Black and Black 22

 国家保安部秘密警察セクリタテア――

 一九八九年の民主主義革命による政権転覆までの三十五年間ルーマニア社会主義共和国を一党独裁で支配していた共産党政権下において、内務省が傘下に置いていた秘密警察である。ルーマニア主義共和国なのになぜ党なのかという点は、まあ気にしても仕方が無い。あのカビの生えた出来損ないの思想を頭から信じ込んでいる連中の思考に、整合性など求めるだけ時間の無駄だ。

 共産主義政権下においては国営孤児院出身者から特に秀でた子供たちを選抜して洗脳・教育と特殊訓練を施し、幹部候補や秘密警察の工作員として共産党に迎え入れるということが日常的に行われていた――国家保安部秘密警察セクリタテアはそういった生え抜きの共産党員を主体に構成された秘密警察で、共和国はこの組織の設立後、徹底した監視社会になった――当時を知る人々の間では、『街中のカフェやレストランには必ず盗聴器が仕掛けられていた』と言われている。

 一九六五年、ニコラエ・チャウシェスクが共産党書記長に就任したあとはセクリタテアの猛威は一層激しくなり、孤児院の子供たちを洗脳して幼少メンバーに加えると同時、彼らを全国の小学校に間諜として送り込み、政府への政権への不満に関する情報を政府に報告させるという様なこともしていたという。

 日本でいえば、平家が子供を間諜に放っていた禿童かむろの様なものだ――装備と命令系統が行き届いているぶん、セクリタテアのほうがタチが悪いが。

「兄上は?」 アルカードが質問すると、老人はかぶりを振った。

国家保安部秘密警察セクリタテアに捕らわれて――少なくとも当時の家には、捕まって以降帰ってこなかった」

 その返答に、アルカードはうなずいた。予想出来た答えだ――共産主義政権の秘密警察に嫌疑をかけられることは、その嫌疑の虚実にかかわらず処刑と同義だ。

 血統だけを判断基準に無能が幅を利かせる貴族社会もろくなものではないが、権力に酔った馬鹿がのさばる共産主義や社会主義も同様にろくなものではない。

 世の中に共産主義や社会主義に夢を見る者は多いが、実態は体制を覆して自分が権力を握りたい者たちが足りない手駒を補う手段として民衆を騙して都合のいい手駒にするための、ただ単なる題目でしかない。

 だから美辞麗句と理想論をすらすらと並べ立て、いざ権力を簒奪して自分が頂点に立つとそんなことは忘れたかの様に傲慢に振る舞う――北朝鮮、ロシア、中国にキューバ、そしてルーマニア。

 どうせ実行するつもりが無いから理想論や綺麗事、大言壮語を吐くのもそうだが、真っ先に手をつけるのが秘密警察の創設であるのも共通だ――今度こそ、我々の手で理想社会を!と標榜する連中が出てきたら困るからだ。

 故郷の当時の様子を直接には知らないが、当時の国民はさぞかし苦労したことだろう。

「すまんな」

「なにがだね?」 突然の謝辞に、老人が軽く首をかしげてみせる。

「否、なんでもない」

「話を戻そう。そういう事情で外国をいくつか転々として日本にたどり着いた――ここに店を開いたのが、二十年ほど前だ。正確には覚えてないが」

 老人はそう言って小さく息を吐くと、

「何年もかかったがなんとか難民の認定を受けて、日本語の教育と就労支援を受けて――独立して店を開くときに金を借りた銀行が最近潰れてね。最近といっても一ヶ月ほど前の話だが。どうもその債権の一部が、さっきの連中に渡ったらしい。といっても完済直前だったんだがな――あと十五万円で終わりだったから、それを支払って終わりにしたはずだったが、さっきの連中がはじめて来たのが、一週間ほど前のことだ」

「内容に関しては聞く価値も無い様なことだったんだけど」 いいタイミングで戻ってきたデルチャがお盆に載せたグラスをコルクのコースターの上に置いて出してくる。冷凍庫に入れて冷やしてあったものらしいグラスの表面に張った霜が、内容液の熱の伝播で徐々に取れているのがわかった。

「債権を買い取った時点でヤクザの金融の利率に借金額全体の利息が変わるから、あと八百五十万円債務があるんですってよ――笑っちゃうわ」

 デルチャの現代口語は、正直に言ってアルカードにはまだわかりづらい――日本にいて一年になるが、どこかに定住していたわけではないので、日本語でまとまった会話をする機会がほとんど無かったのだ。

