Black and Black 38

「大丈夫だって。彼の趣味がそっちなら、君には興味無いだろ」 確か十三歳以上はおばさんなんだっけ、なぁ?と陽響に声をかけると、陽響がテーブルに両手を突いてゆっくりと立ち上がった。

「もういいよ、真性でもロリでもペドでも、好きな様に呼んでくれ」 瞳に暗い輝きを湛えた陽響が、片手を懐に入れる。抜き出しかけた手にナイフのグリップが握られているのを見て、アルカードは嘆息した。

「駄目だよ、自棄にならないで」 美音が腕を引っ張り、

「物を壊したら損害賠償と休業補償な」 容赦無く続くアルカードの言葉に、陽響は表情を引き攣らせながら動きを止めた。

 彼はとりあえず手近なほうから攻めることにしたらしく、かたわらの美音に視線を向け、

「そもそもおまえのせいだろうが。誰が余計なことを言いやがったからだと思ってやがる」 不貞腐れた態度で再び着席する陽響に、

「だ、だって……一緒に住んでるし、ご飯も一緒に食べるし」

「それなら環やティティだって当てはまるだろうが……とにかくおまえはもういいからしばらく黙ってろ」 『やがる』を二回使っていることに突っ込みそこねたな――その様子を見ながら胸中でつぶやいて、アルカードはフィオレンティーナに視線を投げた。

「お嬢さんもそのへんにしとけ――さすがに傷害事件とか起こされると、こっちとしても考えざるを得なくなる」

「なにを考えるっていうんですか?」

「罰則だ。君だけ向こう三ヶ月、メイド服で勤務。挨拶はお帰りなさいませご主人様でいってもらおう」 思いきり顔を顰めるフィオレンティーナに、さらに続ける――制服は今度秋葉原で買ってくるから心配するな。

「それは違うお店だと思います」

「わたしはどっちかというと、雇用する側だったんですけど……」

 突っ込む美音とぼやくフィオレンティーナ。それで毒気を抜かれたのか、陽響が深々と息を吐いた。彼は一度咳払いをしてから気を取り直して、

「とにかくだ。俺は特殊な嗜好じゃないし、仮に恋人でも二十歳寸前だから問題無いだろう。見た目や属性に囚われて本質を見失うべきじゃない。固定概念や主観だけで目を塞いで、盲目のまま歩けば、いずれ大きな落とし穴に落ちることになるぞ」

「……そうですね。早計でした」

 そう返事をしながら、フィオレンティーナが椅子に腰を下ろす――否、でも建前上の年齢はともかく、肉体の成熟度のほうが問題だとアルカードは思うのだが。どう見ても目の前の少女は年齢通りの身体ではない。やっぱりロリコンじゃん。変態紳士さんおっすおっす。

 アルカードのいだいた割と容赦無い感想はたがいに心を読むすべなど持たぬ身のうえ、若者には伝わらなかった様だった。

「話を続けよう――俺が彼岸に関わっているのは、この『友達』との腐れ縁からだ。その前から『彼岸』との関わりはあったし、知識も蓄えていた。肉体だけで『彼岸』に近づけるくらいにも体を鍛えていた。つまり俺にもこいつにも『都合が良かった』んだ」

「なるほど。そういう理由ですか」 フィオレンティーナのほうは陽響の説明で納得したのか、クレープをつつきながら小さくうなずいている――あからさまな皮肉と嫌みのこもった最後の一言を、彼女がどう解釈したのかは知らないが。

「納得してもらえたか?」

「ええ」

「都合……ね」

 口元をゆがめて、アルカードは残ったコーヒーを一気に飲み干した。

 なにがどう都合がよかったのかは知らないが――要するに顕界派遣執行冥官という使い走りを押しつけられるはずだったのは、本来この若者のほうなのだろう。

 言葉を選ばずにはっきり言ってしまえば、美音は戦闘においては役立たずもいいところだ。後方支援ではどうだか知らないが、ろくな戦闘能力も持たず、そのくせ最前線に勝手に出てきた時点で戦術的な状況判断も出来ないのは明らかだ――そんな美音をわざわざ甦らせている時点で、なにか別な魂胆があるのは間違い無い。その別な魂胆が、空社陽響なのだろう。

 美音のあの肉体は、陽響が言った通り生来持っていた肉体そのものではない。もともとの肉体から抜け出した魂を、別の肉体に封入してあるのだ。

 肉体を生かしたままで魂だけを肉体から引き剥がすことは出来ない。つまり、彼女は一度死んでいる。

 彼の言う都合とは、つまり一度死に別れた彼女を取り戻せたという意味だろう――そしてそれこそが、おそらく彼が彼岸とやらにかかわり続ける軛になっている。

 聖人でもなんでもなく素養も持たない美音に与えられた神格と霊力は、すべて外部から与えられた後づけのものだ。その気になれば、与えた力は簡単に剥奪出来る――そしてそれはすなわち彼女が再び死を迎えるのと同義だ。要するに美音は、空社陽響を服従させるためのただ単なる人質でしかない。

