In the Distant Past 39
†
「……」 長い絶叫とともに羽柴の体が視界から消え――人間の体が叩きつけられて潰れるときのグシャリという音とともに、唐突に悲鳴が途切れる。
それを確認して聴覚の感度を通常の状態に戻し、アルカードは踵を返した。
玄関の施錠は確認しているし、彼の部屋にはもう誰もいない――社内の名簿によると独身らしいが。
このマンションは周囲の建築物よりもかなり高く、バルコニーに立っていても外部に姿を暴露する恐れは無い――もちろん隣室の住人に対して以外は、だが。
さて、どうしたものかな――胸中でつぶやいて、アルカードは空を見上げた。
真夏の空は雲ひとつ無く晴れ渡り、空気も乾燥している――これではおそらく難しい。
靄霧態をとろうと思考すると――案の定――、胸騒ぎに似た厭な心理的抵抗が返ってきた。
靄霧態への形態変化の可否は湿度の数字ではなく実際の空気中の水蒸気含有量によるのだが、ロイヤルクラシックは靄霧態を取ろうと考えると周囲の空気中の水蒸気量を正確に知ることが出来る。別に一立方メートル中何グラムとか数字として理解出来るわけではないのだが、自然のその周囲の空気の水蒸気量と今の装備で無理無く靄霧態をとれるかどうか、ということがわかるのだ。
十分な水蒸気量の無い場所で靄霧態をとろうとすると、今の様に心理的な抵抗感となって返ってくる――それを振り切って靄霧態に変化すると、不足分の水分を体内から捻出するために靄霧態を解いたあとに不調が残るのだが。
まだこのあとにやることは掃いて棄てるほどある。無意味に疲弊する必要もあるまい。
胸中でつぶやいて、アルカードは足元に視線を向けた。
足跡は残っていない。
法科学的に調べれば別だろうが、アルカードは監視装置には一切引っ掛かっていない――エントランスから入ったわけでもないので、誰にも出会っていない。
押し入った形跡も不審な来訪者の痕跡も残っていなければ、警察は必要以上に突っ込んで調べたりはしないものだ。
ふと思いついて、アルカードはいったん靴を脱いでバルコニーから部屋の中に足を踏み入れた。4LDKのタワーマンションの一室だが――そのうち二部屋とリビングが南側に面しており、どちらも掃き出し窓からバルコニーに出ることが出来る。どちらも住人がいるという油断からだろう、掃き出し窓は開け放たれており、窓を開けるという作業で指紋を残す懸念も無いまま侵入することが出来た。
羽柴がつけっぱなしにしていたパソコンが、ブーンという低いファンの駆動音とともに稼働している――デスクトップはグラビアアイドルのきわどい水着姿の胸の谷間だった。
それはどうでもいいので、パソコンの筺体に視線を向ける――それなりに高スペック機ではあるのだろうが、当然ながらキメラ研究に役立つほどではない。
左手でマウスを操作してマイコンピュータを開き、アルカードはいったんマウスから手を離した。左手で触れるぶんには、指紋が残る恐れは無い。
マイコンピュータを開くと、すぐにキメラ研究を持ち帰るには到底役に立たない代物だというのがわかった。
Cドライブの容量は五百メガ――Dドライブの容量も同じ。
クラウンに爆弾を仕掛けたときに調べた若林源蔵の自宅のパソコンもそうだったが、羽柴は研究資料を持ち帰ったりはしていないだろう。ダイヤルアップによる従量課金制の低速接続とはいえまがりなりにもインターネット接続のあるパソコンでは流出の恐れがあるし、そもそもそれ以前にデータの内容が厖大すぎてこのパソコンではローカルに取り込むことさえ出来ないだろう。
否、そもそも持ち運ぶことさえ出来ないだろう。CD-Rや一般に市販が始まったばかりのCD-RW、フロッピーディスクなどの可搬記録媒体では、爪の先ほどの断片的なデータでさえ収まるまい。
そう結論づけて、アルカードはマイコンピュータのウィンドウを消した。
アルカードはそのままパソコンを放置して再びバルコニーに出ると、そこで靴を履いた。ブーツの靴紐を締め直し、床を蹴って跳躍――バルコニーの廂に手をかけて逆上がりの容量で廂の上に昇り、そのまま屋上に出る。
まだやることは山ほど残っているが――とりあえずはこの近くにもうひとり住んでいる。
