Balance of Power 30

「一冊目は棄てとけ」 と、アルカードは一瞬の躊躇も無く即答した。

 経験則からくるアルカード個人の考え方ではあるのだが――メンテナンス系の雑誌などをみると、質を度外視してホームセンターで売っている様な九十ピース入り千九百八十円といった安物を初心者に勧めるものがたまにある。

 そういった記事を目にした時点で、アルカードはその雑誌の内容は一切当てにしないことにしていた――精度の低い工具は使ったら使っただけ作業の対象を傷めるし、強度面にも不安がある。

 本来ブランド意識というのは、実用品にこそ持つべきものだ――高名な工具メーカーの製品は精度も強度も高く、使い勝手も良く考慮されていて、品質が一定しており不具合があった場合の対応もしっかりしている。

 ブランド品の女物のバッグは高級なのが値札の表示だけで実は安物だったとしてもせいぜい底が抜けるだけだが、工具は粗悪品だと下手をすると一生ものの怪我、最悪の場合死ぬことになる。

「参考にするなら、二冊目だけにした方がいい――初心者向けの記事にそんなん書いてる本は当てにならねえよ」

 千円……とぼやくフリドリッヒを横目に見ながら肩をすくめて、今度はアーモンドの香りのするテーベッカライを口に運ぶ――ザクザクとした触感とともに口の中に広がる控え目の甘みを存分に堪能してから、アルカードはテーベッカライを嚥下した。

「その手の安物は品質が当てにならない――工具は精度と強度が命だ。犬小屋を組み立てる程度の日曜大工ならまだしも、本格的な車いじりをするなら害にしかならないだろうな」

 そう答えて、アルカードは腕組みした。

 オートバイならSP忠男など、ファクトリーやショップの独自セレクトの工具セットがちょくちょく売り出されているのだが、車の場合はちょっと聞かない――たぶんアルカードが知らないだけなのだろうが。

 ただ京都機械工具の様なトップメーカーは、素人の車いじり向けにひととおりの工具を揃えたセットを組んで売っているはずだ――高くつくが、安物の工具でボルトやナット類を傷めるよりはましだろう。それに、ばらで買いそろえるとその三倍の金額がかかる。

「本格的にやるつもりなら、京都機械かなにかのセット工具を買った方がいい――個別に揃えると高くつく。否、セットで買っても十分高いが、バラで買うよりは割安だ。ホームセンターで売ってる様な、一山いくらのセットはやめたほうがいい――本格的にやるつもりでもそうだし、片手間にやるだけのつもりならなおのことな」

 そう答えて、アルカードは庭側の壁のほうに視線を向けた。

 視線の方向には、池上の整備工場がある。彼の工場には、確か京都機械工具のカタログがあったはずだ――否、カタログだけならスナップオンや山下工業研究所、前田金属といったほかのメーカーのものもあるのだが、スナップオンは高すぎるし山下工研はソケットツールの専業でそれ以外の工具も含めたセットは出していない。

 やっぱり手頃なのは前田金属と京都機械だよなあ――

 アルカードは片手間に読んだカタログの内容を思い出しながら、

「日本車をいじるぶんには、そういう工具セットだけで十分だと思う――少なくとも通り一遍のことをやるぶんにはな。国内で販売されてるセットは国産車の整備を前提にパッキングされてるし、必要なサイズの工具はだいたいそろってるから」

 昔池上から言われたことを頭の中で反芻しつつ、そう続ける――アルカード自身はバラの工具を買い集めてそろえたので、メーカーもばらばらだしサイズが重複している工具もいくつかある。いわゆるメガネレンチを、フラットからハーフムーン、クランク型やオフセット角度が異なるものを数種類持っていたりと、そんな感じだ――ただ単に形状がまるで違う工具を複数持っているだけで使い道はちゃんとあるので、気にしたことは無かったが。

「そうか――ん? てことは、あんたは変わった工具をわんさか持ってるのか?」

「まあ、何十年も車いじりとかやってれば、スタンダードなのから妙ちきりんなのまでいろいろそろうもんだよ」 ばらで買ったからすげえ金かかったけどな――苦笑しながらそう返事をして、アルカードは肩をすくめた。

「ま、さすがに大型のプレス機なんかは持ってないけどな――池上さんのところに酒の一本もぶら下げていけば、使わせてもらえるから」

「じゃあ、その工具セットのほかに買っといたほうがいいものは?」 そう話を振られて、アルカードはちょっと考え込んだ。

 ドライバーやソケットレンチはセット内容に組み込まれているはずだから、特段には必要無い――重整備をするなら必要だろうが、今から始めようという初心者に毛の生えた様な素人なら必要無いだろう。