 陽響が残ったクレープを切り分けて、口に運ぶ。それを飲み込んでから、彼もコーヒーの残りを一気に飲み干した――備えつけのガムシロップをよっつも放り込んだ、見ているこっちが胸焼けを起こしそうなコーヒーだが、彼は平然としていた。

「さて、そろそろいいかな」 陽響が席を立って、大きく伸びをする。

「どうかしましたか?」

「そろそろ、忙しくなる時間だろ。俺たちはお暇するよ」 という言葉に、フィオレンティーナが壁の掛け時計に視線を向ける。

「もうそんな時間ですか」 フィオレンティーナがうなずいたとき、ちょうど休憩が終わったらしいアンが店の奥から姿を見せた。

「じゃあ、そろそろ俺達も仕事に戻るか」

「そうですね」 フィオレンティーナがアルカードの言葉に同意して、コーヒーカップを集めてお盆に移し始める。

「さあ行こうか、美音」

「……うん」 友達呼ばわりがいまだに納得出来ないのか、美音がぶつくさぼやいている。それを促して、陽響が店の出入り口のほうに歩き始めた。

「お嬢さん、こっち頼む」 フィオレンティーナに声をかけると、彼女は小さくうなずいた。

 それを確認して、伝票を取り上げてレジに向かう。

「合計で一万と六百円です」 そう告げると、陽響がちょっと悲しそうな顔をした――あれだけ食べたら当然なのだが。というか、ほかの店だとたぶんもっとずっと高い。

「さらば、諭吉!」 自分に踏ん切りをつける様にそうつぶやいて、陽響が紙幣と小銭を並べる。五百円玉と五十円玉二枚。五百円玉は長野の冬季オリンピックのモーグルの記念硬貨だった。

 あとで自分の五百円玉と交換して取っておこう。胸中でつぶやいて、アルカードは陽響に視線を戻した。

「はい、ちょうどお預かりします――レシートはご利用ですか?」

「要る」 ぶっきらぼうな口調でそう答える陽響に、アルカードはレシートを差し出してやった。

「それじゃ、気をつけて」 そう告げて、アルカードはフィオレンティーナが持ち切れずにテーブルに残った食器を片づけるために五番テーブルに向かって歩き出した。歩き出したところで、背後から声がかかる。

「じゃあ、御馳走様」 それを最後に、陽響の気配が遠ざかる。店を出ようと扉に近づいたところで、彼は衝立代わりの観葉植物の向こうから声をかけてきた。

「そういえば、ひとつ言い忘れてた」

「なんだい、少年皇帝?」 少し茶化す様な言い方でそう聞き返すと、陽響はいったんレジの前まで引き返してから、揶揄に気を悪くした様子もなく真面目な表情のまま一礼した。

「美音を救ってくれたこと、心から感謝する」

「ああ、そのことか」 アルカード個人としては、別段彼女を救ったという意識は無いのだが――彼の言葉はまぎれもなく誠意のこめられたものだったので、アルカードは小さくうなずいてその謝礼を受けた。

「アルカード・ドラゴス。あなたには大きな借りを作った。この借りは必ず返す。必ずだ」 それでいったん言葉を切って、陽響はどこからか取り出した名刺を二枚差し出した。

 一枚は普通の紙製で、名前と職場の電話番号だけが載ったシンプルなものだ。もう一枚はどういうわけだか、白金で作られている。シンプルにドイツ語の一文だけが記載されている。

「こっちの紙製の名刺はわかるが、この贅沢なのはなんだ?」

 我はここに在りHier bin ich――全文はおそらく『我はここに在り――よかろう、地獄の門にかけて、次は彼か、それともおまえか』。カール・マリア・フォン・ウェーバーの戯曲『魔弾の射手』の一節、第二幕『狩人の合唱』の引用だろう。

「それは折り曲げたり破壊することでGPS機能と連動して緊急サインを発するものだ。手助けが欲しいときはそれを壊せば地球のどこにいても必ず加勢に行く。騎兵隊が欲しい時は使ってくれ」

