In the Distant Past 9

 

   *

 

「――あ」

「やあ、さっきはどうも」 ユーザー車検の窓口の前で長椅子に腰かけていた口髭を蓄えた初老の男性――柚本が片手を挙げる。

「すんなり通りましたか?」

「まあ問題無く」 アルカードはそう答えて、カウンターの箱の中にクリップボードでまとめた書類を放り込んでから柚本の隣に腰を下ろした。

「おじさんは?」

「外観検査で引っ掛かりました、ここに来る途中でナンバー燈が切れてまして――FD型の人がナンバー燈の電球をストックから融通してくださって」

「ああ、さっきの業者さんですか――そう言えば姿が見えませんね」 周りを見回すが、先ほど立ち話をしたふたりの若者たちの姿は見えない。

「時期が時期ですからね、業者さんが使うカウンターはすぐに捌けてしまうんでしょう――ところで連れの方は?」

「コーヒーを買いに行ってます」 本人はコーラですけどね――胸中でだけそう付け加えてから、アルカードは業者の人間が使うカウンターに視線を向けた。年末年始の四日間以外は平日はすべて開業している運輸支局ではあるが、一応職員にも夏季休暇に類するものはあるのだろう――カウンターの向こうのデスクには空席が目立つ。

 この時期は池上のところがそうである様に、この時期には個人経営の業者は軒並み夏季休暇に入っている。

 結果、A棟の中に業者の姿はあまり見られなかった――車検整備をきちんと仕上げることが出来れば、持ち込みの業者にとっては待ち時間が短くむしろ楽な時期なのだが、部品商が休暇に入って部品調達のあてが無くなるので結局意味が無い。ただ業者が持ち込む車が無くなるので、事前に整備を済ませてあればユーザー車検受検者にとっては楽な時期ではある――RX-7二台の若者たちは、得意先の客のためにこの時期に持ち込み車検を引き受けたのだそうだが。まあ個人経営の街工場では、そんなものなのかもしれない。

「せっかく八月登録なのに、ご自分で来られないみたいですね」

「お仕事が忙しいんでしょう――FDの人は、持ち主の方が観光業だっておっしゃってましたから」 と、柚本が言ってくる。

「ああ、この時期お忙しいんですね」 アルカードがうなずくと、

「ところで外人さんは――」 柚本が迷う様にちょっと言葉を切ってから、

「日本語お上手ですね。失礼ですが、何年くらい?」

「そろそろ十一年になりますね」 アルカードがそう答えたところで、

「柚本さーん、柚本慎一さーん」  窓口から呼び声が聞こえてきて、柚本は立ち上がった。

「すみません、お先に」

「ええ、お疲れ様でした」 アルカードの返事に軽く会釈をして、柚本がカウンターへと歩いていく。彼は交付された新しい検査証を受け取って、そのまま建て屋から外に出ていった。

 と、別の入り口から、忠信が姿を見せる。彼はアルカードのかたわらまで歩いてくると、アルカードがオーダーした缶コーヒーを差し出して、

「すまん、検査証は出してくれたかい」

「ええ。でも、ユーザー車検は混んでるみたいで」 それまで柚本が座っていた席についてコーラの封を切っている忠信に、アルカードは受け取ったワンダの封を切りながらそう返事をした。

 箱状に貼り合わせたアクリル板で造ったボックスの中には、先ほどアルカードが放り込んだ二台ぶんの書類のほかにも、備えつけのクリアファイルケースや自前のクリップボードで束ねられた書類が大量に入っている。

 ちょうどふたりが向けた視線の先で、片腕で赤ん坊を抱いた男性が片手でファイルにまとめるのに難儀しながら書類をボックスに放り込んでいった。

 

   *

 

