Balance of Power 28

「どうしたんですか」

「フリドリッヒが帰ってきたらしい」 フィオレンティーナが声をかけると、アルカードは駐車場へと続く扉に視線を向けたままそんな返事を返してきた。

「なにしに行ったのか、アルカードは知ってるんですか?」

「車買ったから、それの試運転テストドライブ

 パオラが質問すると、アルカードは短くそう返事を返した。思い当たることがあって、ふたりで視線を交わしてうなずきあう――アルカードがリディアを連れて病院に出かけたあとで凛と蘭と一緒にスケートリンクに行くためにアパートを出たとき、見覚えのある整備工場の主・池上が見慣れない男性と一緒に、アパートの駐車場にこれも見慣れない小さなオープンカーを駐車していたのだ。

 池上は黒い軽自動車に乗っていたから、おそらくオープンカーを運転してきた男性を連れて帰る役目だったのだろう――そこまでしか見なかったので、それ以上のことはわからないが。

 それを話すと、アルカードはうなずいた。

「そのもうひとり、野球帽みたいなキャップにサングラスかけてなかったか」

「ええ」

「じゃあ、小佐々さんだ――池上さんの工場の近所にある中古車屋だよ」 というアルカードの言葉に、フィオレンティーナは小さくうなずいた――といっても、その池上の工場にも行ったことが無いのでピンとこないのだが。

「ま、八月に車を買うのはいいことだ――いろいろ捗る」 そんなことを言いながら、アルカードは椅子に座り直した。

「どうして?」 パオラが質問すると、

「日本はこの時期休みだろ? うちの店も休みなわけで」

「ええ」 アルカードがそう返事を返し、パオラが小さくうなずいた。

「でもその休みって、確かに休日もあるんだけど、企業によっては慣習的に平日も含めて大型休暇を賦与してるところも多くてな。そういった慣習的な休暇の最中も役所とかそれに準ずる仕事は、基本的に暦通りに営業してる――ま、従業員は交代で休み取ってるだろうから、規模は縮小してるだろうけどな。つまり、休暇時期が掻き入れ時の仕事以外はだいたい休みで、でも車検場とかは普通に運営してるわけで――要するに金のかかる工場の代行に出さなくても、自分で点検とか出来る人は余分な金をかけずに車検に出せる」

「しゃけん?」

 意味がわからなかったのでそう聞き返すと、アルカードはイタリア語で言い直した。

「ああ、ごめん――法定定期点検レヴィジオーネ(※)のことだよ」

 Revisione、レヴィジオーネというのはイタリアにおける自動車の定期的な検査制度のことだ――フィオレンティーナはヴァチカンで車を持っていないので、詳しくは知らないが。

「日本の法定定期検査って、お金がかかるんですか?」 と質問したのは、親戚がイタリアの有名バイクメーカー社員、亡くなった両親がフィアットのディーラー従業員な家庭で育ったリディアだった。

「ああ。車種によっては経費だけで六万円以上とられる――それでなくても納税先はばらばらだが二重取りされてるしな。俺は一度も払ったこと無いけど」

「……税金を?」

「否、検査費用を」 フィオレンティーナの質問に、アルカードはそう返事をした。

「どうして?」 という質問を発してから、フィオレンティーナは地雷を踏んだことに気づいて眉根を寄せた。アルカードはとても悲しそうな顔をして、

「俺な、車検の受検義務が発生するほど長い期間、ひとつの車に乗ったこと無いんだよ――毎度毎度吸血鬼狩りで台無しにしたり、事故で全損したりしてるから」

「あー」 露骨に意気消沈しているアルカードをどうやって宥めたものかと思いつつ、そんな生返事を返す――が、アルカードはさっさと自分で気持ちを切り替えたらしく、ちょうど塀に設けられた扉を開けて姿を見せたフリドリッヒに視線を向けた。

 

   *

 