 物珍しげに矯めつ眇めつしているアルカードに、陽響はそう続けてきた。

「ふぅん、一応もらっておくよ」

「あっ、じゃあわたしもこれあげますね。つまらないものですけど、お礼」 美音がポケットを探って、なにやら差し出してくる。

「これはこれはご丁寧に」 恭しく押し戴くアルカードの横で、陽響が思いきり眉をひそめる――彼女が差し出してきたのは、珍味ジンギスカンキャラメルだった。

 そのときにはテーブルの片づけが終わったらしく、フィオレンティーナがこちらの様子を窺いに歩いてきた。彼女は横からアルカードの手元を覗き込み、

「なんですか、それ――これ、知ってます。すごくまずいって評判のお菓子じゃないですか」

 なんでこんなものを? という視線をフィオレンティーナがこちらに向けてくる。横に立っていた陽響が盛大に嘆息し、

「そういうものなんだよ」

「いいじゃないか。プレゼントというのは、もっともわかりやすい好意の形だ。自分の好みではないからといっても、邪険にしてはいけないな。……今度ライルに喰わせてみよう」

 付け加えた不穏当な一言に、フィオレンティーナと陽響がそろって眉根を寄せる。

「アルカード、今ひどいこと言いませんでしたか?」

「気のせいだろう」 適当に視線をそらしてそう答え、アルカードは名刺とキャラメルをベストの内側のポケットにしまい込んだ。

「ああ、そうだ。あとはこれを」 新たに彼が差し出してきたのは、データ用のCDだった。スピンドルに入って五十枚いくらで売られているたぐいの太陽誘電のCD-ROMで、これまた五枚百円とかで売っている様なクリアケースに入っている。

「これは?」

「中に入っているのはカテゴリーV。日本で起こった吸血鬼関連と思われる事件を扱ったデータ。日本の退魔機関から仕入れたものだから、警察や公安が把握していないものもある。パソコンに読み込ませると自動的にプログラムを構築するシステムと起動するだけでいい。あと更新の度にプログラムが勝手に判断して上書きされるルーチンも組み込んであるから、勝手に更新してくれる。一応、外部からのクラッキング対策としてデータ自体に、暗号強度2048のプロテクトがかかっているから、自分で流出させない限りは漏洩もしないようにしてある。つまり、数時間ごとに書き換えられる2048ビットの暗号を用いた情報を限定した、P2Pみたいなものだ」

 要するにデータベースの一種らしい――自動更新されるのか、それとも一回きりのものなのかまではわからないが。

「なんの話ですか?」 事情を把握していないフィオレンティーナが、そう声をかけてくる。

「あとで説明する」 そう答えてから、アルカードは再び陽響に視線を戻した――CDケースをレジカウンターの上に置いて、

「とりあえず、もらっておく。しかし、どうして俺が噛まれ者ダンパイア狩りをしているとわかった?」

「利害の一致という言葉を使ったのはあんただろう。それに特別な理由も無く酔狂だけで吸血鬼を屠ったにしては、あんたが来た場所は遠すぎるし、動機として薄いじゃないか」 あの街は多少離れているが、アルカードの縄張りの範囲内だ――彼がそこらをうろついて縄張りを荒らしている魔物を殺しに行くのは、別段珍しいことではない。自分の『領地』を荒らされるのは気分のいいものでもないし、自分の知人に被害が行っても困る。

 なにより本来の獲物である噛まれ者ダンパイアどもの被害であるのかどうかが紛らわしいので、アルカードは近隣の魔物は吸血鬼か否かにかかわらずに積極的に狩って回っていた――対象が吸血鬼であろうとそうでなかろうと、一匹潰せばそれだけ次の獲物を探しやすくなる。

 だがそれをわざわざ説明する必要性を見いだせなかったので、アルカードはなにも言わなかった。

「それに――あんたの名前には聞き覚えがあるよ、ヨーロッパ欧州最強の同族狩り、吸血鬼アルカード。思い出したのは今だけどな――なんで日本にいるのかは知らないが」

 その言葉に、唇をゆがめて笑う。

「君は賢いな、少年」 そう声をかけると、陽響は顔を顰め、

「その呼び方はやめてくれ――そう言ったはずだ」 アルカードはその返答に、適当に肩をすくめた。

 CDを軽く掲げて、

「だがいいのか? 君が自分で使うためのものじゃないのか」

「同じものはあとからいくらでも用意出来る。それそのものが必要なわけじゃない」 陽響はそう答えて、踵を返して背を向けた。

「それじゃ」

「また来てくれよ」 背中に声をかけると、陽響は扉を押し開けようとする手を一瞬止めた。

「ひーちゃん?」 動きを止めた陽響に、美音がそう声をかける。

「吸血鬼は信用出来ないか?」

「いや……また来るよ。今度は妹たちと」 肩越しに返されたその返答に、アルカードは少しだけ口元を緩めた。

「ああ、待ってる」 その言葉を最後に、陽響は扉を開けて店を出ていった。

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