Long Day Long Night 17

 アルカードの姿をはっきり識別すると、マリツィカは顔をくしゃくしゃにしてベッドの脇に立ったアルカードにしがみついた。

「マリツィカ、どうした――なにがあった、父親になにかあったのか」

「アルカードが出かけてる間に先生が来て、お父さんが、もう意識が戻らないかもしれないって――頭を鈍器で殴られて、脳に損傷が出てるから、意識が戻ってももう元には戻らないかもしれないって」

「後遺症が?」 腕の中でアルカードの胸に顔をうずめて嗚咽を漏らしながら、マリツィカが小さくうなずく。

「ほかのふたりもそれを聞いたのか」

「お姉ちゃんは、寝てたから――お母さんはそれを聞いて、ショックで倒れちゃった」

 肩を震わせているマリツィカの背中に腕を回して、アルカードは彼女の体を抱きしめた。肩甲骨のあたりを愛撫して、子供をあやす様に背中を軽く叩く。病院の浴場を借りたのか、彼女の髪はシャンプーの香りがした。

「大丈夫だ――俺がなんとかするから」 耳元でささやく様にそう言ってマリツィカの体を引き離し、泣き腫らした彼女の目元を指先で拭って、アルカードは続けた。

「だから、おまえは心配しなくていい。今はちゃんと眠っておけ――父親が目を覚ましたときに、まともな顔で会ってやれる様にな」 同時に魔眼に囚われて、マリツィカの体から力が抜けた。瞬時に意識を睡眠状態まで落とし込まれて弛緩した少女の体をベッドに横たえ、シーツを体にかけてやる。

 命に別条は無いと聞いて落ち着いた――古谷静はそう言っていたが、そのあとでこの最悪の知らせを聞かされたのだろうか。

 アルカードは病室から出ると、再びエレベーターに足を向けた。

 神田忠泰はもう自宅に帰っている頃合いだろうが、場合によってはひと働きしてもらわなければならないだろう――別に明日、通常業務が始まってからでもかまわないが。

 とりあえず連絡だけはしておこう――原材料を提供している身ではあるが、精製はヴァチカン総本山の設備が無いと出来ないので、持ち出しには許可が必要になるだろう。

 エレベーターのボタンを押すと、ほかに利用者がいなかったからかエレベーターはこの回で止まったままになっていたらしく、扉はすぐに開いた。エレベーターに足を踏み入れて、地下駐車場のボタンを押す。

 扉が閉まり、ゆっくりとエレベーターが下降し始めた――エレベーターが下降し始める瞬間の無重力感というのは、どうにも馴染めなくて背中に鳥膚が立つ。

 十数秒で再びエレベーターの扉が開き、外に出ると、アルカードは安心して息を吐いた。

 携帯電話を取り出して、電波状態を確認する――が、地下の悲しさか圏外になっていた。

 まあ別にいい――基地局の不備を愚痴っても仕方が無い。アルカードはそのまま駐車場を突っ切ってスロープから外に出ると、電波状態が回復しているのを確認して携帯電話の電話帳を呼び出した。

 この時間帯なら神田忠泰は恐らく自宅に帰っているだろうが、まだ就寝はしていないだろう――総本山から息子と娘が来ているし、夜景を見に行くという様な話もしていたからおそらくまだ起きているはずだ。

 通話ボタンを押すと数コールで相手が出た。

「――はい」 聞き慣れた声に、口元を緩める――後ろがきゃあきゃあうるさいのは、セバスティアンが年の離れた妹の相手をしているからだろう。

「忠泰か? すまんな、遅くに」

「いえ――問題ありません、我が師よ。なにか御用事が?」 神田はアルカードが、こんな時間に雑談のために電話をするタイプではないことを知っている――弟子として、あるいは直接の友人であった父親の息子に対してご機嫌伺いの電話をかけているわけではないことを察したのだろう、彼の口調はすぐに教師と弟子のものではなく上官に対する部下のそれに変わった。