「――ごめんなさい、ドラゴスさん。折り入ってお願いがあるんだけど」

「は?」 蘭の頭上に手を翳し、端っこをつまんで垂らしたハンカチをゆらゆらと揺らしていたアルカードは、その言葉に視線をイレアナに向けた――扇風機の風に煽られて揺れるハンカチの端っこを掴もうとしている蘭の手が届くか届かないかの位置に生地の末端を垂らし、蘭をからかって遊んでいたのだ。

「は?」 蘭の頭上に手を翳し、端っこをつまんで垂らしたハンカチをゆらゆらと揺らしていたアルカードは、その言葉に視線をイレアナに向けた――扇風機の風に煽られて揺れるハンカチの端っこを掴もうとしている蘭の手が届くか届かないかの位置に生地の末端を垂らし、蘭をからかって遊んでいたのだ。

 視線の動きに合わせて伸ばした腕の角度が変わり、かたわらに敷いた座布団の上に座り込んだ蘭が顔の前に垂れてきたハンカチの端っこを両掌で挟み込む様にして捕まえる。

 満面の笑みを浮かべて歓声をあげる蘭の頭を軽く撫でてやりながら、アルカードは再びイレアナに視線を向けて、

「なんでしょう」

「さっきの放送は聞いた?」 というイレアナの言葉に、アルカードは眉をひそめた。

「? 放送?」 確かに、さっき電信柱に取りつけられたスピーカーからガアガアとなにか放送が流れていたのは知っている――だが古いものなのか壊れかけているのかやたら音が罅割れていて、アルカードにはろくに聞き取れなかった。

「否、聞こえてはいましたが聞き取れませんでした」 正直にそう答えると、イレアナはうなずいた。

「近くにある動物園からひぐまが逃げ出したらしいの。それで――」 そう言いかけたイレアナが、アルカードが手を翳したためにいったん言葉を切る。アルカードは手を下ろしながら、

「失礼。ひぐまとは?」

 イレアナの言葉を遮ってそう尋ね返すと、彼女は久しく使っていないルーマニア語の中から適切な単語を見つけたらしく、ルーマニア語に切り替えて言い直した。

「ursul brun、ursul brunよ――羆が動物園から逃げ出したらしいの」

「羆が?」 イレアナの言葉に、アルカードは眉をひそめた。羆はワラキア生まれのアルカードにとっては珍しいものではない――羆はユーラシア大陸全域に広く棲息しているし、当然ルーマニアにも昔から羆が棲息している。特にアルカードは――否、ヴィルトール・ドラゴスは人の血の味を覚えた羆を処分するために何度かみずから戦ったこともある。

 特にヴラド・ドラキュラ公爵が政権を執っていた時期は串刺し刑が多く行われたために、その死体を喰って人間の血肉の味を覚えた羆が人間を襲うことが多かった――ヴラド公は特に反政権的な人間を貴族から農民まで見境無く串刺し刑に処していたため、一時期は国中に串刺しの死体がぶら下がっていたものだ。

 串刺し刑の死体は腐り果てるまで葬ることを許されないため、当然それまでは野晒しで――当然そういった死体を喰った羆が味をしめて、人間を襲う様になった例も何度か見てきた。いきなり遭遇戦になって、単独で戦って殺したことも何度かある――武装していたときは首尾よく斃せたが、たまたま非武装のときに襲われて肝を冷やしたこともある。たとえ肉食獣相手でもスピードでは圧倒出来るので、丸腰であっても斃される様なことは無かったのだが。

 そんな生活を送っていたので、いったん血の味を覚えた羆の危険性は膚で知っている――少し視線を険しくしたアルカードの表情に気づいた様子も無く、イレアナは続けてきた。

「それで――人が襲われてるらしくて、学校にも下校指示が出たらしいんだけれど、ちょうどマリツィカの高校とこの家の中間あたりで目撃情報があるらしいのよ。それで、ドラゴスさんは車を持ってたわよね? もしよかったら、学校まで娘を迎えに行ってやってもらえないかしら」 イレアナが用件を告げてから、こちらの返答を待って言葉を切る――どうも先ほどから外が騒がしいのは、そのへんが理由らしい。羆が巷をうろついていたのでは、そりゃあ騒がしくもなろうというものだ。