地下の調製実験セクションの研究員に自白させた内容が正しければ、研究員の人数は七十六人。一応社内のコンピューターから引き出した名簿と数は合っている。
調製実験セクションとレベル4
どうしようもないこととはいえ――もう少しペースを上げるべきだろう。逃亡を図る前に全員を始末しなければならないのだ。
冷たい風の吹き抜ける屋上で、アルカードは東側に歩み寄った。全戸南向きが売りのこのマンションでは東西には窓は無く、バルコニーのたぐいも無い。飛び降りても発見はされまい。
そう判断して、アルカードは屋上から躊躇無く身を躍らせた。
*
同日午前九時ごろ――
「わかりました。では」 短く応諾の返事をして、戝前紳一は固定電話の受話器を置いた。
「どうしたの?」 台所から顔を出した十五歳年下の妻が、いぶかしげにそう聞いてくる。戝前は適当に肩をすくめて、
「なに、今日休みになっただけさ」 そう返事をしてそれまで凭れかかっていた壁から離れ、彼女のほうに視線を向ける。
「すまない、ちょっと猟銃の手入れをしてるから」
「ええ」 そう返事をして、妻は再び顔を引っ込めた。それが考え事をするときの彼の癖だということを知っているから、彼女は特になにも言わずに水仕事に戻ったらしい。生後三ヶ月の娘の泣き声が聞こえてきて、始まったばかりの水仕事の音はすぐに途切れた。
そちらから視線をはずして、戝前は二階へと続く階段に足を置いた。
階段のところで丸くなっていた黒毛に肢の先だけが真っ白な猫が、こちらを見上げてにゃあと鳴く。
かがみこんで喉をくすぐってやってから、戝前は階段を昇り始めた。三階の――予定通りに三人の子供に恵まれたら、将来的には子供部屋のひとつにする予定の――部屋に足を踏み入れて、北側と西側の壁に設けられた大きな窓を開け放つ。
壁際に置かれた金庫に歩み寄り、彼はダイヤルを廻して金庫の扉を開けた。中に納められていたクレー射撃用の水平二連の散弾銃と、レミントンの猟銃を取り上げる。
北側の窓の前に置いた机の上に敷かれたフェルトの上に二挺の銃を並べて、彼はまず中折れ式の散弾銃を手に取った。
ラッチをはずしてブリーチを開放し、薬室側から銃身を覗き込む。
ここ数ヶ月ほど射撃をしていないので銃身内部は綺麗なものだ。前回手入れしてから使用していないのでまるで汚れていない
まったく汚れていない布を何度も銃身に通しながら、彼は考えに没頭し始めた。
若林源蔵が死んだ。その連絡が来たのは、小一時間ほど前のことだ。
マックス製薬本社ビル地下で爆発が起こり、その爆発によって地下の配電設備と非常用予備電源が破壊されたという連絡が入ったのも、そのときだった。
戝前紳一はマックス製薬の裏の顔、生体兵器の研究に携わる研究主任である若林源蔵の部下で、岬太朗、羽柴恭一同様キメラの調製実験研究員の副主任のひとりだった。
すなわち彼ら同様生命工学の専門家であり、表沙汰にされることの無い生体兵器の開発に携わってきたスタッフのひとりである。
ほかの副主任ふたりと研究主任である若林がそれぞれ専門分野を持っているのに対して、戝前の研究はそれらの内容を複合し高次元でバランスさせることだった――裏方で華は無いが、ほかの副主任や専門分野を持つスタッフたちの研究内容の融合と統合は彼と彼の部下たちの尽力が無ければ為し得なかったものだ。またそれぞれの分野に対して深い理解と知悉を必要とするため、調製実験研究室でもっとも優れたスタッフは自分たちだと自負している。
十数年前に社長の巻島に接触してきたというあの男、グリゴラシュ・ドラゴスという名の長身のラテン系の男が、なぜそんなものを造りたがるのか、その理由も目的も知らない――生きたレーザー砲台、高周波数で振動しあらゆる物体を引き裂く鈎爪を備えた怪物。
はっきり言って核兵器でも開発したほうが手っ取り早い。
それをしないのは、標的を周辺地域単位で焼け野原にする様なことは望んでいないのだろうか――特定の対象だけを加害する毒の開発が仕様書に含まれていたということは、それと戦い撃破することを目的にしているのだろうか。繁殖の道具に使う人間の女性さえいれば、数時間で一大軍団を形成出来るキメラたちによる集中攻撃で。
あるいは核兵器が通用しない相手――それはさすがにありえないだろう。熱と衝撃波は防げても、放射線はどうしようもない――たとえシェルターに引きこもって難を逃れても、すぐに(少なくとも汚染された地域から放射能が消えるより早く)食糧や水を求めて外を出歩かなければならないのだから。
