Balance of Power 12

 

   †

 

 しっ――歯の間から息を吐き出しながら、吸血鬼の一体が内懐に踏み込んでくる。

 その右手の中で照明の光を照り返した白刃が閃くのを見て取って、リディアは距離をとるために後方に跳躍した――同時に鋭い動きで繰り出されたナイフが視界を引き裂き、ステンレス製の刃が弱々しい照明を照り返して輝く軌跡を虚空に刻む。

 吸血鬼化による身体能力の向上を抜きにしても、動きは速い――なんらかの戦闘訓練か、護身術の心得でもあるのだろう。

 上体の回転を止めないまま繰り出されてきた低い軌道の廻し蹴りを、リディアはあえて踏み込みながら膝で受けた――これがアルカードの様に重装甲冑で防御を固めている相手ならともかく、平服の相手に対処するならこちらのほうが効果的だ。

「ぐ――」

 吸血鬼が顔を顰めて小さくうめき、そのまま後方に下がる――なにをされたのかわからないのか、少なからぬ困惑が目に浮かんでいた。

 四-二――確かアルカードはそんな呼び名で呼んでいたか。近接戦闘において、脚甲などをつけていない相手の格闘攻撃に対処するための防御技能のひとつだ――もっとも、アルカードの技の呼び名は残りがすべて同じ動きでも入り方によって番号名がガラリと変わったりするので、あまりあてには出来ないのだが。

 一言で言ってしまえば現代格闘技でも見られるブロック技術の一種で、ローキックにタイミングを合わせて『膝を入れる』。打撃系の格闘技によくみられる受け技のひとつで――アルカードいわく、これでやられて蹴り足を逆に折られた格闘家もいるらしい。オーヤマなんとかいう空手家の、最後の弟子だとかいう話だが。

 剣で斬り込むには、間合いが近すぎる――そう判断して、リディアは剣を投げ棄てながら踏み出した。

 突き出されてきたナイフを手の甲で払いのける様にして押しのけながら、脚が交わるほどに深く踏み込む――同時に相手の踏み込みに対してカウンター気味に撃ち込んだ掌打が、吸血鬼の顔面を叩き潰した。

 が、それを吸血鬼も読んでいたのだろう――踏み込みは浅く、さほどの手応えも無い。空いた左手でこちらの胸元を掴もうとした吸血鬼の手から逃れ、そのまま後退――敵はこの男だけではないのだ。いつまでもこの吸血鬼ひとりの相手はしていられない。

 吸血鬼がリディアを追って再び踏み込みながら、白刃を閃かせる――追撃は若干遅く、間合いは十分に開いている。浅い打撃だったが鼻を潰したらしく、鼻血が滴っているのが見えた。

 錆びた金属の様な、血の臭いが鼻を突く――そしてその臭いが鼻に届くよりも早く、リディアは行動を起こした。

 突き出されてきたナイフを保持している右手を左手で払いのけて軌道を変え、その腕の外側に泳ぐ様にして踏み出しながら、その場で一回転――そのまま右腕を鞭の様にしならせて、吸血鬼の頭を狙って裏拳を叩き込む。

 霊体に直接刻み込まれた刻印魔術の効果によって、リディアの膂力は細身の外見からは比べ物にならないくらいに強い――横殴りの打撃の衝撃で、吸血鬼の上体がぐらりかしぐ。法衣のスカートがばさりと音を立てた――そしてその音が風に溶けて消えるよりも早く、リディアは次の行動を起こしていた。

 そのままナイフを保持した吸血鬼の手元を右手で抑え込み、そのまま吸血鬼の左目の上あたりを左の掌打で殴りつける――続いて再び脚が交わるほどに深く踏み込みながら、リディアは体をのけぞらせて踏鞴を踏んだ吸血鬼の下顎を右の掌底で突き上げた。

 続いて一瞬宙に浮いた吸血鬼の鳩尾に、再接近して肘撃ちの一撃――同時に踏み込んだ足を吸血鬼の足首に引っ掛ける様にして、足を刈り払う。

 七-八-十二-六――アルカードはそう呼んでいたはずだ。彼に請うて近接格闘の技術を訓練に取込む様になってから、彼から習ったコンビネーションのひとつだ。

 為す術も無く転倒した吸血鬼の手の中から落ちたナイフが、床の上で跳ね返ってカシャンと音を立てる――吸血鬼が上体を起こすよりも早く、リディアは周囲を舞い漂う聖書のページを掴み止め、長剣に変化させて吸血鬼の頭めがけて一撃を見舞った――鼻の下あたりから後頭部まで斜めに削られ、おぞましい断面から血と脳漿の混じりあった液体を噴出させながら、吸血鬼の全身がぐったりと弛緩する。

「このあまぁっ!」 ガラの悪い怒鳴り声をあげて、別の吸血鬼が飛びかかってくる――捕まえてしまえば勝ちだと思ったのだろう、こちらの肩あたりを狙って伸ばされた吸血鬼の手をかいくぐって踏み込みながら、胴に長剣の鋒を突き立てる。

