Balance of Power 29

 

   *

 

「なあ、アルカード」 ソファの背もたれに体重を預けてふんぞり返ったままのフリドリッヒに声を掛けられて、アルカードは彼の向かいで先ほど届いた荷物を開封しながら適当に返事を返した。

「おーう?」

「このベルトなんだけどさ」

 ビートの試運転から帰ってきたフリドリッヒは硝子テーブルを囲むソファのひとつに腰を下ろし、アルカードが窓から投げ込んだまま放置していたポリ袋の中に入れっぱなしになっていたジープのベルトを矯めつ眇めつしながら、

「こうなったらやばいのか?」 自分のほうを見ないまま発された質問に、アルカードは顔を上げないまま上目遣いに彼に視線を向けた。指先が汚れるからだろう、フリドリッヒはバナナの皮の様に袋をめくり返してベルトを矯めつ眇めつしている。

 アルカードは荷物の中から取り出したパッケージを開封し、京都機械製のミラーツールを矯めつ眇めつして状態を確認しながら、

「まあ、よくはないな――少なくとも、じきに深刻な不具合の原因になる。事故の原因になりかねないたぐいのな」 そう答えて、テーブルの上に置いてあったマグカップを手に取った。

 すっかり冷めたコーヒーに口をつけて、中の液体を一気に飲み下す――さすがにみんなコーヒーばかりでは飽きてきたので、すでに利きカフェは終了してただのお茶会になっていた。

 もっとも、テーブルを囲んで上品にお茶をたしなむ、という感じでもない――すでにアルカードも甲斐甲斐しく飲み物を用意するのはやめて、各人個別にコーヒーなり紅茶なり緑茶を淹れるなり、冷蔵庫から飲み物を出すなりしてのんびりとしている。まるで酣の時間を過ぎて、中だるみの時期に入った飲み会の様だった――酒は一滴も出していないのだが。

 そんな感想をいだきつつ、アルカードは周囲に視線をめぐらせた――フィオレンティーナとリディアはダイニングテーブルで雑談をしており、パオラはソファに寝そべってソバを高い高いしている。仰向けに寝そべったソファの上でソバを可愛がりながらくねくね動いているためにTシャツの裾がずり上がって、引き締まったお腹と臍が覗いていた。

 なんだろう。あの無防備さを見てると、若いころのマリツィカを思い出すな――

 胸中でだけ嘆息して、アルカードは少女から視線をはずした――それが普段着らしいショートパンツから惜しげも無く剥き出しになった太腿の眺めがいいことは、胸中でだけ素直に認めておく。

「なにが悪いんだ?」

 目を眇めてベルトを凝視しながら、フリドリッヒがそう聞いてくる――遠視気味で本や楽譜を読むのにも眼鏡がいるフリドリッヒには、ベルトの状態がわからないのだろう。

「指で触ってみろ――ところどころにクラックがあるのがわからないか?」

「くらっく? 亀裂クラックか? ああ、言われてみると罅入ってるな」 繊細な指先でベルトの内側をなぞる様にして探ってから、フリドリッヒはうなずいた。

 追加したスーパーチャージャー用も含めて複数本あるジープのベルトはいずれも酷使に耐えかねてか、内部にグラスファイバー製の芯を数本入れて補強したゴム製のベルトの内側に細かなクラックがいくつも入っている。数は少ないが、これから加速度的に増えるだろう。

 ベルトは車種によって異なるものの、たいてい一~三本程度取りつけられているのだが、適切なテンションで張られていないと交流発電機やクーラー、冷却水を循環させるウォーターポンプやパワーステアリングの動作油の供給ポンプなどの動作不良の原因になる。

「こうなるとまずいのか?」

「さあな――命より端金が大事な奴は、たまに平気で乗ってるよ」 アルカードはそう返事をして、肘掛けから身を乗り出す様にしてテレビ台に手を伸ばした。

「俺はまずいと思うな――少なくとも金を惜しんでる場合じゃないと思える程度にはな」

 ファンベルトの亀裂による補機類の動作不良は前述したとおりだが、それとは別の問題もある――劣化したファンベルトは亀裂から、あるいは亀裂が入っていなくても、そこから破断して切れることがままある。

