Black and Black 19

 一度間合いを取り直そうとしているのか、後退した男を追って間合いを詰め、ショートアッパーに近いコンパクトな挙動の一撃――顔など狙わない。時間の無駄だ。

 顎先をかすめる様にして喉仏に撃ち込まれた貫手の一撃で、肥った男がその場で体勢を崩す――本当は一撃で喉笛を叩き潰すつもりだったのだが、浅かった。間合いが測りづらい。両目が生きていれば今の一撃で無力化出来ていたが、左目が潰れたままの状態ではそうもいかないらしい。

 小さく舌打ちを漏らして、アルカードは次撃を継いだ。股間を真下から蹴り上げられて、男が雷に撃たれた様にその場に硬直する。

 汚ぇな、まったく――胸中でつぶやいて、アルカードは蹴り足を下ろした。まあこれで死んだりはしないだろうが、たぶんもう二度と使い物にならないだろう――まあこんな穀潰しどもの遺伝子など、残ったところでなんの役にも立つまい。

 アルカードはそのまま逆の手を伸ばして、肥った男の左手首を捕った。

 一瞬で手首を捩じ上げられ、続けて足を刈り払われて、肥った男が中肉中背の男の腹の上にドスンと倒れ込んだ。腹の上に倒れ込まれて、中肉中背の男が踏み潰されたカエルみたいな声をあげる。

 そのまま太い猪首に右手をかけ、人差し指のつけ根あたりで喉仏を圧迫しながら親指と人差し指を強く押し込んで、頸動脈の血流を止める――もともと睾丸を狙った蹴りで呼吸が乱れていた肥った男は、脳への血流を止められてものの数秒で昏倒した。

 そのまま数分間脳への酸素供給を止めていれば後遺症を残すか、あるいは殺害することも出来る。

 だがそれをしているほどのいとまは無い――アルカードはその場で立ち上がり、アルカードは赤ん坊を抱いた女性を解放して向かってきた痩せた男に視線を向けた。

 懐から刃渡り三十センチ程度の、白鞘込めの短刀を抜き放っている――だがそれを振り翳すより早く、男は動きを止めた。

 ちょうど右目の角膜に触れるか触れないかの位置に、まっすぐに突き出したアルカードの指先があった――反射的に閉じかけた瞼が指先に触れる。あと一ミリ指先を前に出せば、指先は眼球にじかに接触するだろう。

 男が一歩後ずさり――それでも指先が変わらず目の表面に触れたままなことに気づいて小さくうめく。

 実際のところは、男の後退動作に合わせて頭の移動量とそっくり同じだけ踏み込んだだけなのだが――それを男が理解出来たかどうか。爪の先で角膜の盛り上がりに触れながら、アルカードは低い声で告げた。

「――失せろ」 告げた内容が理解出来たのかどうかは知らないが――痩せた男が小さなうめきを漏らす。

 だが次の瞬間、顔を覆う包帯を引き剥がして顔の左半分をあらわにしてやると、男は眼窩が剥き出しになった顔を目にして色を失った。

「今はさほど体調が優れん。相手をしてやってもいいが、これ以上続けるなら右目は確実に無くなるぞ――なにしろ左目が無いのでな。うまく見切りが出来んのだ――もう一度動いたときに、眼球をえぐらずに止める自信が無い」

 ガタガタ震えている男に向かって、アルカードは溜め息に載せる様な口調で続けた。

「続けるならば続けろ――退くなら得物を棄てて失せろ。そもそも貴様らの様な手合いは嫌いでな――女子供を犯す様な手合いは嫌いだし、それが自分の視界の中で行われてるのも我慢ならん。このまま続けたいのなら、俺としては貴様を殺すのは一向にかまわんぞ。死体の始末の方法など、掃いて棄てるほどあるからな」

 低い声で警告しながら――アルカードは男の反応を待った。

 手にした短刀を足元に落として、痩せた男がじりじりと縁側に向かって動き始める。畳に突き刺さった短刀を拾い上げ、畳の上で折り重なる様にして伸びているふたりの男に視線を落とし、肥った男の頭を軽く蹴飛ばして、アルカードは告げた。

「待て。貴様、この畳の弁償もせずに逃げるつもりか? それと、逃げるのはかまわんがそこのゴミふたつをきちんと持って帰れ。こちらで棄てるのも手間だからな」

 畳の値段などわからないからだろう、痩せた男が財布を取り出してこちらの足元に放り棄てる。床の上に投げ棄てられた拍子に、中身の一万円札の束や小銭が撒き散らされてジャラジャラと音を立てた。

 そのままふたりの男たちの体を引きずる様にして、縁側から出ていく――沓脱石の上に置いてあったサイズの合わないサンダルを履いて庭に出て、自分より体格のいい中肉中背の男と見るからに標準体重五割増しの肥った男を引きずって四苦八苦しながら痩せた男が門から出ていくのを見届けたあと、アルカードは元いた和室に戻った。

 まだ泣きわめいている赤ん坊を泣きやませようとしている女性と、布団の上にへたり込んだマリツィカを見比べてから、アルカードはさしあたってマリツィカのそばに近づいた。

「怪我は無いか」 声をかけた瞬間に緊張が解けたのかいきなり首に腕を回して抱きついてきたマリツィカに、アルカードはちょっと体勢を崩した。男に突き飛ばされたときはそれなりに気を張っていたが、今はそうではないからだ。

 強気な対応をしていても、それなりに怖くはあったのだろう。震えながらすすり泣いているマリツィカの背中を宥める様にぽんぽんと叩いてやりながら、アルカードは左手で保持した短刀をそっと床に置いた。

