 聞いたことの無いことを口にして、リディアは旅行鞄を壁際の板間に置いた。フィオレンティーナがそちらに視線を向けるのとほぼ同じタイミングで、

「それ、海水浴はしないってだけよ――泳ぐのは得意だって言ってたし、洞窟の話は海鬼神を殺しに行ったときらしいし」 エレオノーラが窓際の椅子に腰を落ち着けて、そんな言葉を口にする。

「うみきしん?」 耳慣れない言葉に聞き返すと、エレオノーラは知らないの?と意外そうな声を出した。期間こそ短いものの同じ聖堂騎士団関係者ということもあって、自分たちよりもずっとつきあいの密度が濃いと思っていたのだろう。

 ある意味間違ってはいないが、なにもかも知ることが出来るほど深いつきあいでもない。

「報告はしてないんだ」 というコメントからすると、アルカードが自分で話したという意味ではなく聖堂騎士団に報告しておらず、その記録をフィオレンティーナたちが閲覧していないのか、という意味だったらしい――正規の聖堂騎士団員ではないアルカードが一から十まで報告をするとも思えないし、仮に報告されていたとしても来日前のフィオレンティーナには秘匿されていただろう。

 なにしろ吸血鬼アルカードと聖堂騎士団の教師ヴィルトール・ドラゴスは公式にはなんの関係も無く、当然アルカードと聖堂騎士団の共闘関係も秘匿されていたのだから。

 とにかく三人の聖堂騎士たちが誰も海鬼神のことを知らないのがわかったからだろう、エレオノーラが口を開いた。

「何百年も前からこの島に棲みついてた悪神だって――何年か前にアルカードがはじめてこの島に来たときに、殺したって言ってた」 本人もあまり詳しいことは知らないのだろう、首をかしげながらエレオノーラが返事をしてくる。アンのほうもあまり関心を払っている様子ではないところをみると、彼女もあまり詳しい事情は知らないらしい。

 フィオレンティーナはうなずいてから、

「アルカードは泳ぐの、嫌いなんですか」

「そうじゃないみたい」

「わたしも詳しくは知らないんだけどね――ここ何年か一緒に来たとき、泳いでるところは見たこと無いわ」口をはさんだリディアに視線を投げながら、アンが返事を返す。

 ずーっと荷物番、とエレオノーラがアンの返事に付け加える――それはまたずいぶんと可哀想な気がしないでもないが。

「でも蘭ちゃんと凛ちゃんを市民プールに連れ出したときは蘭ちゃんにクロールを教えてたらしいから、泳げないわけじゃないわよね」

「ね――少なくともカナヅチじゃないよね」 言葉を交わして納得しあってから、年長の女性ふたりはそろってリディアに視線を向けた。

「リディアちゃんは知ってるの?」 アンの質問に、リディアがうなずいた。

「こないだ病院に車で連れてってもらったときに、聞かせてくれました。海水に浸かると、左腕の質感を擬態する機能が正しく働かなくなるんだって」

「ああ、それ例の左腕の話?」 と聞き返してくるということは、エレオノーラも彼の左腕のことは知っているのだろう。

「はい」

「質感擬態、ですか――」

 つまりは憤怒の火星Mars of Wrathの話なのだろうが――質感擬態が機能しなくなる?

 アルカードの左腕に義肢代わりとして接合された魔術兵装憤怒の火星Mars of Wrath――正確にどこまでが彼の肉体で、どこからが義肢なのかは知らないが――は、自在に流動する水銀の塊で出来た腕の表面に人間の皮膚の質感を再現することで、彼の生来の左腕に擬態している。

 質感を擬態する機能が働くなるというのはつまり、擬態した左腕の外装が人間の皮膚の質感を再現出来なくなるということだろうか。

 なるほど、この考えが正しければ彼の左腕は海水で濡れると、いつぞや実演デモを見せた狗狼態のそこだけが犬の前肢の形状を保ちつつも色や質感は再現出来ていなかった左前肢の様に、義肢としての機能は保ちつつも外観が水銀の塊に戻ってしまうということか。たしかに周りに人目のある海水浴場では泳げないだろう。

「質感擬態っていうのはよくわからないけど、つまりあの左腕がうまく偽装出来なくなるってことかしらね」

 アン、知ってる?というエレオノーラの問いに、アンがかぶりを振ったところで、パオラが再び部屋に入ってきた。

 

   *

 

 すでに就寝時間だからだろう、照明を落とされた入院病棟の廊下を歩いていると自分の足音が妙に大きく響く。リノリウムの床に真新しいビブラムの靴底ソールがこすれてキュッキュッとうるさかったので、アルカードは少し歩調を落として歩き方も変えた。

 十三号室はエレベーターからだと割と離れたところにあるらしく、少し歩かなければならない――無論健常のアルカードにとってはなんの問題も無いが。

「――あれ、ドラゴスさんですか?」 背後から声を掛けられて振り返ると、視線の先に羆の脱走の件で車に乗せたことのあるマリツィカの友人のひとりが立っていた。たしか名前はシズカ・フルタニだ。パジャマを着ているので入院しているのだろうが、手術後という様子でもない――ちょうど通り過ぎた病室の中から、廊下に出てきたところだったらしい。