 ベルトが切れることによる問題自体は単にその補機類が動かなくなるだけだが、もしも破断したベルトが交流発電機オルタネーターを駆動するものであった場合は交流発電機オルタネーターが、あるいはファンベルトが一本だけのタイプのエンジンであればその時点で交流発電機オルタネーターやウォーターポンプといった補機類すべてが動作しなくなる。そうなったら、バッテリーが空になるまで走り続けたあとはエンジンが止まり、再始動も不可能になって、行きつく末路は路上立ち往生以外に無い――ウォーターポンプはタイミングベルトによって駆動される車種も多いが、タイミングチェーンが主流になりつつある昨今ではウォーターポンプがベルト駆動される車種も多く、切れたベルトによっては電源は無事でも冷却水が回らなくなってオーバーヒートの原因になる。

 さらに言えば、切れたベルトがほかの駆動ベルトのプーリーに噛み込んで破損の原因になったり、場合によっては深刻な事故に発展する危険もある(※)。

 指先が汚れたことに舌打ちを漏らすフリドリッヒに向かって、テレビ台の上に置いてあったウェットティッシュを放ってやる――液晶画面用のものなのであまり水気が無いのだが、無いよりはましだろう。

 指先の汚れを拭い取っているフリドリッヒに向かって、先を続ける。

「そういう手合いに限って人に保険も入ってないし、自分は運転が巧い、整備もちゃんとやってるって勘違いしてるもんだがな。とりあえずあれだ、整備不良で事故ってひとりで死ぬのはかまわんが、周りを巻き込むのはやめてほしいよな」

 近くを走っていた整備不良車の自滅に巻き込まれて廃車になった、買って三日の新車の思い出に顔を顰めながら、アルカードは続けた。

「おまえはちゃんと任意保険入っておけよ――あれ大事だぞ」

「ちゃんと加入してきたから大丈夫。あんたのエリーゼのときはひどかったもんな」

「111Rのことか? 古傷をえぐるな、頼むから」 アルカードは嘆息してから、

「だいたい俺の例を挙げるまでもなく、おまえも散々な目に遭っただろ――それで前のMGF、駄目にしたじゃねえか」

「まぁな」 フリドリッヒはそう答えて溜め息をつくと、アルカードが硝子テーブルの上に置いたティーカップを手に取った。

「アルカード」 それまで向かいのソファに寝転がってソバをお腹の上に乗せていたパオラが、上体を起こしながらそう声をかけてくる。

「エリーゼってなんですか?」

「俺の辛い思い出だ」 アルカードはそう答えて嘆息してから、右手でガリガリと頭を掻きながら、

「何年か前に新車で買った、ロータスっていうイギリスのメーカーの車なんだが。正式にはエリーゼR、111Rってモデルだ」

「ああ、車の名前ですか」 どうやら女性の名前と勘違いしたらしい――納得した様にうなずくパオラに小さくうなずき返して、アルカードは続けた。

「ああ――買って三日目に信号待ちしてたら、整備不良でブレーキが効かなくなって後ろから突っ込んできた車に追突されて、フレームがパーになって廃車にされた」

「廃車って……三日目でスクラップってことですか。それは辛いですね」

「うむ。今思い出しただけでも心が締めつけられる」

 おまけにそいつが任意保険に加入してなくてな――嘆息して、アルカードはそう続けた。

「任意保険?」

「日本だとな、車を買うと事故で殺傷した相手に対する賠償を行う保険に強制加入させられるんだが、それとは別に物を壊したり、同乗者や自分自身が怪我をしたときの治療費を補償する保険は別に加入しなくちゃならないんだ。それは強制じゃなく任意で加入するから、任意保険だよ――で、そういう万一の状況に想像が及ばない奴が、俺のエリーゼに後方から突っ込んできやがったんだ」 欧州だと、任意保険に加入しないと定期点検通らない国もあるらしいけどな――そう付け加えておく。