「――あれ?」

 手島紗希が声をあげたのは、皇居の西側、千鳥ヶ淵の桜並木の下を数人で歩いていたときのことだった。

「どうしたの?」 それまで巡回している制服姿の警察官を適当に眺めていたマリツィカは、片平由香とそろって彼女のほうを振り返った。

「あれ、マリの従兄弟の人じゃない?」 と言って指差した先にいたのは、確かに彼女が従兄弟だと偽っている青年――アルカード・ドラゴスだった。

 自分と同じ様に多民族の混血の結果であろう獅子の鬣を思わせる金髪を風になびかせ、皇居のお濠でボートを漕いでいる人々を見下ろしている。

「ほんとだ。昨日から出かけてたんだけど――こんなところでなにしてるんだろ?」

 仕事が入ったと言ってアルカードが出かけていったのは、昨夜のことだ――といっても、結局マリツィカたちチャウシェスク一家はアルカードがなにを稼業にしているのかどころか、彼の年齢すら知らないのだが。

 とはいえあの金髪の青年が、なんらかの危険な稼業に就いているのは間違い無いだろう――そのアルカードが、なぜこんなところでのんびりしているのかは謎だが。

 声をかけようとするより早く、金髪の青年はこちらに気づいた様だった。

 アルカードがゆっくりと笑い、こちらに近づいてくる。

「やあ」 という挨拶は、マリツィカが友人を連れていたからだろう。

「こんにちは――こないだはどうもありがとうございました」 三人の連れの少女たちが、丁寧に一礼する。アルカードは小さくうなずいてその謝辞を受けてから少女たちの手にした紙袋に視線を向け、

「買い物かなにかか」 と、アルカードがあまり愛想の感じられない口調で返事をする――が、マリツィカは金髪の青年の愛想の無い返事を気にもしなかった。彼の口調は基本的に愛想が無い――が、さすがに出会って数週間もたってくると言葉遣いや口調ではなく表情や目つきで感情が読み取れる様になってきたので、アルカードが上機嫌なのがなんとなくわかる。

「はい。服とかいろいろ」

「そうか」

「ドラゴスさんは、観光ですか?」 こっくりとうなずくアルカードに由香が尋ね返すと、アルカードはかぶりを振った。

「否、仕事だよ。人と会う約束をしてるんだが――」 そう返事をして、アルカードが周囲を見回す。周りには遊歩道を散歩する日本人、あるいは外国人の観光客や、皇居を警備する警察官の姿もある。残念ながらアルカードが約束していた相手は視界内にはいなかったらしく、彼は肩をすくめて再びマリツィカたちに視線を戻し、

「場所を間違えたかな。まだ会えてない」

 そう言ったとき、通りをぶらぶらと歩いている観光客やランナーに混じって歩いていた若い制服警官ふたりが、こちらに近づいてきた。

 近寄ってきた警察官のうちひとりが、アルカードに声をかける。

「Excuse me」

「俺か?」

「はい――失礼ですが、身分証を拝見出来ますか」

 その言葉に、アルカードは小さくうなずいてみせた。彼は腰につけたウェストポーチに手を伸ばし――

 途端、制服警官ふたりが弾かれた様に後ずさる――ふたりはそれぞれ腰の得物に手を伸ばして、回転式の拳銃を引き抜いた。

「え?」 突然の事態に、紗希が目を白黒させている――アルカードはというと、警戒が自分に向いているのはわかっているのだろうが、平然とふたりの様子を眺めていた。

「手を挙げろ!」 という命令に、アルカードがおとなしく両手を挙げる――制服警官のひとりが、彼の懐から黒く塗装された自動拳銃を抜き出した。どうもポーチを開けようとしたときに、懐のものを発見されたらしい。

「ちょっと、あの人ピストル持ってるよ」 古谷静がさすがに驚いたのか、そんな声を漏らして後ずさる。

「あんたの親戚ってなにしてるの?」

「とにかく離れたほうが――」

「銃刀法違反で逮捕――」

 と告げる警官のかたわらでもうひとりの警官が無線機に手を伸ばすと、アルカードが静かにそれを制した。

「待て。身分証くらい確認したらどうだ」 そう告げて、アルカードは腰のポーチを誇示する様に軽く上体を捩ってみせた――拳銃を足元に置いた警官が、今度はポーチに手を伸ばす。彼はポーチの中から取り出したらしい身分証入れの中身を確認して、ぎょっとした様に顔色を変えた。もうひとりに視線を向けて何事か声をかけるが、ここからでは聞こえない。

