Black and Black 13

 

   *

 

 テレビ画面の中で、主人公の女性が布団に入って眠っている――フィオレンティーナとしてはさっさと画面から視線を離したがっている様に見えたが、凛が横から話しかけるのでそれもままならないらしい。

 息子役の子供と若い女性の笑い声が聞こえたあと、今度は女の子の声が聞こえて、床に就いていた女性がむくりと起き上がる。隣の布団が空になっているのを見て、フィオレンティーナがまた全身を緊張させるのがわかった――子役がてるてる坊主みたいに首でも吊っている様でも予想したのかもしれない。

 ぎり、ぎりというきしみ音が聞こえてきて、主人公の女性が隣室に通じる襖を勢い良く開ける。

 主人公の息子役の子役が、ちょうど枯葉が大量に積もった古井戸を映したテレビ画面を前にじっと座り込んでいる――そのときにいきなりBGMが大きくなり、かたわらのフィオレンティーナがびくっと肩を震わせた。

 井戸のクローズアップが画面に大映しになって、井戸から這い出してくる頭が見えた次の瞬間、画面がノイズに変わる。

 ちょっと音量が大きすぎるだろうかと考えながらリモコンに手を伸ばしたとき、主人公のあげた悲鳴とともに横から小さく息を呑む音が聞こえてきた――視線を向けると、フィオレンティーナがソファの肘掛けを掴んでいる。所詮はなりかけヴェドゴニヤにすぎないとはいえ、フィオレンティーナの握力は生身の女性とは比べ物にならない――力加減を忘れているのか、肘掛けの部分がミシミシときしんでいた。

「……なあ、お嬢さん? 別に無理して観なくても――」 控え目に声をかけるのだが、もはや耳に入っていないらしい――どうしたものかと思いながら、アルカードは酒杯に視線を落とした。艶やかな銀器を満たす透明の液体の表面に立つ漣を眺めながら、首をかしげる。

 主人公の元夫が離島で問題のビデオに登場する女性の親族だという老人に、砂浜で話を聞いている場面をぼんやりと見ながら、アルカードは酒杯を空けてチーズ鱈に手を伸ばした。

 アルカード自身は、別段幽霊や怨霊に恐れをいだいたことは無い――そもそも生きた人間に悪影響を及ぼせるほどの怨霊に、人間の魂が堕することなどありえないからだ。

 多神教において神と呼ばれるほどの高位神霊でさえ、肉体や筺体を持たない霊体のみの状態ではものの数時間存在を維持していられないのだ――人間の幽霊など、仮に存在したとしても数分も存在を維持していられまい。せいぜいもう少しの『層』からて現世に彷徨い出てくるか、かつての自分にゆかりのあったもの、自分の所持品や肉体の残骸などを触媒に霊として細々と残り続けるくらいだ。

 怨霊そのものは存在するかもしれないが、たいした力は持っていない――仮になにかしようとしても瞬時に力を使い果たし、五分ともたずに消えてしまうだろう。

 それよりも問題は、この神城の母子の予定のほうだった――レンタルビデオ店の貸し出し袋の中身が全部ブルーレイだったということは、この母子、このままぶっ続けで四枚全部鑑賞していくつもりなのだろうか。

 ということは、夕食と犬の散歩をどうしようか考えておかなければならないだろう――とりあえず、このままだとフィオレンティーナが卒倒しそうだが。

 まるで古いフィルムの映像の様に、画面が切り替わる――どこかの講堂の様な場所でスーツを着た男が字の書かれた紙を翳し、『的中』と述べている。どうも隠された紙に書かれた文字を当てるという趣旨の実験らしいが、どうも集められたマスコミ(という言葉が作中当時あったのかは知らないが)はあまり信じていないらしい。

 ひとりが『いかさまだ!』と声をあげたのを皮切りに、マスコミが次々と立ち上がって問責の声をあげる――それまで着席していた女性が動揺したのか立ち上がり、後ずさりながら手で耳をふさいだ直後、席を立った記者のひとりがばたっと床に倒れ込んだ――どことなく粘土細工みたいななんとも言えない顔で倒れ込んだ記者を見て、なぜか白黒フィルムの中に登場している主人公の女性が動揺をあらわにする。

 どうも男は死亡しているらしく、記者たちが『化け物だ』と声をあげるのに耐えかねて退出しかけた女性が、壇の袖で動きを止めた。

『サダコ! おまえが――』

 いったん映像が海辺に戻ったあと、再び白黒の画面に戻る――見事な黒髪の少女が母親らしい着物の女性に背を向けて壇を降り、そのまま講堂の壁際にいた女性の前まで走ってきて、女性の手首を掴んだ。ぼろぼろに罅割れた爪を目にして、フィオレンティーナがびくりと体を震わせる。

