In the Distant Past 8

 

   *

 

 前を走っていたトラックが、赤信号でブレーキをかける。反応が鈍い――余所見でもしていたのだろうか。

 信号が変わる前に交差点を抜けようとしていったん加速してから間に合わなかったために急停止に移行し、スピードを殺し切れずに停止線をちょっと越えたところで停車したトラックの荷台で、ガンガンという音が聞こえてくる。タイヤの分子が路面との摩擦で振動する際のスキール音が、それに混じって聞こえてきた。

 トラックの荷台に積んであるのは、長さ二、三メートルほどの鋼管パイプだった――テープ状の金属バンドで四角くなる様に固縛され、それがトラックの荷台にチェーンとレバーブロックを組み合わせて縛着されている。おそらく工事現場の足場材として使うものだろう――金属製の籠に入った接続金具クランプが一緒に積み込まれている。固縛が緩かったのか勢いに負けたのか、縛着された鋼管が荷台の上で滑る様にしてずれてキャビンの背中に衝突したのだ。

 まあいずれにせよ、アルカードにとっては特に問題にならない――ひとつ手前の交差点の信号は黄色に変わってはいなかったが、ジープが通過する時点ですでに歩行者信号は点滅を始めていたので、次の信号が変わる前に交差点を抜けるのは無理だと踏んで減速を始めていたからだ。

 そのおかげで十分な車間距離が空いており、アルカードは安全にジープの車体を停車させることが出来た。

 停止した車体の左側をすり抜けた小型のスクーターが、停止線を抜けたところで耳障りなブレーキ音とともに停車する。タイヤが滑るときのスキール音ではなく、鉄板同士が押しつけられる様な耳障りな音だ。

 おそらくブレーキの摩擦材が完全に消耗し、裏側のバックプレートが直接ブレーキディスクに接触しているのだろう――神田忠泰に言わせると、日本のスクーターではよくある光景らしい。

 彼の言葉を借りるなら、『定期検査も法定点検義務も無いお手軽な乗り物だが、お手軽すぎて誰もその状態に頓着しない』らしい――あのスクーターを見る限り、その極論もあながち間違ってはいない様だった。

 金属板同士が直接接触している状態は制動能力を発揮しないばかりか、ブレーキディスクを削って損傷させたりして致命的な危険を伴う。ブレーキのかけ方によっては、熔けた鉄板同士がくっつくことさえあるのだ――そこまでいかなくても異常摩耗を起こしてディスクの表面がうねる様にしてがたがたになり、そこからブレーキパッドを交換してもまともに制動力を発揮しない。あれだけギーギー鳴っていても平気で走り続けられるというのは、確かに無頓着と言われても仕方無いだろう。

 ちなみに神田に言わせると、『原付でそうならないのは趣味性の高い一部の車種だけ』なのだそうだ――いわゆるモンキーとかゴリラのことなのだろう。確かに面白そうではある――アルカードの体格では乗るのに疲れそうだから、別にほしいとは思わないが。

 今停車したスクーターも、マフラーがなにやら変わった形状のものに換装されている――まるでアメリカのボンネットトラックの様に消音器が上に向かって突き出しているのだ。

 それが性能アップにつながるのかどうかは知らないが、パワーが上がればそれに見合った制動装置が必要になるので、結局のところ自分の危険を自分で増やす行為にしかなっていない。ブレーキ装置はノーマルのままどころか、まともに機能しない状態になっている今の状況ではなおさらだ。

 ブレーキランプが着色されていない普通の白熱電球のままなのに、ブレーキランプのレンズがクリアに交換されているのも気になる。それでは意味が無い――日本の保安基準など詳しくは知らないが、まあ燈火類の色設定や機能は海外のそれに準じるものだろう。

 燈火類は視界の確保だけでなく、自分の状況や次の行動を伝えるためにあるものだ――相手に正しく伝わる様に、共通認識の中にある色設定に準じなければ意味が無い。なにもわざわざ自分が追突される危険を、自分で増やさなくてもいいだろうに――まったく関係の無い人が、このみっともないスクーターのせいで遭わなくていい事故に巻き込まれなければいいのだが。

 聞くところによると、日本では二百五十c.c.以下のオートバイやスクーターは検査の必要が無いらしい。だから神田が言うところの『お手軽』ではあるのだが――これまた神田の言う通り、お手軽すぎて誰もその状態に頓着しない。だから根本的に機能を損なう様な改造が罷り通る。

 別に言っても仕方無いが、日本政府は税金を下げる代わりにすべてのオートバイやスクーターにを義務づけるべきだと思う――状態を気にせずにおんぼろ車に乗って他人を危険に晒している連中が掃いて棄てるほどいる以上、そうするしかないだろう。

 まあ政治家でもなんでもないアルカードに出来ることなど、スクーターが自滅するときに巻き添えの出ない状況であることを祈るくらいだ――あとは自分がそれに巻き込まれない様にすることくらいだろう。

 ただそれをするためには、位置取りが少々面倒だ――胸中でつぶやいて、アルカードは小さく息を吐いた。建設現場で使う鋼管足場用の鋼管を満載(固縛がゆるゆる)した四トントラックといつブレーキが焼けついて転倒してもおかしくないポンコツのスクーター、どちらとも距離をとっていたいが。

「ねえ、警察が来るまで待っておかなくてよかったの?」 そんな質問を発したのは、それまで黙っていたマリツィカだった。

 あの娘の命より財産の維持を優先したろくでもない母性の無い母親と自分は口だけはさんで文句だけ言うゴミの女、ふたりの世迷言を無視して店を出てきたことを言っているのだろう。