「じゃあ、修理代、出なかったんですか?」 ソバを胸元に抱っこしたままでそう尋ねてくるパオラに、アルカードはかぶりを振った。

「修理代というか、この場合買い替え費用かな――出なかった、というか本人に弁償する気が無かった。保険も入れないんだから、修理代なんて出せるわけみたいな感じで――だったら車なんて乗るなよって話だが」

 そう答えてから、適当に手を振る。

「否、開き直ってる態度が気に喰わなかったから、ちゃんと追い込んで搾り取りはしたが。世の中には時は金なりって言葉もあるからな――奴に追い込みかけるために費やした時間は戻ってこない」

「はぁ……」

 アルカードのぼやきに、パオラが気の抜けた相槌を打つ。

「具体的になにをしたのかは、聞くのが怖いから聞かずにおきますね」 というパオラの返答に、アルカードはうなずいた。

 思い出は忘れておきたかったので、実はありがたかった――当時は新車価格の三倍の金額を搾り取ったものの、同じ車種を買ったらまた事故を起こしそうな気がして買い直す気になれなかったのだ。結局それは気だけにすぎず、いろんな車で事故に遭っているのだが。救いは自分に主要な原因のある事故は起こしていないことだろう。

「ま、それはともかくとしてだ」 結局思い出してげんなりした表情を見せているアルカードの気分を変えようと思ったのだろう、フリドリッヒが話題を変えた。

「アルカード、自分で車いじりしようと思ったら、どんな道具がいる?」

「ん?」 硝子テーブルの上のテーベッカライをひとつつまみ上げて個包装を剥がしながら、アルカードは首をかしげた。

 アルカードの知る限り、この音楽家志望は今まで自分で愛車を整備しようなどという発想は持っていなかった――指先の生傷が楽器演奏の障碍になるからだろうが。

「今から買うのか?」

「と、思ったんだが」 というフリドリッヒの返答に、ちょっと考え込む。アルカードが沈思黙考している間に、フリドリッヒが横から続けてきた。

「こないだ車の整備の本買ったんだよ。ちょっとくらいは自分でやりたいと思ったから、勉強しとこうと思って」

「うむ。いい心がけだ」 そう返事を返して、封を切ったテーベッカライを口の中に放り込む――シナモンの香りのするテーベッカライを咀嚼しつつアルカードがうなずくと、フリドリッヒはちょっと考えて、

「そしたらさ、『最初はホームセンターで売ってる様な安いセットでいいから数を揃えろ』って書いてあるのと、『安物の工具は品質が怪しいから、メーカー物を買って金をかけろ』って書いてあるのと二冊あったんだけど、アルカードはどう思う?」

 その質問に――


※……

 ラジエターはコアの設置場所の自由度の高さから電動ファンが主流になりつつあるので、厳密に言うとベルトを備えた車種というのはあまり残っていません。補機類の駆動ベルトをファンベルトと呼ぶのは慣習的なものです。


切れたベルトがほかの駆動ベルトのプーリーに噛み込んで破損の原因になったり、場合によっては深刻な事故に発展する危険もある。

>>作者も以前これやりました。仕事で和泉の軽自動車検査支局に中古車のミニキャブを運ぶ最中のことです。

 三本あるファンベルトのうちの一本が切れ、パワーステアリングが動作しなくなりました。幸いなことにベルトははずれて落ちていましたが、切れたベルトによっては本気で抜き差しならない事態になったり、プーリーに絡みついてエンジンが止まり破損して、最終的に人身事故に発展する可能性もありますので、皆様もベルトはまめに点検してください。外観で損傷が無くても、定期的に交換しましょう。切れると割とマジで抜き差しならない事態になるので。

 あと、先日俺の会社の顧客が一年ほどベルトを放置した結果ベルトが破断、切れたベルトが補機類のプーリーに絡みついてエンジンが破損ブローし廃車になりました。

 よい子も悪い子もみんな気をつけてね。ちゃんと定期的にチェックしないと駄目だぞ。絶対駄目だぞ。フリじゃないからね。

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