「やあ」 そう返事をすると、少女はこちらに近づいてきて、

「ドラゴスさんは大丈夫だったんですか? マリと紗希から火事で焼け出されたって聞いたんですけど」

「とりあえずはね――俺とマリツィカは現場に居合わせてなかったから」 アルカードはそう返事をして、彼女を促して元来た道を戻り始めた。おとなしくついてきた彼女にエレベーター前のロビーの椅子を勧め、

「なにか飲み物は?」 壁際の自販機に視線を向けてそう尋ねると、静はかぶりを振った。

「いえ、結構です」

「そうか」 アルカードは彼女の言葉にうなずいて、隣の席に腰を下ろした。

「ドラゴスさんはどうしてここに?」

「マリツィカたちの様子を見に来たんだ」 でももう寝てるかな――面会の時間じゃないですよね?という静の問いにアルカードはそう答えてから、

「君はどうして? その格好、君も面会じゃないんだろう」

「わたしですか? その、盲腸炎で入院してるんです」 ちょっと顔を赤らめて、静がそう返事をする。

「手術はしてないんですけど、投薬治療の経過観察で」

「そうか」 ところどころ英単語を交えながら説明してくる静に、アルカードは小さくうなずいた――日常会話において一般的でない日本語を英語に直して説明してくれるのは、日本語に慣れていないアルカードには助かる。投薬治療など日本語で言われても、アルカードの日本語の会話能力では理解出来なかっただろう。

「そういえばそうだった。昼間マリツィカともうひとりの子にあったときに、そんな話をしてたな――見舞いの帰りだとかなんとか」

「はい」

「まあたいしたことはなさそうでなによりだ。ところで――マリツィカとは話したのか? 彼女の様子はどうだった?」

「ショックは受けてるみたいですけど、お父さんも命に別条は無いみたいで落ち着いたみたいです」

「そうか」 うなずいて、アルカードは自販機に視線を向けた。ブーンというコンプレッサーの唸り音を立てている自販機に視線を据えて、

「彼らのことをどうかよろしく頼む――俺はたぶん、ほとんど役に立ってやれない」

 隣に腰を下ろした静が、無言のままこちらに視線を向けるのがわかる――

「金銭的なフォローならしてやれるだろう――だが俺に出来るのはそれくらいだからな」

 もの問いたげな様子の静に曖昧に笑いかけてから、アルカードは席を立った。

「さて、つきあわせてすまなかったね――俺はちょっと彼らの様子だけ見てから、駐車場したへ降りるよ」

「あ、はい――ドラゴスさんは今夜はどこで寝るんですか?」

「知っての通り焼け出されたからね。車中泊でもしようかと思う――女性ばかりの病室に、一緒に泊まりたくはないからね」 その返答に静がちょっと首をかしげて、

「そうなんですか?」

「ああ、きっとものすごく居心地が悪いよ――この感覚は、多分女性には理解してもらえないだろうがね」

 その返事にくすくす笑いながら席を立って、静がもともとそれが病室を出た用事だったのか洗面所のほうへと歩いていく。

「それじゃ。おやすみなさい」 一度こちらに向き直って、静がそう声をかけてくる。

「ああ、おやすみ」 アルカードは彼女にそう返事を返してから、再び十三号室へと足を向けた。

 入院病棟はエレベーターのあるロビーを中心に左右それぞれに一号室から十五号室、十六号から三十号室までが配置されている。数字の小さな部屋が手前なので、十三号室はエレベーターに向かって左の奥から三番目だ――反対側でも一応つながってはいる様だが、見取り図の通りであれば職員以外立ち入り禁止区域になっている。たぶんほかの階にある厨房から食事を運んだり、点滴機器や機材などのかさばる物を移動させるためのエレベーターなどがあるのだろう。

 十三号室の引き戸を開けて、音を立てない様に部屋の中に踏み込む――照明は落とされていたが常夜燈が点いており、室内に人の寝ているベッドがある様子くらいは見て取れた。

 ベッド自体は左右に二台ずつ、合計四台置かれており、入院患者が全員親族だからか間仕切りのカーテンは引かれていない。手前のベッドの右側は使用されていないらしく、ベッドメイクそのものがされていない――老人は手術は終わったのだろうが、そのまま安静状態が続いているのだろう。

 窓の薄いカーテン越しに差し込んでくる月明かりで、奥の左側のベッドで眠っているのがデルチャだとわかった。レンタル品を借り出したものか乳児用の移動式のベッドがその横に置いてあり、蘭が小さな寝息を立てている。

 その向かい側、窓際の右側にも誰か横になっている――が、誰か横になっているのはわかったが、それが誰なのかは暗くて判別出来ない。だが、手前のベッドを使っていた人物が動き出したので、すぐに奥のベッドのもうひとりがイレアナだとわかった。

「誰……?」

 そちらに視線を向けると、手前左側のベッドで上体を起こしていたマリツィカがこちらに視線を向けていた。

「アルカード?」

「マリツィカ? どうした、眠れないのか」 ベッドの横に歩み寄って視線を合わせると、小さな常夜燈ひとつの薄暗い部屋の中でこちらを見上げるマリツィカの頬が涙で濡れているのがわかった。

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