「それまであの馬鹿ふたりにつきあわなければならんのか?」 マリツィカの問いに、アルカードは溜め息に載せる様な口調でそう返事をした。

「ほうっておいていい――どうせあの阿呆は当分目を醒まさん。警察が来るまであのふたりの的はずれな恨み事を聞かされるのもごめんこうむりたいし、だいたいそれをしていたら学校に間に合わんだろう」 警察が事情を聞きたければ、ナンバープレートから調べて訪ねてくるだろうさ――そう付け加えて、アルカードは次の発進に備えてシフトレバーを操作した。

 信号が青に変わり、スクーター、続いて四トントラックが急発進する――なにを急いでいるのか知らないが、運転が荒い。

「的はずれ?」

「さっきも言っただろう。あの子供を助けたいなら、母親やあのゴミ女が自分の車を差し出せばよかったのさ――自分で助ける気も無い子供を他人が助けるのを要求している時点で、別に子供は可愛くないんだろう。親に見棄てられた子供が可哀想だからプレッシャーをかけていたが、それに気づくほどの知能も無かった様だしな」 そんなことを言いながら、発進したトラックとスクーターを追ってクラッチを戻す――あのとき男の要求を拒絶したのは、苛立たせることで自分に注意を集中させるためだった。

 そのうえでキーを投げつけて視線をそちらに向けさせ、その動きにつられてナイフの尖端が子供の体から離れて、アルカードが攻撃を仕掛けても子供の体にナイフが刺さらないで済む状況になるのを待っていたのだ――が、あの女たちはそんなことには思い至りもしなかったらしい。

「あの子供、そう出来る年齢になったらさっさと母親から離れたほうがいい――あんな女と一緒にいたら、人生を喰い潰されて終わりだ」

 まあ、同じ様な阿呆に成長して終わりかもしれんがな――胸中でつぶやいて、アルカードは前方の交差点の歩行者信号が赤に変わったのに気づいて減速を始めた。

 交差点に到達するころには信号が赤になっており、相変わらず滅茶苦茶なブレーキをかけた四トントラックが急停車する――というより、トラックの倍力装置の効き方に慣れていないのだろうか?

 スクーターのほうはというと信号を無視して交差点を突っ切り、危うく歩行者の若い母親が押したベビーカーに接触しそうになっていた。

 鬼頭おず西の交差点を越えたあたりから、通行人の中に通学中の生徒の姿がちらほらと混じり始めている――すでに学校まで三百メートルほどまで近づいており、学校の隣の文房具屋が入った雑居ビルの向こうに校舎が覗いていた。

 再び交差点に捕まって停止したところで、答えに困っていたのかそれまで沈黙していたマリツィカがアルカードに視線を向ける。

「ごめん、アルカード。ここで降りていい?」

「ん?」 アルカードはそう返事をして、こちらに視線を向けてきた。

「まだ距離があるぞ」

「そうだけど、校門前まで車で乗りつけるわけにもいかないしね――ここからのほうが、キミが引き返すのが楽だし」

「そうか」 アルカードはうなずいて、ウィンカーのスイッチを操作した――片側二車線の左折・直進レーンなので、ここから転回して帰るのは難しい。それにわざわざ転回しなくても、このまま左折して適当なところでブロックを一周して帰り道に出ればいい。

 先ほどのスクーターの例もあるので後方から二輪車が近づいてきていないか確認するためだろう、マリツィカが後ろを覗いてからドアを開け、車外に出てから鞄を引っ張り出してドアを閉める。

 彼女は車体の前側を廻り込んで歩道に上がると、窓を上げたままだからだろう、こちらに向き直って手を振った――そのままステップを踏む様な軽やかなこちらに背を向けて、視界を横切る様にして横断歩道を渡ってゆく。

 背中で揺れる緩やかなおさげ髪を見送って、アルカードは信号が変わったので四トントラックが発進するのを確認してクラッチを徐々に戻しはじめた。

 交差点の角にあった個人経営のものらしい小さなガソリンスタンドが、視界の端をかすめてゆく――ガソリン価格はレギュラーでリッター当たり八十一円。葉隠北の交差点のところにあったエッソより五円以上高い。

 おまけに二十リッター以下の給油はリッター当たりプラス十円と、でかでかと掲示されたガソリン価格の下に小さく書いてある。こんな商売成り立つのだろうかと思ったが、案の定はやってはいない様だった。

 ジープもガソリンが減ってきているがここで給油する気も起きず、アルカードはそのまま交差点を左折してジープを加速させた――どうせ幹線道路まで出てしまえば、もっと値段の安いガソリンスタンドがある。

 聖堂騎士団から支払われるは年間五十万ユーロを超えるので、ガソリン代など端金ではあるのだが――まあ、品質が一定であれば安ければ安いに越したことはないし、あの店は従業員の質が低そうだ。とりあえずブースの中とはいえ、ガソリンスタンドで煙草を吸うのはどうかと思う。

 とにかく今にも荷物をぶちまけそうな四トントラックといつ転んでもおかしくないスクーターから離れられたことにホッとしつつ、横断歩道の無いところで道を渡ろうとした腰の曲がった老人に道を譲る。二匹のロットワイラーに引っ張られる様にして道路を横断した老人を見送ってから、アルカードは再びアクセルを踏み込んだ。

 さて――老夫婦宅に戻るのもいいが、恭輔が出かけていればいいのだが。昨日の調子だと、昨夜に続いて昼間もサメ映画三昧になりかねない――ほどほどにして家族をかまってやらないと、嫁さんに怒られるぞ。

 胸中でつぶやいて、アルカードは幹線道路に出るために再び左折のウィンカーを出し、前方の交差点にジープを進入させた。

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