「おーい、あの若いのは目が醒めたかね――」

 ちょうどそのとき、どうも先ほどまでの騒ぎはまったく知らぬ様子のあの男性が廊下からひょっこりと顔を出した。

 男性がそこで黙り込む――胸があらわになるまでタンクトップをたくし上げられ、ついでに下着のホックをはずされた少女と、それを片手で抱く自分。妙な誤解を受けかねない状況ではあったが、アルカードが見るからに似つかわしくない白木の短刀を手元に置いていることで、彼は大体状況を理解した様だった。

「……礼を言わんとならんのかな、若いの」

「どうやらそうらしい」 短く答えて、アルカードはマリツィカの背中を軽く叩いた。父親が来たことに気づいたのか、今度はそっちに飛びついていくマリツィカを見送って、アルカードは立ち上がった――足元の短刀の柄を爪先で掬い上げ、空中で掴み止めてから、抜き身の短刀をどうしたものかと思案しつつ、マリツィカの背中とあられも無い恰好で飛びついてきた年頃の愛娘にとりあえずはずれっぱなしのブラをなんとかしろと命じている男性とそのかたわらにいる女性、彼女が抱いた赤ん坊とを見比べる。

「そういえば名前も聞いてなかったな。私はアレクサンドル・チャウシェスク。この子はマリツィカ、こっちはデルチャだ」 あらためて自分の恰好に気づいたのか、そそくさと向こうに行ってしまったマリツィカを見送って、老人がそう言ってくる。

「おまえさんは?」

「アルカードだ――アルカード・ドラゴスと云う」

 アルカードがそう名乗ると、アレクサンドルと名乗った男性は小さくうなずいた。

 アレクサンドルがこちらが立って動ける様になったからだろう、どこかに案内しようとするかの様についてこいと手で示した。

 しばらく考えてから、アルカードはうなずいて、彼のあとについて廊下に出た。

 

   *

 

「さて」 ジープ・ラングラーのそばまで戻ったところで大きく伸びをして、アルカードが手を伸ばしてデジタルビデオカメラの録画をストップした。ついでに運転席のドアを開けて、エンジンを切る――今夜の戦闘訓練は別段夜間戦を想定したものではなかったのと、個々の動きをもう少し見やすく録画するために、照明代わりにジープのヘッドライトを使っていたのだ。その代価として、車の周りにたかる虫がすごいことになっているが。

 ヘッドライトのスイッチを切ったところで、アルカードは手早くドアを閉めた。足元のクーラーボックスから取り出したスポーツドリンクを少女たちのほうに放ってやりながら、

「接近戦主体とそれぞれ得意な間合いで、ふたまわりやってみたわけだが――自分でなにか気づいたことは?」

 それぞれ自分の動きを反芻して答えを探しているのか、三人の少女たちが考え込む。

「まあいいさ、そいつはビデオを見返しながらじっくり考えればいい。とりあえず俺のほうで気づいたこととしては――まあ、リディアは実はこれといって欠点は見つからなかった。ハイキックはやめたほうがいいと思うが」

「……それはもういいですから」 ちょっと視線の温度を下げてそう答えてくるリディアに適当に肩をすくめ、

「あえて欠点を挙げるとするなら、ちょっと決着を急ぎすぎる傾向があることかな。敵が単独だろうが複数だろうが、別に決着を急ぐ必要は無い。敵の数が把握出来ていれば、戦い方なんていくらでもあるからな――重要なのは複数同時に相手をしないことで、敵が複数いること自体は問題にならないしな」

 うなずくリディアから視線をはずして、アルカードはパオラに視線を向けた。

「君は魔術の使いどころを、時々間違ってるな――特に召喚系のものを。あれは術式構築に時間がかかるし、無防備になる時間が長いから、術式構築中の隙を補ってくれる味方がいない状況で使うのは控えたほうがいい。敵の動きを止めたいなら、擲剣聖典でも投げたほうがいいだろう」

 パオラがうなずくのを確認してから、アルカードはフィオレンティーナに視線を向けた。

「で、お嬢さんだが――君も、ハイキックはやめとくべきだと思うぞ」 その言葉にフィオレンティーナが口を開くよりも早く、アルカードは先を続けた。

「あとな、君は正面から撃ち込まれたときに、もっぱら左に避けることが多いだろう。あの癖は矯正しとくべきだと思う」 それを聞いて、フィオレンティーナが目をしばたたかせる。

「そんな癖ありました?」

「ああ。十回中九回が左に避けてた――まあ自覚が無いから癖なんだろうけどな、自覚があるならただの習慣だし。あとは左で剣を投擲するときなんだが」

 そこでいったん言葉を切って、ちょいちょいと手招きする――近づいてきたフィオレンティーナの左肘のあたりを軽く掴むと、フィオレンティーナが一瞬体を硬直させた。アルカードはそれにかまわずに、

「左で投げるときに、瞬間的にだが『抜ける』角度がある。左腕に怪我をしたことが?」

「ええ、小さいころに実家の庭にあったブランコから落ちて骨折しました――でも、六歳のときの話ですよ。そんなの関係が――」 というフィオレンティーナの返事を黙殺して、アルカードはフィオレンティーナの左腕を水平に持ち上げた。されるがままになっている少女の腕を水平に持ち上げ、そのまま左肘を何度か曲げたり伸ばしたりしてから、アルカードはおもむろに彼女の左肘の裏側に軽く親指を当てた。

 そのまま少し力を込める――ぱきりという手応えとともに、フィオレンティーナが全身を硬直させた。思ったよりも痛かったのか、涙目になってアルカードが放した左肘をさすっているフィオレンティーナに、

「痛かったか。すまない」

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