「本来は、いくら借りたのだ?」

「ヤクザそのものじゃなく銀行に借りたのは、千五百万円そこそこだったかな」

「……千五百万円というのは、借入金のことだよな? 借入金を完済して、そのうえで残債が八百五十万? そんな雑な勘定が、いくら犯罪者に甘いこの国でも通用するのか?」

「普通は通用しないんでしょうけどね」 そんな返事をして、マリツィカが溜め息をつく。

「どうして警察に相談しない? 相談しても動かない理由がなにかあるのか?」

「相談はしてる。わたしの夫のお父さんがこの街の警察署長なんだけど」

 デルチャがそんな答えを返してくる。アルカードはそれを聞いて眉をひそめ、

「すまないが聞き慣れん言葉だ。出来れば英語かなにかで頼む」

「Head of Police Station」 と、横からすらすら答えてきたのはマリツィカだった。

 警察署の頭領――英語で言う警察署長か。

「警察署長……つまり、貴方の娘婿の父親がこの街の警察の長なのだろう? そんな好条件があるのに、なぜゴロツキの群れひとつ始末出来ない?」

「そのヤクザの身内に、国政の代議士がいるの――それも警察の上層部に。どうも違う方向から圧力がかかって、手出しが出来ないみたい」

 国政の代議士――国会議員か。

「警察に圧力をかけられる立場に、犯罪組織の身内がいるのか? 世も末だな」 そうぼやいてから、アルカードはアレクサンドルに視線を向けた。

「で、それに関して、貴方は俺になにを期待している? そんな馬鹿どもにつき纏われているうえに、それに加えてさらに余計な厄介事を引き入れるつもりなのか?」

「さっきのとおり、あの連中、私が知らない間に家に入ったりしてきている。今日の様に家族に手を出しおったのははじめてだが――おまえさんは相当荒事慣れしている様子だし、おまえさんがいれば、一時期でもあの連中をどうにか出来るんではないかと、さっきそう思ってね」

「用心棒というわけか? 怪我人だとわかっていて用心棒に引き込むとは、相当追い詰められているらしいな」

「ああ」 若干皮肉の混じったアルカードの言葉を、アレクサンドルはあっさりと首肯した。

「実際逼迫はしとるよ。仕事にも影響は出てるし、マリツィカの学校生活にも問題が出かねない。そもそもそれ以前に、このままだと本当に日干しにされかねんからな」

 それを聞いて、アルカードは思いきり顔を顰めた。要するにこの男は、『あの馬鹿どもに対する用心棒としてしばらく逗留していけ』と要求しているのだ。

 たしかに、今の最悪の体調であっても、あの程度の殻潰しどもならば退散させるのに苦労は無い。今すぐに乗り込んで、全員挽肉にするのも容易い。

 だが、それ以前の問題だった――もちろんあのごろつきどもを皆殺しにするわけにもいかないだろうし、アルカードがここに留まればそれとは違う意味の厄介が増えそうだ。

「すまないが、俺が去るよりとどまるほうが問題はさらに増えると思う」

「そう言うな――弁護士かなにかを見つけて、連中を訴える目処がつくまでの間でいい。そうだ、なんなら報酬を払って雇うという形にしてもいい」

 どうも聞く気は無いらしい。訴えかける様な切実な眼差しでこちらを見つめているマリツィカと我が子がいるからだろう、妹よりもさらに切実な眼差しでこちらの顔を注視しているデルチャを見比べてから、アルカードは小さく息を吐いた。

 今の状況では、高位の吸血鬼を相手に十全の戦闘を行うことは難しい。だが、追ってきた三匹程度の吸血鬼であれば百人一度に相手にしても皆殺しに出来る程度には回復している。

 グラスの中の麦茶に浮かぶ氷に、ぱきりと音を立てて亀裂が走った。

「わかった。さほど長期間とどまるのは無理だが、それでもいいなら引き受けよう」 そう答えて、アルカードは麦茶に口をつけた。

 

   *

 

「ところで――」 アルカードが運転するジープ・ラングラーの助手席で、リディアはハンドルを握る吸血鬼に視線を向けた。

「騎士エルウッドは、今日は呼ばなかったんですか?」

 あたりは照明の無い黒々とした森に覆われた山道で、白いセンターラインを引かれた曲がりくねった道路のところどころに設けられたガードレールに貼りつけられたオレンジ色の反射材が、鬱蒼とした林縁を照らし出す高輝度放電式ディスチャージヘッドライトの閃光を跳ね返している。