「別に無いな――重整備をするなら必要だろうが、とりあえずは必要無いだろう。小佐々さんのところの車なら、消耗品は全部交換してあるだろうから、喫緊で必要になることはまず無いはずだ――そんな作業に使う様な工具は、使用頻度が低すぎて初心者が買いそろえる意味は無いよ。もし必要になったら、事前に声をかけてくれれば出してやるさ」 アルカードはそう答えて、テーベッカライに手を伸ばした。

「ああ、ひとつだけいいか。フラットタイプのストレートのメガネレンチを、探して買っておいたほうがいい」 思い出して、そう付け加える――ふんふん、とうなずきながら携帯電話を操作していたフリドリッヒが、メモを取り終えたのか携帯電話を折りたたんだ。

「今ついてる純正のオーディオをはずして後付けのカーナビに交換したいんだけど、手間がかかるかな?」 というフリドリッヒの質問に、アルカードは顔を顰めて適当に手を振った。

「その作業は自分でやらないほうがいいだろうな――ビートのセンターコンソールは幅が狭いし、ちょっと形状が違うから、一般的な社外品のオーディオやカーナビを組み込むのにはアダプターが別にいるんだ」 以前池上から聞いた内容をそのまま繰り返しながら、ソファーに座り直す。

 一般的なカロッツェリアやケンウッドといったメーカーが発売しているカーオーディオは、DIN、ドイツ工業規格に基づいている。

 カーオーディオのDIN規格は自動車のダッシュボードに設置するカーラジオの外寸のサイズ規格として始まったもので、操作パネルの幅が百八十ミリ、高さが五十ミリのものを1DIN、高さ百ミリのものを2DINという。

 のちにDIN75490として規格化され、一九八四年に国際標準規格、ISO7736として採用された。

 日本国内外の多くの車種ではセンターコンソールにDIN規格に基づくオーディオの設置スペースを設けている場合が多いのだが、インテリアデザインの都合上これらを採用していない場合もある。

 具体的にはホンダのビートや、スズキのアルト・ラパンなどだ――ほかにもあるのかもしれないが、アルカードはほかの車種までは知らなかった(※)。

「そうなのか? じゃあそのアダプターを買えばいいんだな?」

「そうなんだけどな。おまえがつけたいのがカーオーディオならいいんだけど、カーナビとかを取りつけるのは、正直面倒臭い――前に大使館にいる俺の弟子の外交官用公用車のカーナビ取りつけを手伝ってやったことがあるが、すげえ面倒臭かったぞ。あれは人任せにしたほうがいい」 もしくはポータブルな――そう続けると、フリドリッヒは顔を顰めた。

「そんなに面倒なのか?」

「ああ。カーオーディオと違って、ちょっとハーネスはさんでつけ替えればいいだけじゃないからな。車速センサーに配線をつないだり、受信機を設置したり、機種によってはバックカメラを設置するためにあっちはずしてこっちはずしてついでにそっちもはずして、おまけに足元にもぐりこんで。すごく面倒臭い――人がやってるのを見てるぶんにはへーほーふーんですむが、自分がやるのは二度とまっぴらだ」 内装を傷つけてしまった嫌な思い出に顔を顰めつつそう答えると、フリドリッヒはうなずいた。

「わかった。自分でやるのはあきらめる」

 そう言ってからフリドリッヒはふと思い出したかの様に、

「ETCは?」

「セットアップが要るから、最終的には業者の介入が要るよ――組むだけならたいしたことないが、単体で譲ってくれる業者が無いんじゃないかな? 試したこと無いからわからねえ」

 俺は最初から池上さんに頼んだから――そう続けて、アルカードは再度テーベッカライに手を伸ばした。

 

   *

 

 カーテンが風で揺れて、隙間から高く昇った陽光が差し込んでくる――すでに下校指示が出て三十分ほど経過しているので教室の照明は電源を落とされ、室内はそこそこ暗い。薄手のカーテンが外の光を透過するので、見通しが悪いというほどでもなかったが。

 これが普段なら思いがけない早期の下校に喜んでどこに遊びに行こうかと考えるところだが、町中を熊が闊歩している状況とあってはそんな気にもなれない。

 一応、校舎の四階にある教室にとどまっているのには理由があった――下校指示が出たものの羆の闊歩する校外に出る気にもなれず、事態が落着するまでしばらく待機しておこうということで数人の友人たちと話がまとまったのだ。