 大丈夫かよ、おい……

 胸中でつぶやきつつ、アルカードは席を立った。チーズ鱈が無くなったのと、客人の食べ物が無くなったので、キッチンに常備している食糧やスナックの中から適当に見繕うために、キッチンに足を向ける。ちらりと画面を見遣るとちょうど大嵐の中で、砂浜で話をしていた白髪の男が出航準備をして出てきたところだった。

「これは、これからなにをしに行くのかしら」

「えっとねえ、貞子ちゃんの呪いを解くために死体を探しに行くの」 パオラと蘭がそんな会話を交わしている。それを聞き流しながら、キッチンの床下収納を開けて、ドッグフードの缶詰と一緒に収められているスナック菓子を適当に発掘する――問題は酒のつまみが大部分を占めていて、まともに出せるものがポテトチップ数種類(新商品をとりあえず買うのが好きなのだ)しかないことだが。飲み物が足りなくなっても困るので、備蓄の烏龍茶と野菜生活も取り出して、冷凍庫に適当に放り込んだ。

 とりあえずポテトチップとビーフジャーキーを持って席に戻ると、アルカードの手にしたものを見定めたリディアが、

「……ポテトチップとかばっかりですね」

「まあ、俺の備蓄だからな」 苦笑してそう返すと、アルカードは手にしたアルミパッケージをリディアに手渡した――足りなくなったら適当に開ける様に手振りで示してから、ジャーキーのパッケージを手に元の席に戻る。

 映像に視線を戻すと、ちょうど最初の現場の貸別荘の床下に主人公の女性と元夫の男性が入り込んだところだった――井戸を覗き込んでいる白い服の女に後ろから男が襲いかかり、鈍器で殴ってから井戸の中に突き落とす。

 井戸にかぶせられた人造石の蓋をどけて、男性がロープを垂らして井戸に降りていく。

「この井戸の中に死体があるの?」

「うん」 パオラと蘭の会話を聞くともなしに聞きながら、アルカードは横目でフィオレンティーナの様子を窺った。

 すでに死にそうな顔をしているフィオレンティーナから視線をはずして、酒杯に口をつける――元夫の男性がロープに掴まったまま周囲を見回すと、そこかしこに血のついた生爪がはさまっていた。

 どうも井戸の中身を淦汲みして、底に沈んでいるであろう貞子嬢の死体を見つけようという趣旨らしい。

「でも凛ちゃん、井戸って水が湧いてくるものでしょう? 汲み出しても意味が無いんじゃない?」

「どうなんだろうね」

「そうなの? 井戸って、ちゃんと水道管を埋設した上水道設備だって聞いたことあるけど」

 リディアと凛の会話に、デルチャがそう口をはさむ――そちらに視線を向けずに、アルカードはデルチャの誤認識を正した。

「それは江戸の下町の井戸だ――大部分は水が流れる地中の帯水層に届くまで縦穴を掘って、崩落を防ぐために石や板で内壁を固めたものだよ」 アルカードはそう言って、酒杯に口をつけた。

「そうなの?」

「ああ。江戸時代末期に日本に来たときに、倒幕派の維新志士からそう聞いたことがある。江戸の下町の大半は室町時代の太田道灌という武将の事業によって海を埋め立てて造成された地区で、井戸を掘っても海水に近い塩辛い水ばかりで使い物にならなかったんだそうだ」

 だから江戸の下町にあった井戸と一般的な井戸は、根本的に違うものだよ――そう続けると、凛がその蘊蓄に感心した様子でうなずいてテレビに視線を戻した。

 画面では男性がバケツに水を掬い、女性がそれを引き上げて井戸の外に棄てる、という作業を繰り返している。

 フィオレンティーナは最後のプライドで以って意識をつないでいるのか、ほとんど瞬きもせずにその様子を凝視していた。

「……おい、大丈夫か?」 膝に頬杖を突いてそう声をかけると、

「だ、大丈夫でス」

 とだけ、こちらを見もせずに返事してくるので、あきらめて視線をはずす――まあ、失神したらフォローする心の準備だけはしておこう。

 画面に視線を戻すと、ちょうど男性と入れ替わりに女性が井戸に降りていくところだった。どうも女性のほうが体力の限界にきたらしく、今度は女性が井戸の中に入って男性がバケツを引き上げる作業に従事する算段になったらしい――ある程度水を汲み出したところでそこに手が届く様になったのか、女性が手探りで水の底を探っている。