「裏を取りたいなら、在東京ローマ法王庁大使館に連絡しろ。大使館の駐日特命全権大使閣下が、俺の身分を保障してくれる。それと、目立つからとりあえず腕を下ろしてもいいかね?」

 アルカードがいったいなにを見せたのかは知らないが――よほどのものだったのだろう、答えに窮してふたりの警察官が口ごもったとき、視界の端を黒い法衣を身に纏った人影がかすめた。

 カトリックの聖職者が身につけるカソックを身に纏った四十前くらいの男性と、もうひとり涼やかな容姿の銀髪の青年が、少女たちのかたわらを通りすぎてアルカードのほうに近づいていく。

 アルカードは警官ふたりよりも早くそちらに気づいたのか、少し表情を緩めた。

「失礼――こちらの方がなにか?」

 日本人らしい黒髪の男性が、深みのある落ち着いた声音で警察官に声をかける。

「え? あ――」

 男性は警官がどもるのにかまわず、身分証なのかポケットから取り出した黒いカードケースの様なものをふたりに示し、

「在東京ローマ法王庁大使館の二等書記官、神田忠泰です。こちらの方は我々と同じ、大使館職員です。ヴァチカン教皇庁から派遣された、在東京ローマ法王庁大使館の一等書記官なのですが――なにかあったのですか?」

 という言葉に、警官たちが表情を引き攣らせる。不勉強ではあるが、マリツィカだって世の中の外交官制度について多少の知識はある。

 書記官というのは、外交事務に従事する外交使節団の職員のことだ。

 つまり、アルカードも――普通の書記官がピストルを持っているとは思えないから、あくまでも建前としての身分なのだろうが――れっきとした外交官だということになる。

 外交官は接受国側から賦与された特権によって身柄の抑留も拘禁も禁止されており、刑事・民事・行政裁判も免除される。本人が拒否すれば荷物や車を調べることも出来ないし、住居に立ち入ることも出来ない。

 大使館側が日本政府に対して正式に抗議をすれば、下手をすると日本とヴァチカン市国の外交問題に発展する。当然、その責任は警官ふたりの頭上に降ってくるだろう。つまり――あの警官たちは、今非常に困った状況にあるということだ。

「あ――はい。ええ――失礼しました」

 制服警官のひとりがかがみこみ、足元に置いた自動拳銃を拾い上げてアルカードに返す。

「気にしなくていい。仕事に忠実な人間は信用出来る」 アルカードはそう返事をして返還された自動拳銃を受け取ると、それを懐にしまい込んでから続いて身分証明も受け取ってポーチの中に戻した。

 耳目を集めているのが気になるのか眉をひそめながら、アルカードは立ち去っていく警察官を見送っている黒髪の男性に視線を向け、

「すまんな、忠泰、セバ」

「いえ、些事ですので。こちらこそ遅くなり申し訳ありません、我が師よ」 ひとまわり以上年齢の違う男性が、目の前にいる青年に対して恭しく一礼する。

「よせ、忠泰――それでなくとももう十分に目立っているんだ。これ以上人目を集める必要も無い」 アルカードはそう言って、マリツィカのほうに視線を向けた。

「それに、知人にも見られてしまったしな」 という言葉に、神田と呼ばれた男性ともうひとりの若者がこちらに視線を向ける。

「こちらは?」

「俺が世話になっている人の娘で――従姉妹だったかな?――と、その友人たちだ」 若干含みのある表現でそう説明してから、アルカードは苦笑した。

「アルカード――」 外交官だったの?と続けようとして、マリツィカは言葉を切った。それでは、この『従兄弟』について、自分がほとんど知らないことが友人たちにばれてしまう。

 なにを考えているのかはだいたいわかったのだろう、アルカードは肩をすくめて、

「黙っていて悪かったな――こういう仕事なんでな、あまり吹聴したくはなかったんだ」

「お仕事、外交官だったんですね」 という紗希の言葉に、アルカードがちょっと考える様に沈黙してから、

「ああ――在東京ローマ法王庁大使館の職員だ」

「ヴァチカン大使館の職員さんなんですか? ルーマニアじゃなくて?」 マリツィカの親戚という建前だったので当然ルーマニア大使館だと思ったのだろう、由香が首をかしげる。