じゃきんと音を立ててブリーチを閉じ、机の天板に敷いたフェルトの上に銃を置く――一度席を立って金庫に歩み寄り、戝前は金庫の中から狩猟用の
これは彼の、考えを落ち着かせるときに決まって行う儀式の様なものだった――帆船模型を組み立てているときの様に、前半生をかけて打ち込んできた射撃の道具に触れていると心が落ち着くのだ。
「……?」 ふと視線を感じて――彼は周りを見回した。
ここは三階だぞ? そんな疑問をいだきつつ、窓の外に視線を向ける。周りに三階建ての建物と言えば、西側には道路をはさんで向かい側の園田家があるが、北側にはなにも――
ふと北西の方向にあるミシン屋の四階建ての建物の屋上で、なにかが光った様に見えた――否、見間違いか。
小宮山ミシンの建物は、ここから七百メートル近く離れているのだ。
かぶりを振ったとき、ひゅっという風斬り音が聞こえてきて――同時に手にしたボール箱が爆発して、戝前の意識はそこで途切れた。
†
きんっ――排莢口から弾き出された七・六二ミリの空薬莢が、プライマーで塗装された屋上で跳ね回る。薬莢が薬室に貼りつくのを防ぐための
フルートの切られた薬室はPSG-1をはじめとするヘッケラー・アンド・コッホ社製のG3系ライフルに搭載されたディレイド・ブローバック機構の特徴で、薬莢にも必ず痕が残る。
ボルトの
これを防ぐのがフルートで、薬室の内側には銃身と平行に――正確には薬莢がテーパー状になっているので、真後ろから見ると銃身に対して放射状になっているのだが――溝が切られている。弾薬が撃発されると、発射ガスの一部がフルートを通って薬莢の外側に流れ込む。そうすることで薬莢の内外の圧力を均等に近づけ、薬莢の膨張を抑えて薬莢がちぎれるのを防ぐのだが、このために溝に沿って流れ込んだ発射ガスの煤が薬莢の外側に残り、薬莢の材質にもよるが最初の膨張の際にフルートに薬莢が喰い込んだ痕跡も残る。個体識別は無理でも、銃の製造メーカーは簡単に特定されてしまう。
戝前紳一の死亡は、あらためて確認するまでもなかった――撃ち込んだ
カートリッジの樹脂製のケースが撃ち込まれた銃弾によって数発まとめて貫かれ、充填されていた装薬が
その衝撃波によって無事だった弾薬の樹脂ケースを吹き飛ばし、火薬の燃える炎が飛び散った装薬を炸裂させた。結果装薬と一緒に内部から飛び出した
ボール箱に納められたショットガンの弾薬が顔面のすぐ前で炸裂し、瞬時に発生した炎が服や髪を燃やし、飛散した大量の散弾が顔面を粉砕し、あるいは体の前面に喰い込んだのだ。
戝前はクレー射撃と鹿撃ちがメインの狩猟が趣味らしい――どちらも十二番ゲージが一般的なので、おそらく彼が持っていたのはパッケージデザインから推すに十二番ゲージの散弾だ。十二番なら六粒か九粒――狩猟とクレー射撃、どちらの用途でも発射弾数が多く命中確率が高いぶん九粒弾のほうが使い易いので、おそらく九粒弾だろう。
三十発以上入っている大箱のボール箱の中のカートリッジがすべて破裂したら、周囲に飛散する
戝前の自宅の方角から妻のものと思しき悲鳴が聞こえてくるのを確認して、アルカードは目を細めた。撃ち込んだ
だが、庭に植えられた木が炎上する心配は無いだろう。東京は一昨日大雨だったので、その範囲内にある樹木は水分をたっぷりと吸い上げていて燃えにくい――し、曳光剤はすでに尽きかけており、命中した木を炎上させるほどの火力は残っていない。
せいぜい人の視界には入らない高さの幹に穴が穿たれ、その周囲が焦げた程度だ――これが狙撃による暗殺だと考えなければ、わざわざそんなところを調べようとは思わないだろう。
そう判断して、アルカードはPSG-1狙撃システムの銃口を覆う様に捩じ込まれた長大なサプレッサーを取りはずしにかかった。
暗殺のターゲットは、まだ数が残っている。残る標的は教会の『草』が動向を把握しているが、時間をかければかけるほど迅速な処分は難しくなるだろう。
狙撃システムをキャリングケースに収め、アルカードは立ち上がって歩き出した。
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