「わかりました」 うなずいて、アルカードはその場で立ち上がった――まがりなりにも理由があって滞在している身ではあるが、約束を果たす機会がいまだ訪れない以上はただ飯喰らいの身でしかない。それくらいの要望には応えるべきだろう。

 ズボンの膝のあたりを引っ張られて、アルカードは足元に視線を落とした。アルカードのジーンズの裾を掴んで、蘭がこちらを見上げている。空いた手で布の切れ端を掴んでいるところをみると、まだ遊んでほしいのだろう。

 アルカードは苦笑いして一度その場にかがみ込むと、

「またあとでな、蘭ちゃん――帰ってきたらまた遊んでやるから」 そうささやいて頭をそっと撫でてやり、ジーンズを掴む蘭の手をやんわりと放させる。それでもまだハンカチを手に遊んでほしいアピールをしている蘭から視線をはずし、アルカードはイレアナの指示で戻ってきたらしいデルチャに視線を向けた。

「話は聞いたか」

「ええ――ごめんなさいね、面倒をかけて」

「別にかまわん――それより、彼女の学校の所在を教えてくれ。読み仮名もつけて漢字で書いてくれると助かる――小難しい読みはよくわからないからな」

 アルカードがカーナビを使って学校を探すつもりでいるのはすぐにわかったのだろう、デルチャはテレビ台の横に置いてあったメモ帳を手に取った。取引相手の差し入れなのか、『倉田精肉店』と屋号が印刷されている――その下に『変なもの屋さん』と印刷されているのは、なんの意味があるのかいささか理解に苦しむところではあった。

「遠いのか?」 テーブルの上でメモ帳に学校名と所在を手早く書き込んでいくデルチャに、声をかける――デルチャは顔を上げずに手元に視線を落としたまま、

「そんなに遠くはないわね――バスで三十分くらいかしら。停留所で止まる時間のロスが無いから、車なら半分くらいの時間で着くと思うけど」 つまり十五分そこそこか――そんなことを考えながら、アルカードは壁に掛けられた鳩時計に視線を向けた。十三時前にはマリツィカを回収して戻ってこられるだろうか。

 問題は連れ帰ってこようが学校内部にとどまっていようが、危険性はさほど変わりが無いということだ。

 ワラキア公国軍にいた若いころの経験則に則って論ずるに、成体の羆を相手に籠城を試みるのは時間の無駄だ――なにしろ成体の羆は体重五百キロ、大きな個体では六百キロを超えるのだ。家にいようが学校にいようが、あるいは外を出歩いていようがリスクは同じだ――体重五百キロの羆の打擲に、一般的な建築物の構造物は到底耐えられない。

 それがたとえビルなどの鉄筋コンクリートの建造物であっても、同じことだ――仮に外壁が耐えられたとしても、羆の脅威の前に扉などの開口部は紙の楯も同然だった。

 吸血鬼化した今なら羆の百や二百は十秒で皆殺しに出来るし、生身のままでも武器さえあれば羆の一頭や二頭は単独で殺害することも出来るが、一般人はそうはいくまい。

 遭遇し次第、積極的に殺しておくべきか――

 読みやすい綺麗な字で学校名と所在地、それぞれの読み仮名を書き込んだメモ用紙をちぎり取って、デルチャがこちらに差し出してくる。それを受け取って内容を確認してから、アルカードは廊下に出た。


※……

 法定定期点検レヴィジオーネはイタリアにおける自動車の定期検査制度のことで、新車登録車は初回は四年、それ以降は二年ごとに検査を義務づけられています。

 日本の様にいわゆる車検場があるのかどうかは、調べてもわかりませんでした。交換部品が必要な重篤な問題が無ければ、所要時間は三十分、費用は五十ユーロ程度で済むそうです。

 なお、日本の検査登録事務所は盆休み中も運営しているため、検査受験可能期間が盆休みと重なる七月下旬~九月上旬の間に車を買うと、業者が休暇中なので車が少ないことと盆休みが平日に重なる会社員は自分の休暇を使えるためにユーザー車検がとても楽です。

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