「すまないが明日の朝、なるべく早く用意してもらいたいものがある――大使館に非常用に保管してある霊薬エリクシルをひと瓶、提供してほしい」

 その言葉に、電話の相手――神田忠泰が一拍置いて息を吐き出す。

「わかりました――師の要求であれば理由は聞きません。明日の朝大使閣下が出勤され次第、許可を戴いて霊薬エリクシルを用意します――引き渡しはどちらに?」

「御苦労だが、こっちに持ってきてくれ」

「はい。製作が終わった弾薬もありますので、そちらも――」

「否、悪いがそいつは大使館そっち預かりで頼む――今は荷物を増やしたくない」

「? どういうことかわかりませんが、承知いたしました」 疑問符を声に滲ませて、神田がそう応諾の返事を返してくる。

「世話になってる家が、ほら、こないだ調べてもらったヤクザ・ギャングどもに焼き払われてな――装備に欠損は無いが、全部ジープに詰め込んであるんだよ」

 それを聞いてさすがに驚いたのか、神田が絶句する。

「お怪我は――あるわけないですな」

「うん、もちろん俺はな――ただその家の主人が、虫けらどもに痛めつけられて集中治療室に入ってる。後遺症が残る危険があるらしいんでな」

「あの先日の金髪の娘さん、ですか」 苦笑の気配を言外に滲ませてそう言ってくる神田に、アルカードは顔を顰めた。

「別に、先日ボロ雑巾みたいになってるところを助けられた以上の動機は無いよ――でも知ってるだろ、女子供が泣いてるのを見るのは好きじゃない。元はと言えば縁もゆかりも無いが、それでも連中が弱ってる状況でほっぽり出して離れる気にもなれん」

「それは残念です」 なにを期待しているのかそんな返事を返してくる神田に嘆息し、アルカードは歩道と病院の敷地を仕切る胸くらいの高さの柵にもたれかかった。

「とにかく、用件は承知いたしました。翌朝なるべく早い時間帯に、霊薬エリクシルをお届けします――そちらの現在地は?」

「大使館から知らせてある住所に高速で向かったときの高速道路の出口を降りてから、当該住所に向かうためにUターンせずに、道路左側の大きな総合病院に入ってくれ――とりあえず、彼らがそこにいるから俺もそこにいる」

「はい――では、その様に手配いたします」

「ところで、そっちは今なにしてるんだ?」 背後がにぎやかだったので話題を変えると、

「今ですか? 東京タワーです。カチュアが展望台に上がってみたいと言い張るものですから――あと五分で展望台の営業時間が終わりますので、そろそろ出ないといけませんが」

「ああ、そうなのか? こんな時間まで営業してるのか」 街燈のポールみたいな支柱の先端に設置されたアナログの時計に視線を向けて、アルカードはうなずいた。

「わかった、楽しんでるところを悪かった――すまんがよろしく頼む、セバとカチュアによろしく伝えてくれ」

「はい。では」 その返事を最後に、神田が通話を打ち切る。プープーという終話時の音が聞こえてきたところで、アルカードは携帯電話を折りたたんで踵を返し、地下駐車場に歩き出した。

 

   †

 

「はい。では――」 その言葉を最後に、忠泰が通話を打ち切って携帯電話を上着の内ポケットにしまいこんだ。手すりの向こう側の窓硝子に、厳しいのか緩んでいるのかどうにも微妙な顔をした忠泰の面差しが映り込んでいる。

「どの様な用件でした?」 遊び疲れて背中で寝息を立て始めた妹の体をおぶい直して、セバスティアン神田は父親にそう尋ねた。

「ん? ああ、我が師がな――霊薬エリクシルがほしいそうだ」 父親の口にした簡潔な返答に、眉をひそめる。

霊薬エリクシルを?」

 不死の霊薬エリクシル――エリクサーとかエリクシアと呼ばれることもあるは、複数の稀少な原料を用いて作られる秘薬の一種だ。肉体と霊体に働き掛けて霊的なものも含めたあらゆる負傷や疾病、呪いなどの外的悪影響を治療し、瀕死の損傷も回復する。魂が肉体にとどまってさえいれば、致命傷を負っていてもものの数分で健康体に修復される――その効果は具体的には服用した対象に一時的に吸血鬼の回復能力を附加するもので、薬液自体をエネルギー源に転用するために肉体の修復の際に体力を使い果たして死亡することも無い。その一方で作用順序が肉体→霊体の順なので抗魔体質を持つ人間に対しては効果にばらつきがあり、場合によってはまったく効かないこともある。