 カーステレオの音量が大きすぎると判断したのだろう、アルカードは手を伸ばしてカーナビの音量ボタンを何度か押してから、

「ライルか。あいつは今連絡がつかないよ」 神経質に視線をそこかしこに向けながら、アルカードがそう答えてきた。彼はコーナーに入るためにスピードを落としながら、

「ライルは今台湾に行ってる――まあ、明日中には戻ってくると思うが」

「任務ですか? わたしたちには声がかかりませんでしたね」

「ただの家族連れの物見遊山だよ――餞別を持たせてお土産に凍頂烏龍茶と、台湾鳳梨タイワンフォンリィをオーダーしておいた」

「台湾鳳梨?」

 パオラが口をはさむと、アルカードはバックミラー越しにそちらを振り返り、

鳳梨フォンリィというのは、向こうの言葉でパイナップルのことだ――台湾鳳梨というのはパイナップルのドライフルーツのことだな」

「甘いものはそんなに好きじゃないと思ってましたけど」

 フィオレンティーナがそうコメントする――察するに、フィオレンティーナはパオラやリディアの様に喫茶店で同席したことは無いのだろう。この吸血鬼はコーヒーが相方なら、甘いものは割と普通に食べる。

「別に。美味いコーヒーとなら、普通に食べるよ」 アルカードは運転しながら器用に肩をすくめ、

「果物も好きだよ。ドライフルーツも、保存が効くから好きだ。戦争をやってたころや、その後の旅の最中に、そこらへんで穫った果物を干したものやシカやイノシシの燻製にどれだけお世話になったかわからん」

 アルカードは妙な顔をしているリディアに向かって適当に肩をすくめ、

「しょうがないだろ? 俺は何百年も、世界中放浪してたんだからな。干物や燻製の作り方くらい覚えるさ」 そう言ったところで、アルカードは相変わらずネット包帯の締めつけがかゆいのか左手の指先でこめかみを掻いた。

「純粋に嗜好として好きな食べ物って、なんですか?」 パオラが尋ねると、アルカードは首をかしげ、

「煮込み料理の類は好きだけど」 そう答えてから、アルカードは首をかしげ、

「別段これが一番好き、というのは無いな。というか、俺が若いころの食生活を思えば、今は天国みたいなもんだし」

「若いころって、ワラキアですか?」

「ああ。当時はオスマン帝国のバックアップを受けたラドゥがワラキア公の座に就いててな。こいつがまた酷い為政者で、オスマン帝国に兵糧やら軍需物資やら要求されたらされただけホイホイ呉れてやるもんだから、当時国力は低下する一方でな。ドラキュラがワラキア公に返り咲いた当時は、そりゃ酷いもんだったよ。ドラキュラの政権復帰直後は、まともに糧食も確保出来ない有様でな――仕方が無いからそこらへんでウサギとか獲って、そればっかり食べてて栄養失調で危うく死にかけたこともある。カトリック教圏の物的支援が無かったら、オスマンとの戦役はまともな戦争にならなかっただろうな」

 支援それも微々たるもんだったが、と付け加えてから、アルカードは再びコーナーに入るためにスピードを落とした。曲がりくねって見通しが悪い割にミラーの類はほとんど無い。これでは車で走るのだけが目的で来る走り屋にはうけないだろう。

「確か、ドラキュラはハンガリーの王様に捕らわれてたんでしたっけ」 歴史の講義を思い出そうとしているのか、パオラが首をひねりながらそんなことを口にする――ヴラド・ドラキュラはその生涯において三度にわたってワラキア公国のヴォイヴォダになっているが、確か二回目は弟に位を簒奪されハンガリーを頼ってトランシルヴァニアに落ち延びたはずだ。

 アルカードは視線を向けずにうなずいて、

「ハンガリー王フニャディ・マーチャーシュだな――ドラキュラはオスマン帝国の支援を受けたラドゥに追い落とされたあと、トランシルヴァニア公だったフニャディ・ヤーノシュの息子で、当時ハンガリー王だったマーチャーシュを頼って落ち延びた。速攻でとっ捕まって幽閉されたらしいけどな――十二年間ほど幽閉されてたはずだ。余談だが、従者どもと一緒にいたグリゴラシュも、ドラキュラともども捕らえられていた」

「……グリゴラシュも?」 抑えた声でそう尋ね返したのは、フィオレンティーナだ。グリゴラシュは彼女の母親と妹、実家の使用人をことごとく殺害し、父親の死亡の原因を作った吸血鬼だから、その名前には思うところがあるのだろう。

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