 女性が水の中から手を出すと、その指先になにかが絡みついていた――髪の毛だと理解したのか、フィオレンティーナが再びびくっと身を震わせる。

 次の瞬間、水の中から飛び出してきた冷え切った紫色の手が、女性の左手首を掴んだ。パオラとリディアが驚いたのか、軽い悲鳴をあげる――同時にすぐ横に座ったフィオレンティーナの口からも悲鳴があがった。

「どうしてこの人、平然と骸骨を抱っこしてるのかしら」

「人間は極限まで混乱すると、一見冷静に見えて異常な行動をとるっていうから」

 作中最大の突っ込みどころについて冷静な口調で議論しているあたり、パオラとリディアはまだ平静を保っているらしい。否、これこそがまさに極限まで混乱した人間の一見冷静なv異常行動と言えるかもしれないが。

 フィオレンティーナの様子を横目で窺うと、完全に歯の根が合わなくなってカタカタと震えている。

 さて、もう止めてやるべきか否か。悩みながらも観ているうちに主人公の女性はマンションに帰りつき、息子はまだ帰宅していないものの平穏を取り戻しつつあるらしい。

 実はホラー映画がそもそも好きなジャンルではないアルカードは、この映画をたまたまテレビをつけたら日曜洋画劇場でやっていたからという理由で主人公の女性とその元夫の男性が伊豆大島に渡るあたりから見始め、――本条家の当主が酒を持って遊びに来たために――貸別荘の床下にある井戸に潜って貞子の遺体を発見するあたりで投げ出してしまったので、この映画は結末を知らない。

 が、たぶん今ので終わりなのだろう。これが洋画なら、警察に引取られていった死体が死体安置所で再び動き出すという、次回作に向けたフラグを立ててスタッフロールに突入するだろうが。

 あとはしばらくまったりしてから、フラグ建築かな――酒杯に口をつけたとき、画面の中で主人公の元夫が肩越しに振り返った。耳障りな音とともに、画面の奥に置かれたテレビの画面に荒れ地の古井戸が映し出されている。『呪いのビデオ』とやらにたびたび出てきていた古井戸だが、その中から白い衣装を身に纏った黒髪の女が這い出してきた。

 きゃあ、とパオラとリディアが悲鳴をあげた――ここまで見たことのないアルカードも、意外にも死体発見でオチなかったことをちょっと驚きながら画面を注視する。

 黒髪の女――話の流れからすると、井戸に突き落とされた『サダコ』本人なのだろうが――が、キイキイという金属のこすれる嫌な音とともにカメラに近づいてくる。

 ぎりぎりまでカメラに近づいてきた白い衣装の女が、まるでテレビの枠に形に切り出した穴をくぐる様にしてテレビの画面から這い出してきた――それと同時に悲鳴とともに左腕になにかがしがみついて、アルカードはそちらに視線を転じた。

「……おい、お嬢さん?」 左隣に座っていたフィオレンティーナが、アルカードの腕にすがりつく様にしがみついている――すっかりおびえて涙目になったフィオレンティーナは、恐怖のあまりすがる相手が誰でもいいのか、しっかりと左腕にしがみついて画面を視界から締め出そうとするかの様にきつく目をつぶっていた。

「……」

 白い服の女が爪の罅割れた指を鈎爪の様に曲げて、匍匐する様にしばらく這いずったあとゆっくりと立ち上がる。

 フィオレンティーナの反応がさすがに予想外だったのか、凛がリモコンに手を伸ばして再生音量を下げたが、フィオレンティーナはアルカードの腕から離れようとしなかった――凛に再生を止める様手振りで示してから、彼女の肩をぽんぽんと叩く。

「お嬢さん、映画はもう終わったよ」 普段の態度ではなく子供たちを相手にするときの穏やかで温和な口調を心がけてそう言ってやると、フィオレンティーナは恐怖のあまりに本気で泣きながら再生が止まってブラックアウトした画面とアルカードを見比べてから、しゃくりあげながら体を離した。

 しっかり鍛えてはいるもののやはり女性なのか、フィオレンティーナの身体はなかなか柔らかい。感触が離れていくのはちょっと惜しくはあったが、まあどうでもいい――アルカードはまだすすり上げているフィオレンティーナの背中を宥める様にさすってやってから、デルチャに視線を向けた。

「デルチャ、レコーダーははずして持っていける状態にするから、持って帰ってくれ――ちょっと刺激が強すぎたらしい」

「あ、うん。そうする」 デルチャが首肯したのにうなずき返し、アルカードはフィオレンティーナの背中をぽんぽんと叩いてから席を立った。

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