「ああ。俺は現状、ルーマニア人じゃないから――国籍が違うという意味だがね。俺はイタリア国籍だ――で、それとは別にヴァチカンの国籍も持ってる」

「つまり、その――」 紗希がアルカードが忠泰と呼んだ男性と、そのかたわらのプラチナブロンドの青年――セバ?――に視線を向け、

「カトリックの聖職者さんだったんですか」

「否、俺は別に神父だったりするわけじゃない。ちょっと立ち位置が特殊なんだが、正確にはローマ法王庁――在日ローマ法王庁大使館の特命全権大使の近接警護が仕事だよ。書記官というのは、外交官特権を受けるための建前だ――職業上銃を持ち歩くこともあるし、そういうとき警察に邪魔されても困るからね。外交特権があれば、いちいち手荷物検査を気にする必要も無いから」

「そうなんですか――ジープのナンバープレート、普通のナンバーだったから気づきませんでした」

「外交団ナンバーは目立つからね、邪魔なんだよ」

「じゃあ、昨日から出かけてたのもその関係の仕事だったの?」

「そうだ。わかっているとは思うが、詳しく説明するつもりは無いぞ? ここまでしゃべったのも、あとでこっちの神田にどんな小言をもらうかわからんからな」 マリツィカの質問に冗談めかしてそう言ってから、アルカードはかたわらの大使館職員に視線を向けた。

「忠泰、セバ、場所を変えよう――もう十分悪目立ちしてしまった」

「はい」 忠泰と呼ばれた男性が、その言葉に小さく首肯する。

 アルカードは再びマリツィカたちに視線を向けて、

「じゃあ、俺は行くよ――お嬢さん方、今見聞きしたことは内緒にしておいてくれよ」

「無理だと思いますが」 という神田という男性の言葉に適当に肩をすくめ、アルカードはふたりを促して歩き出した。

 歩き去るアルカードの背中を見送って、なんとなく気の抜けた様子で紗希が口を開く。

「ほんとにいるのね、ああいう仕事してる人って」

「ねえ」 静が友人の言葉にそう返事を返し、たった今触れた非日常の断片に目をしばたたかせる。

「マリは知ってたの? あの人の仕事」 由香に話を振られて、マリツィカはかぶりを振った。

「知らなかった。あんまり仕事のことは話してくれなかったし」

「そうだよね。あんな仕事してる人だったら、守秘義務とかもあるだろうし」

 以前庭を眺めながら語らったとき、アルカードは串刺し公カズィクル・ベイを殺しに来た、と言っていた――父の言葉を信じるならばワラキア公ヴラド・ドラキュラ公爵のことだが、もちろん十五世紀の人物であるヴラド公など二十世紀末に生きているはずもない。

 ただ、土蔵と塀の隙間から引きずり出されたとき、アルカードは前時代的な鈑金甲冑を着込んでいたのだ。その鈑金甲冑の装甲板の隙間には百を超える数の大小様々な短剣が仕込まれ、その上から映画の特殊部隊が着ている様なポケットのたくさんついたベストを着込み、散弾銃の筒型の弾薬と手榴弾の収納されたベルト状の装具を互い違いに襷掛けにして、自動拳銃三挺と散弾銃が一挺、映画に出てくる様な連射式の小型機関銃も持っていた――まるで中世の騎士と現代の特殊部隊の装備を折衷した様な、明らかに現代の兵士の装備ではない。

 それを友人たちに説明する気にもなれずに、マリツィカはかぶりを振った。

 アルカードの言う通りだ。彼は世の中の暗部にかかわっている。それも小説や映画、漫画に出てくる様な生易しい世界ではない。

「とりあえずわたしたちも場所を変えよう」 静がそう意見を述べる。アルカードとしばらく立ち話をしていたからだろう、一連の流れを見ていた者たちの注目が、本人たちがいなくなったことでこちらに集中しているのだ。ひどい居心地の悪さを感じて、少女たちはその意見を全員一致で首肯した。

「そうだね。喉乾いちゃったし」

「行こう行こう」

 口々にそう同意して、少女たちはいったん遊歩道を出るために歩き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る