 刃渡り九十センチの長剣の刃が鍔元まで喰い込み、鎬の部分に形成された樋から大量の血が伝い落ちる――ずるりという感触とともに長剣を引き抜くと同時に、吸血鬼が含嗽音に似た水音の混じった絶叫とともに消滅した。

 数秒待たずに灰とも塵ともつかぬ様になって衣服だけ残して消滅した吸血鬼の死体にはそれ以上視線も呉れぬまま、リディアは周囲に視線をめぐらせた――少し離れたところで、アルカードが戦っている。

 次々と群がってくる吸血鬼の群れをことごとく蹴散らして、時折拳銃やサブマシンガンを据銃して視線も向けずに発砲している――そのうちの一弾が向こう側にいるフィオレンティーナに死角から襲いかかろうとしていた吸血鬼の後頭部に着弾して頭蓋を粉砕し、力無く崩れ落ちた吸血鬼の体が塵と化して消滅した。

 横から客観的な目で見ていると、アルカードが純粋に戦闘者として恐ろしく手練なのだということがよくわかる――躊躇無く真っ先に敵の直中に飛び込んでいったこともそうだが、今も着実に敵の数を減らしながら、味方へのフォローも忘れていない。

 本当は、この程度の数なら単独で十分なのだろう。これほど時間をかける意味すら無いのに違い無い――受付のところで吸血鬼数体を斃したときは、リディアたちがそれぞれひとりふたりを仕留める間に二十近い数の吸血鬼を単独で斃していたのだ。彼はただ単に、初陣のリディアたち姉妹や戦闘経験の浅いフィオレンティーナに経験を積ませるためにここに連れてきているにすぎない。

 思考を中断して視線を転じ、金切り声をあげる吸血鬼に視線を向ける――迷彩柄のカーゴパンツに黒い上着を着た、若い男だ。本格的な格闘技の心得があるらしく、踏み込んで繰り出してきたローキックが、四-二で対応出来ないほどに速い。

 吸血鬼が思った以上に俊敏な動きで、迎撃をあきらめて後方に跳躍したリディアを追ってくる――無傷で捕まえるつもりは無くなったらしく、吸血鬼は踏み込みながらこちらの顔めがけて拳を繰り出してきた。

 十分に体重の乗った、いい拳だ――眼前に翳した右腕で打撃を受け止めると、みしみしと骨がきしんだ。その激痛にリディアが顔を顰めるよりも早く、吸血鬼が右腕を引き戻しながらその状態のひねりを利用して左の廻し撃ちをこちらの脇腹めがけて撃ち込んでくる。

 撃ち込まれてきた重い縦拳を、リディアは今度は左手で受け止めた――止めた拳をどうにかしようと考えるよりも早く、伸ばしてきた右手で左肩を掴まれ、そのまま握り潰さんばかりに肩にかけた指に力を込めてくる。

 激痛に歯を喰いしばりながら、リディアは手にした長剣を短剣に作り替えた。

「こ――のぉっ!」 声をあげて、リディアは構築した短剣で吸血鬼の手首の内側を突き刺した――短剣を引き抜いた拍子に大量の血が飛び散り、肩に喰い込んだ指の力が緩む。

 そのまま短剣の柄頭で、吸血鬼の顔面を殴りつける――潰れた鼻から血を噴き出しながら上体をのけぞらせた吸血鬼の体を思いきり突き飛ばし、続いて追撃をかけようとしたとき、吸血鬼が手を伸ばしてこちらの胸元を思いきり突き飛ばした。

 下手に逆らうと体勢を崩すので、そのまま後方に飛びのいておく――アルカードの様に組んでも離れても十全の力量を発揮出来るほどの使い手でないリディアにとっては、どのみち間合いが近すぎる。

 突き飛ばす動作の体重移動が大きすぎて、こちらがさっさと後退したために姿勢変化に対応出来なかったのだろう、吸血鬼が前のめりに踏鞴を踏んだ――そしてそのまま、弾かれた様にこちらの足元めがけて突っ込んでくる。

 今度は後退動作が間に合わない――相手の突進を止めるために、リディアは吸血鬼の顔面めがけて前蹴りを繰り出した。鋼鉄を仕込んだ頑強な戦闘用の長靴の爪先が吸血鬼の顔面に突き刺さり――しかし動きが止まらない。

 否――攻撃が当たらなかったのだ。吸血鬼が眼前に翳した左手で、蹴り足の爪先を掴み止めている。

 吸血鬼は両手でリディアの爪先と踵をかかえ込む様にして捕まえ、そのまま蹴り足の内側に向かって上体ごとひねり込んだ。そのまま体側から床の上に倒れ込み、そのまま寝返りをうつ様にして回転してリディアの蹴り足の足首を捩る。

 しまった――七-四-三?