 それに学校の校舎内であれば、四階の教室は窓の外に逃げて廂の上に逃れれば、羆は到底追ってはこられないだろう――そんな計算もあって、彼女たちは下校せずに教室にとどまっていた。

 マリツィカが持っている携帯電話が知らない番号の着信で鳴ったのは、教室の入り口の引き戸を注視しながら教室で話をしていたときのことだった――友人ともども学校内にとどまっていたマリツィカは、机の上で振動してがたがたと音を立てる携帯電話に手を伸ばした。

「誰?」

「知らない番号」 先に帰った同級生の席に勝手に座っていた友人――日本人だ――の質問にそう答えて、マリツィカは通話ボタンを押してから携帯電話を耳に当てた。

「はい」

「マリツィカか? 俺だが」 聞き覚えのある低い声が、スピーカーから聞こえてくる。

「アルカード? どうしたの?」 そう尋ねると、電話の相手――アルカード・ドラゴスは一瞬考え込む様に沈黙したあと、

「おまえを迎えに行ってくれと、母親から頼まれた――今まだ学校にいるのか?」

「うん」

「なら、俺が行くまで学校から出るな――あと二、三分で近くに着くから、到着し次第連絡する」

「あ、ちょっと待って!」 それでアルカードは通話を切ろうとしたのだろうが――マリツィカが呼びかけると、アルカードは再び会話に戻った。

「どうした」

「その、今友達が一緒にいるの――ちょっと遠回りになるんだけど、一緒に連れていってもいい?」

「何人だ?」 アルカードの返答は、それだけだった――是とも否とも言わず人数を確認してきたということは、連れていける人数なら引き受けてもらえるのだろう。そう判断して、マリツィカは周りの席に着いている友人に視線を向けた。

「わたしのほかに三人」

「わかった」 それで通話が切れて――マリツィカは手にした携帯電話を折りたたんだ。

「どうしたの、マリ? 今の、誰?」 と尋ねられて、マリツィカはちょっと考え込んだ。本条兵衛には従兄弟だと言ってごまかしたが、さて、彼女たちにはどう説明してごまかしたものか。嘘をつくのは気が進まなかったが、だからといって事情を正直に話すのも問題なのでやめておく。

「今うちに来てる、親戚の男の子――お母さんに言われて迎えに来てくれるんだって。みんなも一緒に乗せてってほしいって頼んだらオーケーが出た」

 それを聞いて、正直帰りの足に困っていた友人たちはほっとした様に表情を緩めた――特に前の席に座っていたおさげ髪の少女、片平由香は駅から電車とバスを組み合わせて通学しているので露骨にほっとした様子を見せていた。この時間帯はバスが少ないし、そのバスだって動いていないだろう。

 かといって、羆が街中を闊歩している状況で駅まで歩いていくのは無謀すぎる――それどころか電車も止まっていたら、無防備のまま駅にとどまることになる。残りのふたりもマリツィカと違って徒歩通学なので、歩きで家まで帰るのに逡巡があったのだ。

 さらに数分が経過したところで、再び携帯電話が呼び出し音を鳴らす――先ほどと同じ番号だった。

 あとで登録しておこう――そんなことを考えながら通話ボタンを押して電話に出ると、先ほどと同じあまり抑揚の無い抑えた声が聞こえてきた。

「今正門前にいる」

「わかった。すぐに行くね」 そう返事をして電話を切り、マリツィカは帰る用意をしたままにしていた鞄を手に取った。

「親戚の人、もう来たって? 早かったね」 隣の席に座って机に上体を突っ伏していたロングヘアの少女――手島紗希が上体を起こしながら、そう声をかけてくる。

「うん。正門前に車を止めてるって」

「じゃ、待たせたら悪いね。行こう行こう」

 マリツィカの席をはさんでゆかりの反対側に座っていたショートカットの少女、古谷静が床に踵を叩きつける様にして勢いよく立ち上がった。

「そうね」 由香が同意して、席を立って鞄を手に取る。

 誰もいない廊下を足早に駆け抜けて一階まで降り、正門前の前庭に面した昇降口で靴を履き替えて外に出ると、一番最初に外に出た紗希が声をあげた。

「あ、あれかな」

 彼女のかたわらに近づいて、マリツィカは小さくうなずいた。

 見覚えのあるジープ・ラングラーが正門の近くに駐車されており、その車外でフロントフェンダーにもたれかかる様にして、獣の尾を思わせる長髪の青年が体重を預けている。

「そう、あの人」 と答えるマリツィカの視線の先で、アルカードが門の脇の花壇でうずくまっていた猫に手を伸ばしている――生徒たちに餌づけされるうちにすっかり花壇にいついてしまった黒猫は、アルカードの差し出した指先を厭がってか塀の上まで駆け登ってしまった。