 世界中に二十と現存していないとされる稀少な秘薬ではあるが、聖堂騎士団はその十倍の数を秘密裏に保有しており、また必要に応じて生産することも出来る。

 今のところこれを安定供給する手段を持つのは、聖堂騎士団しか存在しない――原料の中にロイヤルクラシックの血液が含まれるためで、その供給源を持つのは真祖である吸血鬼アルカードと秘密裡の同盟関係にあり、教師ヴィルトール・ドラゴスを擁する聖堂騎士団しかないからだ。

「ほら、この前皇居の濠のところで会ったときに、金髪の娘さんがいただろう」

「ああ、あの綺麗なお嬢さんですか――洋食屋の娘さんでしたか」 先日の日曜日、桜並木のある皇居の濠、たしか千鳥ヶ淵といったか、そこで警察官二名と揉め事を起こしていたアルカードに会ったとき、彼は四人の女性を連れていた――否、連れていたというのには語弊があるだろうが、とにかく日本人三人と外国人の女性ひとりと一緒だった。

「そう言っていたな――あの娘さんの家が放火されて、父親が放火犯に痛めつけられて集中治療室に入っているらしい」

「ああ、その治療用ですか」

 父親の言葉に納得して、セバスティアンはうなずいた――霊薬エリクシルは投与されると、投薬対象がどんなに重大な損傷を負っていても遺伝子情報マトリクス霊体構造ストラクチャに基づいてその損傷を完全に修復する。

 それは手足の欠損や失明、脊椎や脳の機能の損傷など、重篤な後遺症であっても例外ではない。アルカードがそんなものをほしがるということは、おそらくその父親がなんらかの重篤な後遺症を負ったか、もしくは負う可能性が高いということだ。

「そういうことらしい――状況に一定の目処がつくまでは、彼らのところを離れるつもりも無い様だ」

「そうでしょうね――ああ見えて、けっこう情の移りやすい性格ですし」 たしかに、と返事を返し、忠泰が少しだけ口元を緩めた。あの吸血鬼は割と他人に情が移りやすく、いったん関係が親密になるとその相手の窮状に手を貸すためになにも惜しまない。文字通り生まれたときからつきあいのある彼ら親子はそれをよく知っているし、そもそも元を糺せば彼と聖堂騎士団の同盟関係そのものが彼とセイル・エルウッドの個人的な友好関係に基づくものだ――今ではまるで傭兵の様に彼には俸給が支払われているが、それが無くても彼は自分の弟子たちが聖堂騎士団に在籍している間は、関係が決裂しないかぎり聖堂騎士団に手を貸し続けるだろう。

「あの子が料理人の娘さんなら、食事も旨いだろうしな」

「美人のお嬢さんの手料理が美味しくて、出ていく気が起きないと? さすがにそれは無いと思いますが、あり得るのがまた」 そんな会話を交わしつつ、ふたりは視線で急かしてくる従業員の横を通り抜けて地上に降りるためのエレベーターに乗り込んだ。

 

   †

 

 歩き出しかけたところでくしゃみをして、アルカードは眉根を寄せた――誰かが俺を話題ネタにして、なにか好き勝手話してる気がする。

 そんなことを考えながら、アルカードはスロープを降りて地下駐車場に足を踏み入れた。入院患者のものだろうか、まばらに車の止まった駐車場内を突っ切ってエレベーターのすぐ横に止めてあったジープに歩み寄り、車体の下に隠しておいたキーを回収する。ジープのドアロックを解除し、運転席に乗り込んでドアを閉め、内側から手動でロックを掛けてから、アルカードはドアの内側に肘をかけて頬杖を突いた。

 このまま眠ろうかとも思ったが、どうにも空腹感で寝つけそうにない。思えば最後に食べ物を腹に入れたのは昼前で、それ以降はいろいろあって食事など頭から抜け落ちていた。やることが無くなってしまうと忘れていた空腹感が甦ってきて、アルカードは溜め息をついた。

 この近隣には遅くまで営業している外食産業が無いので、そこらのコンビニででもなにか買ってくるしかないだろう。駐車場からジープを出すと、戻ってきたときに駐車券をもう一度取り直すことになる。

 それにコンビニとかファミレスが病院の並びにあるのだが、中央分離帯で区画されているので車で行くとなると戻ってくるのにどこかでUターンして一周してこなければならない。歩いていったほうがいい。

 そう判断して、アルカードは再びジープから降りた。ドアロックをかけて、歩き出す――この時間帯ではろくなものが無いだろうが、まあどんなものでも腹に入ればそれでいい。

 胸中でつぶやいて、アルカードはちょっと足を早めた。

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