 時間が――

 焦燥に意識を焼かれながら、リディアは小さくうめいた。なすすべも無いまま捩られた足に引きずられて、体ごと回転しながら床の上に倒れ込む。

 捕まえられたままの足を振りほどこうとして、リディアは激痛にうめき声を漏らした。捕えられた足首が痛む。投げに対応するための転身動作が遅れて、足首と――もしかすると膝も傷めているのだ。

 うつ伏せに近い体勢で体側から倒れ込んだリディアの体にのしかかる様にして襲いかかってきた吸血鬼が横向きになった彼女の頭を掴み、そのまま体重をかけて床に叩きつける――したたかに側頭部を打ちつけて視界に火花が散り、脳が振動したせいか嘔吐感がこみ上げてきた。

 吸血鬼が彼女の肩を掴んで引きずり起こし、上体を仰向けにひっくり返す。

 リディアが振りほどこうとアクションを起こすより早く、吸血鬼は彼女の体の上に馬乗りになると法衣の胸元を掴んで押し込む様にして体重をかけた。

 柔道で言うところの突っ込み締めに近い――抑え込まれたリディアの顔を殴ろうと、吸血鬼が拳を振り上げる。時間をかけるとまずい――すでに首が絞まっているのだ。

 倒されたときに手放してしまった長剣には、手が届かない――それがわかっているからだろう、吸血鬼は彼女の恐怖を煽るためかすぐに拳を振り下ろそうとはしなかった。

 敵の拘束手段は片手突っ込み締め、空いた手は殴りつけるために振り上げている。上半身に厚めの生地を使ったパーカーを羽織っているために、掴むところには不自由しない――し、なにより

 アルカードが教えてくれたマウントポジションの返し方の中から、適切なものを選んで――リディアは片手で襟元を押し込んでいる吸血鬼の左肘の裏側を、右の掌で強く押し込んだ。

 人間と同じ関節構造を持つ生き物の腕を、可動範囲外に曲げることは難しい――だが、伸びた腕を可動範囲内で曲げさせるのは簡単だ。

 敵は首を絞めるために、この腕に体重をかけている――それはつまり、意図的にバランスを前に崩した体を腕一本で支えているということでもある。その状態で腕を肘関節で曲げてやれば、当然――

「ぉわっ……」 全体重をかけていた腕を無理矢理曲げられて、吸血鬼の上体が前のめりにつんのめる――逆の腕は殴りつけようと振り上げていたのだから、当然その腕で体を支えて体勢を立て直すことも出来ない。

 バランスを崩してつんのめったことで、上半身が近づいている――リディアはそのまま吸血鬼の右脇腹に、左手で保持した短剣を突き立てた。

 空中を舞っていた聖書のページを掴み止め、馬乗りになられたあとであらためて構築したものだ――視界外でページをキャッチしたし、少女たちは階下で構築した撃剣聖典をそのまま持ち込んだので、彼らは聖典戦儀がどういうものかなど正確に理解出来ていなかっただろう。

 。だから彼女を抑え込んだ吸血鬼はリディアが武器を手放した時点で安心して、周りを舞う聖書のページになど頓着していなかったのだ。

 ずぐりという手応えとともに、突き立てた短剣の鋒が吸血鬼の右脇腹に喰い込む。肋骨の隙間から滑らかに侵入した細身の短剣が胸郭に進入して肺を突き破り、吸血鬼が電撃に撃たれた様に上体を仰け反らせて水音の混じった絶叫をあげた。

 構築した短剣は針の様に細く、ヒルト護拳ポメルは備えていない――形状はアルカードの装備ロードアウトのひとつ、彼が鎧徹アーマーピアッサーと呼ぶ細身の錐剣スティレットを真似たものだ。すなわち――

 柄頭が完全に喰い込むまで短剣を押し込まれて、吸血鬼が全身を硬直させる――次の瞬間短剣が放出する魔力によって霊体構造ストラクチャを完全に破壊され、衣服とそれが絡みついた短剣だけを残して吸血鬼の身体が消滅した。

 馬乗りになっていた吸血鬼の肉体が塵に変わったことで、マウントを逃れる必要も無くなった――下半身にまとわりつく吸血鬼の残したジーンズとパーカーを引き剥がし、その間に立ち上がろうと床に膝を突き、先ほど挫かれた脚に体重をかけた瞬間、膝と足首に激痛が走った。立ち上がろうとしたもののバランスを崩し、そのままその場に崩れ落ちる。

 だがいつまでも蹲ってもいられない――戦闘はまだ決着したわけではないのだ。うめき声をあげながら、リディアは短剣を拾い上げて再び立ち上がろうと試みた。

 だがそれよりも早く背後から組みつかれて、リディアは動きを止めた。

 反応出来ないうちに右腕を捩じ上げられ、首に腕を巻きつけられる。太い腕で頸動脈を圧迫され、抵抗もままならないままリディアはその場で無理矢理引きずり起こされた。

 万力の様な力で捩り上げられた手首の急所に指を捩じ込まれて、力が抜けた指から抜け落ちた短剣が床の上でからんと音を立てる。

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