 アルカードが肩をすくめて、再びジープのフェンダーにもたれかかる。

 あらためて見てみると、やや甘さに欠けるもののなかなか整った顔立ちをしている――若さのゆえなのか顔の大火傷はほぼ完全に癒えて傷跡も残っておらず、出かけたときに義眼でも入れたのか洞の様にがらんどうだった左目にも今は眼球が収まっている。

 そうやって外見から負傷の痕跡が完全に消えてしまうと、子供や動物を相手にしているときの表情がとてもいい雰囲気に見えるのだ。

 火傷のせいで引き攣っていた顔も完全に治癒してしまうと言葉遣いは相変わらず愛想に欠けるものの表情は豊かで、今の様な穏やかな表情を見せることも多くなってきていた。

「へぇ、よさそうじゃん、あんたの親戚」 ちょっと面食いなところのある紗希が、そんなコメントを口にする。

「じゃ、行こう行こう。待たせちゃってるし、それでなくても迷惑かけるのに」 静がそう言って周りを促し、マリツィカに先に行く様に促して歩き出した。

「アルカード」 声をかけると、それまで塀の上の猫に注意を向けていたアルカードがこちらを振り返った。

「ごめんね、わざわざ迎えに来てもらって。この子たちを一緒に乗せてって、送っていってあげたいんだけど」 その言葉に、アルカードが背後にいる友人のほうに視線を向けてから小さくうなずく。

「かまわない。行こうか」 アルカードはそう返事をして、少女たちに車に乗る様に手で促した。

 友人たちが日本語が通じるのに安心したからか、ちょっとほっとした様な口調でお世話になります、と声をかけるのが聞こえた。

「すぐにここがわかった?」 助手席に乗り込みながらそう尋ねると、

「おまえの姉に住所は教えてもらった。あとはナビ任せだ」 アルカードは運転席に乗り込みながら、短くそう答えてきた。

「ところで――」

 運転席のドアを閉めながら、アルカードが後部座席を振り返る。

「アルカード・ドラゴスだ――君たちは?」

「あ、手島紗希です」

「片平由香です」

「古谷静です」 声をかけられた少女たちが、シートベルトを締めながらそう名乗る。

「よし、行こうか――君たちは、みんな一緒の方向か?」 アルカードがそう尋ねると、由香がかぶりを振った。

「ごめんなさい、わたしだけ電車に乗って帰るんです」

「君たちを送っていくことを承諾したのは俺だから、別に謝る必要は無いよ――その駅はどこだ? 北のショッピングセンターの駅か?」 カーナビの表示縮尺を広域表示に切り替えながら、アルカードがそう返事をする。

「いえ、別の鉄道会社の」 由香の返答に、静が横から口をはさむ。

「電車が動いてるかどうかわからないし、羆が捕獲されるまでうちにいたら?」 電車が一時的にでもストップしてたら、無防備のままホームにいることになるよ――という静の言葉に、由香が小さくうなずく。

「ありがとう。静の家なら駅から近いし、甘えようかな」

「それじゃ決まり。すみません、ドラゴスさん――この子はわたしの家に一緒に連れていきます」

「わかった」 アルカードは静の言葉にうなずいてからマリツィカに視線を向け、

「後ろのふたりの家に彼女たちを送り届けるのが先だが、そこまで口頭で案内出来るか?」 

「あ、じゃあわたしが」 マリツィカがなにか言うより早く、紗希が返事をする。アルカードはその言葉にうなずいて、駐車ブレーキを解除してシフトレバーを操作した。アクセルを踏み込むと、車体が滑らかに動き始める。

「じゃあ行こうか――案内を頼むよ」


※……

 余談ではありますが初期のスズキのアルト・ラパンはダッシュボードのパネル形状がちょっと特殊で、1DINや2DINのカーオーディオを取りつけるスペースが設けられているものの、純正以外のカーオーディオを組みつけようとすると難儀します。

 具体的にはダッシュボード開口部の形状がオーディオ本体と合っておらず、干渉しやすいのです。

 普通の車の場合はカーナビの露出部分の開口部形状が長方形ですが、ラパンの場合は角が丸められており、パネル部分の角を丸められた専用設計の製品でないと干渉します。ダッシュボードのパネルが巧くつかなかったりして元に戻せないこともそうですが、フロントパネルが開閉するタイプのカーオーディオやカーナビを取りつけるのは、まあ絶望的でしょうね。

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